桶狭間に立ち歴史の流れが胸をよぎる貴重な一時を過ごす

16日(14日目) 木 16度 快晴後晴れ 池鯉鮒(ちりゅう)宿 鳴海宿(尾張国) 宮宿(名古屋市
                      32,7粁(349,7粁) 
                     旅館翆明(7,500円)
7時25分、ホテルを出て快晴の橋の上から乙川越しに岡崎城が見えた。1号線に出ると直ぐ、最近作られたような大手門があった。旧東海道に入ると間もなく八丁味噌の蔵が見えた。朝ドラ、「純情きらり」の舞台となったところで、カク久のマークの入ったナマコ壁の蔵は資料館になっていたが、朝早いので観光客は居なかった。
八丁味噌蔵の資料館

 その先が矢矧(やはぎ)川で、豊臣秀吉が日吉丸と言っていた当時、この矢矧橋の下に寝ていたところを、野武士の蜂須賀小六に拾われ、その後織田信長に使え木下藤吉郎と名乗り、後に関白の位にまで上り詰めた。蜂須賀小六は後に阿波(徳島)城主となり、その子孫は現存している。二人の出世の端緒になった橋の袂にあった銅像は、現在橋の改修工事で他所に移されていた。実際は当時未だ橋は無かったようだが、ここが出会いの場所だったことは事実のようだ。
橋を渡り終えて直ぐ右に曲がると旧東海道に出る。新しく舗装されていたが、狭さは変わらず、丁度通学時間帯で、白線が引かれた狭い通学路を車に気を使いながら歩いていた。程なく1号線に出た途端、名古屋に向かう車と岡崎に入る車の洪水に見舞われた。
永安寺の松は藤枝の松同様300年物

 尾崎東交差点から旧東海道に入ると松並木が見え、岡崎海軍航空隊跡の碑と熊野神社宇頭一里塚跡があった。間もなく古びた永安寺に樹齢300年の松は襖絵に画かれた龍の様に見事な出来映えを見せていた。この辺りは工場が立ち並んでいるが、松並木は地元の方が保存に力を入れているのが良く判る。
9時45分、来迎寺一里塚を過ぎると松並木が見えてきた。1号線と交差するところに、聖マリア大聖堂が紺碧の青空を背景に、真っ白な壁に丸みを帯びた聖堂の上に十字架の尖塔が、天に向かって突き刺すように建っていた。
地下道をくぐって高速道路の下を通ると池鯉鮒(知立とも書く)の町に入る。広重が画いた、池鯉鮒の馬市があった場所で、当時この辺りが馬市として大いに賑わったところらしい。
知鯉鮒宿(のどかな馬市の風景)

踏切を渡ると、10時25分、知立の町に入る。本陣跡を探すのに手間取ったが、明治天皇の休憩場所の傍にあった。
 逢妻川に架かる逢妻橋と言う気になる名前の橋を渡ると、1号線に出るがこの辺は刈谷市トヨタの系列の会社や下請け会社が多く目に付く。また、刈谷市が本社のアイシン精機が苫小牧に進出することが決まったこともあって、アイシン精機の工場を探したが見当たらなかった。相変わらずトラックが唸りをあげて走っている。再び旧東海道に入るが、1号線とは一丁ほどしか離れていないが他所の町に来た感じがするほど静かだ。
 12時半過ぎ豊明市に入り、前後駅付近の1号線沿いに、「吉野家」があったので、珍しさもあって入ったが、肝心の牛丼は無かったので焼肉丼を食べる。
 店を出て暫く歩くと阿野一里塚が見えた。この一里塚は道の両側にあり、国の指定文化財となっている。直ぐ傍にメッキ工場があった。
 近くのスーパーで、ミレーのビスケットを買う。四国では良く食べたが、思えばこのビスケットの工場は愛知県に有る事を思い出した。そのまま直進し踏み切りを渡ると桶狭間の古戦場跡があった。
歴史の転換点、桶狭間古戦場跡 

 1時5分、桶狭間合戦場に着く。永禄3年5月19日(1560)東海一の大大名、今川義元は2万5千人の大軍を従え、時の足利幕府の将軍を補佐し、実質的に天下に号令を掛けるべく上洛の途上、桶狭間で休憩した際、豪雨の中、織田信長の率いる3千人の襲撃を受け、あっけない最後を遂げた地がこの桶狭間である。
 良く言われるように、歴史に、「若し」が有るとすれば、若しこの合戦が無かったら、または信長が殺されていれば、その後の信長、秀吉、家康の時代が無かったことは間違いのないところで、その後の日本歴史は別な方向に向かって、西洋列強の植民地と化していた可能性は無きにしも非ずで、その観点からも、歴史の大きな転換期となった一戦だった。この様な感慨に耽りながら、義元の墓に手を合わせる。
 間もなく有松絞りで有名な有松の町に入る。道の両側には有松絞りの店が並び、家並みも東海道に相応しい佇まいを見せていた。道は下り坂になり祇園寺を過ぎ踏切を渡る。
鳴海宿(有松絞りの暖簾が見える)

 何時の間にか名古屋市に入っていた。中島橋を渡ると、2時10分、鳴海宿に入る。本陣跡や問屋場跡を過ぎ、作町交差点を右折し天白橋を渡ると、笠寺の一里塚が見えた。
笠寺一里塚は街中にあるだけに貴重だ 

 この一里塚は片側だけだが、榎は巨大な根を張って如何にも、400年の東海道を行き来する人を見てきたぞ、と言わんばかりに枝を広げ、街道を見下ろしているかのように見えた。笠寺観音の傍を通り、商店街を抜けると踏切があった。
 暫く歩くと高速道路が見えてきた。その下を通り反対側に行くため歩道橋を渡ると、右側に、最近ガス中毒を起した瞬間湯沸かし器の、パロマ工業の大きな看板が見えたので、野次馬根性宜しくカメラに収める。
 1号線を進み、東海道本線跨線橋名鉄の高架を渡ると、左手に裁断橋の擬宝珠と、都々逸発祥の碑があった。
 4時20分、国道19号線に出て左折したところに、運良く不動産屋があったので、今夜の宿を探してもらい、2軒のホテルは満杯で、直ぐ裏手にある、旅館翆明を予約した。 「宮の渡し」の場所を尋ねると、19号線に架かる長い歩道橋を歩くとその先に、「宮の渡し」があると聞いたので、礼を述べた後、一先ず旅館に荷物を置いて出かけた。
宮宿(豪壮な祭りの先導が鳥居の前を走る) 

 19号線に架かる大きな歩道橋を渡った先が、「宮の渡し」だった。かっての東海道はここ堀川から舟で伊勢湾を横断して桑名に向かったが、今は陸路の道しかない。NHK「てくてくの旅」で岩本選手は地元の好意で舟で桑名に渡ったが、その乗り場から堀川越しに夕日が見えた。
昔は宮の渡しから伊勢湾を横断して桑名に向かった 

 観光用の常夜灯を背景に、犬と散歩に来ていた奥さんに写真を撮ってもらう。5時を過ぎると冷え込んで来たので、元来た道を引き返し宿に着いたのは、5時10分で薄暗かった。
 宿は中々手の込んだ造りで、大広間には甲冑や刀掛けがそれとなく部屋に置かれていた。部屋で荷物を解いてから風呂に入ったが、2ヶ所からジェット噴流が出ていたので、両足の裏を噴流に当てると気持ちが良かった。
 今日は今までで一番長い32粁の距離(四国遍路の平均距離)を歩いたので、湯船の中で足をさすりながら、良く頑張ってくれたと感謝する。
 当初は申し込んだのが遅かったので、夕食は無いとのことだったが、女将さんの配慮で、天ぷらに玉子焼きとニラレバに漬物だけの変わった料理だったが、空きっ腹には外食よりもずっと美味かった。今日も貸切だった。
 部屋に戻り今日一日の日記を付けたが、秀吉出世の端緒となった、矢矧橋での蜂須賀小六との出会いから始まり、桶狭間の合戦場と、先ほど触れた歴史の転換地をこの目で確かめた余韻が、眠気を押し留めたのか、最後まで順調に書くことが出来た。
 まさに東海道の歴史の中で最も注目された地点を体得した一日だった。

今日は旧東海道の街道を主に歩いたのでペースも速かった

15日(13日目) 水 15度 快晴強風 御油(ごゆ)宿 赤坂宿 藤川宿 岡崎宿
                     27,5粁(317,0粁)
                     BHイトヤ(5,400円)
 軽い朝食を食べた後、7時半ホテルを出る。空は晴れていたが冷え込みがきつかった。歩くペースは順調で、昨夜の味噌カツが効いたのか、または風呂のマッサージが効いたのかは判らないが、足裏の痛みはあまり感じなかった。豊川に架かる豊橋を渡り堤防脇の道に出て間もなく右側には八百屋や魚屋等の市場が並ぶ。
暫く真っ直ぐな道を進むと豊川放水路に架かる高橋の上から右手に赤い鳥居が見えたので、通り掛った人に、豊川稲荷の鳥居か、と尋ねたところ、豊川稲荷はここから5粁ほど先とのこと。緩やかな坂を登り小坂井駅の踏切を渡る。
 右手に1号線を見ながら一直線の旧東海道が並行した道を只ひたすら歩き、1号線と交差したところで、道が判らなくなったので地図を見ていると、中年の男性が、「どちらへ」と聞くので、
御油へ行く旧東海道への道を探しているが、インターネットで引出したこの地図では判り辛い」
と私の地図を見せると、
「この地図で歩いているの?これで良く今まで歩いてきたものだ」
と彼は中部建設協会発行の地図をコピーして持っているので、その地図を頼りに曲がりくねった道を二人で歩き、踏み切りに渡ると1号線に出たが、直ぐ旧東海道に入る。姫街道追分石灯籠を右に見て間もなく橋を渡り、10時、御油宿に入ると、味噌特有の匂いが鼻をくすぐる。
御油宿(男なら意思の硬さが試される飯盛女が誘い込むシーンだ) 

本陣の向いに味噌工場があった。彼は東光寺の写真を撮るというので一緒に寺に入り手を合わせる。彼は境内にあった飯盛女の墓の写真を撮る。この墓の写真を撮るため豊橋から来たとのこと。
手付かずのこの御油の松並木は貴重な存在だ 

 御油の松並木は天然記念物に指定され見事に道の両側に植えられていた。標柱が立っていたのを背景に、彼に写真を撮ってもらった際、住所と名前を聞くと、とんでもないとばかり手を振って、来た道を戻って行った。
赤坂宿(今の過疎の赤坂では想像出来ない) 

1649年創業のこの旅籠にタイミングが合えば泊りたかった 

 10時半過ぎ赤坂宿に入る。ここの大橋屋は江戸時代から続いている旅館で、かっては芭蕉も泊り、明治天皇もここで食事をしている。現在も営業しているので、出来れば泊りたかったが順調に歩いてきたので、残念だが素通りせざるを得ないのでカメラに収めていると、そこへ十数人の中年から老人までの人たちが通り掛り、この付近の観光めぐりの用紙を持って来て、一緒に回りませんかと言われたが、これから岡崎まで行くので時間が無いので丁重に断る。
1号線を右に見ながら緩やかな登り坂を通るが、相変わらずトラックが列を成して走っている。1号線と合流すると間もなく、「峠のドライブインまんぷく」があった。
 11時半、ここはトラック野郎が利用する食堂で、天丼が廉かったので注文すると、チンして持って来てくれたが、天ぷらは崩れ、味は決して美味いとは言えないが、ボリュームは十分で、「まんぷく」の名前の由来は判った。空きっ腹にお茶呑み放題が気に入った。食べている最中、大勢の運転手達が入ってきては食べていた。
食堂を出て直ぐ左への道に入ると、本宿の碑があり冠木門をくぐると、今にも崩れそうな民家が目に飛び込んできたのには驚いた。家の中にも木の枝が伸びて、まさに幽霊小屋といったところだ。本宿間宿を通る車も少なく、人の気配もなかった静寂な宿場を抜ける。
 沢渡交差点でまた1号線に出ると、防音用の塀が3米の高さで建っているのが暫く目に入ってきた。右手の丘の上に名電の車庫が見えてくる。
藤川宿(画では平地の様だが実際は山の中を歩いている感じだった)

 1号線から別れて、1時20分、藤川宿に入る。両側の町並みは宿場の面影を宿し、脇本陣は郷土資料館になっていたが、別に資料館があった。宿場の整備が行われていたが人の気配は感じられなかった。松並木が現れて、踏切手前に吉良街道との分岐点の標札があった。暫く進むと竜泉寺川に出る。
この川はかって源氏蛍発生地との看板が見えたが、今では蛍が出る気配が全く感じられないほど汚れていた。丁度渇水期で川は渡れそうだったが、無理をせず国道の橋を渡る。間もなく岡崎ICの高架をくぐり1号線に出る。
岡崎宿(岡崎城に向かう大名行列が渡る矢矧(やはぎ)橋の袂で、日吉丸、後の豊臣秀吉が出世の糸口を掴んだ)

 3時20分、岡崎宿に入る。岡崎二十七曲りの碑を見ると、敵の襲来から防ぐ目的で曲がりくねった道を態々作ったようだ。伝馬通りを真っ直ぐ進むと、多くの本陣や脇本陣跡が道の両側にあった。参勤交代のあった時代に大名は家康誕生の土地だけに、岡崎城に敬意を表したことだろう。
元岡崎銀行跡は煉瓦の茶と石の白さとのコントラストが見事だ

 道の両側には当時の変遷を伝える多くの標識が並んでいた。煉瓦の赤茶色とコンクリートの白さのコントラストが見事な元岡崎銀行本店跡が市の資料館になっていた。その先の篭田公園から電話でビジネスホテルに電話すると、名電東岡崎駅を目標にすると直ぐ判るとのこと。乙川に架かる橋を渡ると堤防付近の松並木は見事なもので、枝を川に向かって大きく伸ばしていた。手入れが行き届いているのを目の当たりにした。
4時過ぎホテルに着いたので、先ず風呂を沸かしている間、荷物を全部出して明日に備える。風呂に入りながら今日歩いた各宿場の模様を思い起こす。御油、赤坂、藤川宿は旧東海道の余韻が感じられたが、裏を返すとそこには過疎が横たわっていた。
足の痛みは大分治まってきたが、痺れは取れなかったので丹念に揉みほぐす。
 6時、ホテル裏の繁華街に出て居酒屋に入る。鮪のカマがあったので焼いて貰ったが、少し時間が掛かるとのこと、付け出しと板ワサでビールと酒を呑んでいると、厚さ3センチほどのカマが焼き上がってきた。これはアブラが乗って美味かった。最後に茶付けを食べて店を出た。
部屋に戻り、今日の日記を付けたが距離の割には書くことが少なかったので、早めに蒲団に入ったが、明日は名古屋だと思うと中々寝付かれなかった。

三河人気質は今もトヨタに受け継がれ、自動車生産世界一となった

14日(12日目) 火 21度 快晴 新居宿 白須賀宿 二川宿(三河国) 吉田宿(豊橋市
                   24,3粁(289,5粁)
                   豊橋BH(5,000円)
浜名湖の観光ポスターに良く出てくる朱の鳥居 

 7時20分、宿を出て浜名湖に掛る国道1号線の橋を渡り、遊覧船の発着場から朱色の大鳥居が青い空を背景に見えたのでカメラに収めた後、そのまま1号線を歩く。道の両側にはボートや釣具店などの店が立ち並んでいた。間もなく通勤で賑わう新居駅を過ぎると、1時間ほどで新居関所に着いた。
新居宿(浜名湖を往来する渡しか)

 関所内の見学は9時からとのこと。疋田本陣跡は現在疋田医院となっていたところを見ると、末裔かもしれない。その角を曲がり、またその先を右に直角に曲がると、旧東海道に入り松並木が目に入ってくる。農家にも疋田の名前があったがこの農家も末裔か。この辺りの東海道は車が少なく歩きやすかった。天気も良いので年寄りが乳母車を引いている姿が目に付いた。
 明治天皇が休憩した場所で、豊橋観光協会に電話で今夜の宿を調べてもらい、豊橋BHを予約する。道の両側の民家では人の出入りが感じられないほどの過疎の町を通り、元白須賀宿跡を過ぎて間もなく角を曲がると潮見坂に差し掛かる。可なり急な坂道だったが登り切った所に沢山の碑が立っていた。
春の海の様に陽が輝いていた

 10時、遠州灘が一望出来る高台に着いた。海面がきらきら太陽の日を浴びて光り輝いて、出来ることならこの陽気と海を北海道に持って行きたいと思った。白須賀中学校前を通り、緩やかな道を下ると、白須賀宿の本陣跡があった。
白須賀宿(潮見坂を下る大名行列か)

 元の宿場は潮見坂の下にあったが、宝永7年(1707)に地震津波で破壊されたので今の場所に移った。道の両側の建物も古い家並が目立つ。
10時40分、1号線に出て間もなく橋を渡ると愛知県(三河国)に入る。途端に車が凄い勢いで突っ走っているのには恐怖すら感じた。さすが所得日本一の愛知県を支える、トヨタ王国の力をまざまざと見せ付けられた。
 辛うじて生き残った右側の細谷一里塚を過ぎて4車線の広い1号線の両側は、一面キャベツが植えられていたが、土にはレンガ色した小さな小石交じりの赤土で、肥料気は見た目には無い感じだったが、延々と続くのには驚いた。
 誰がこれほどのキャベツを食べるのかと感嘆しながら、坦々たる道をただひたすら歩く。その間トラックは大きな騒音を撒き散らしながら名古屋の方向に向かう車が多い。
 間もなく左手に神鋼電機の大きな工場が見えてくる。新幹線のガードをくぐり、筋違橋と言う奇妙な名前の橋と東海道本線の踏切を渡り、12時、二川(ふたがわ)宿に入る。
二川宿(本陣が現存している) 

 現在の二川宿の本陣は馬場家から豊橋市に寄贈され、約200年経過した建物だが、手入れが行き届いて、かっての本陣の有り様や、生活様式が手に取るように判る。
手前が旅籠で、その先に本陣が見える 

 裏に回ると資料館として新しく作られたウロコ壁の見事な建物がある。400円を払って中に入ると当時の参勤交代から武士や町人達の道中旅姿や、殿様クラスが乗った駕籠等が色鮮やかに展示されていた。
 二川駅を過ぎ右手に、1時35分、「うな広」と言う名の食堂に入り、うな丼を食べたが味は上々で値段の割には安かった。
 食堂を出て直ぐのガーデンガーデンの角を曲る道を通ったのが間違いの元で、暫く歩いてから何気なく右の丘を見ると、本来であれば丘の上の岩屋観音を左に見るはずが、右側に見えたので間違ったことに気が付き、スタンドで聞いたところ、距離的には若干損したが、その道を真っ直ぐ進むと旧東海道に出て、殿田橋を渡ると1号線に合流し豊橋市内の方向に出ると聞いて安堵した。
 言われたとおりの道を歩くと旧東海道から1号線に出た。豊橋市内に入ると道の両側には商店街が続き相変わらず車の往来が多かった。
吉田宿(豊川稲荷詣で賑わったことだろう)

豊橋市内は小奇麗な町で本陣跡も直ぐ判った 

 1号線から旧東海道には曲りくねった道を通って吉田宿に入る。本陣跡を写真に撮り、偶々通り掛った松葉公園からビジネスホテルに場所を尋ねると、新豊橋駅を目標にくると直ぐ判るとのこと。
 豊橋駅前通りにはビルが立ち並び、その雑踏に身を委ねながら歩くと、新豊橋駅に着いたので、左に曲がると豊橋BHがあった。
 3時50分、チェックインの後、部屋で荷物を解いて、夕食には時間があるので風呂に湯を入れてから、ゆっくり時間を掛けて右足の痺れと痛みを取るため丹念に揉んだ。この痺れと痛みは中々取れそうもない。原因は何なのか、多分箱根から三島に掛けての石畳で、左足を庇ったために、右足に負担が掛かったのが原因のようだ。
 5時半、ホテルの裏側の繁華街に出て食堂を探すと、味噌カツの暖簾を出した店があったので、味噌カツを食べたいので入る。時間が早いのか客は誰も居なかった。早速味噌カツ定食を注文し、ビールを呑みながらサラダを食べているうち、味噌カツ定食がテーブルに運ばれてきた。
 はじめは豚カツの衣か肉に味噌が入っているとばかり思っていたが、味噌味のタレを付けて食べるのが味噌カツとのこと。味は上々で愛知県の名物の名に恥じない味だった。
ホテルの戻って昨日の残り半分と今日の日記を半分以上書いたところで、眠気を催して

天竜川もここまで来ると市丸の「天竜下れば」とは程遠い

13日(11日目) 月 16度 快晴 浜松宿 舞坂宿 
                   27,6粁(265,2粁)
                   旅館あみ住み(7,600円)
 ホテルの軽い朝食を食べた後、7時40分、支配人に送られてホテルを出た。昨日行きそびれた見付宿を目指す。学生やサラリーマンが磐田駅に向かう人たちとすれ違いながら、朝の快い空気を吸うと、S氏には申し訳ない気持ちになる。
見付宿(天竜川の渡し) 

新旧の天竜大橋、旧大橋は歩道の白線もない狭さだ

 8時見付宿に着く。本陣跡を写したりしていると、元見付小学校の校舎が見えた。日本で最古の洋風の小学校とかで、当時としてはモダンな洒落た造りで、快晴の空に白い建物が良いコントラストを見せていた。向い側の商家の前には菊の鉢植えが並んでいた。
 元来た道を引き返し、磐田駅手前の旧東海道を曲がったところで、汗が出てきたのでウインドブレーカーを脱いでリュックに入れ、序にS氏の奥さんに電話で昨夜のお礼と、彼の世話をよろしく、と伝え、本人には早く良くなるよう話すと、有難う、有難う、と何度も繰り返し、道中には気を付けて、また後でCDを見ると言っていた。帰り次第写真を送る事を約束して電話を切った。昨夜の再会は彼も嬉しかったことだろう。早く良くなればよいが。
 道はほぼ真っ直ぐに作られた道の片側にゴミ袋があったので、何時もの癖で袋を見ると、町内会と名前が書いてあるのを見て、丁度ゴミ袋を出しに来たお婆ちゃんに、
「町内会と自分の名前を書いているのは珍しい」と告げると、
「亡くなった主人が町内会の仕事に熱心で、袋に書き込むよう住民を説得した結果で、今では自発的に皆さんが書いてくれるので、お爺ちゃんも喜んでいると思う」
と嬉しくなるような話を聞いたが、説得させるには大変な時間と努力があってのことだろう。中には日にちを書いている袋もあった。
 間もなく磐田化学工業で261号線と合流する。近くの公衆電話から浜名湖弁天島の旅館あみ住を7千円で予約する。
 道中所々にある松並木が見えると、東海道を歩いているのを実感するから不思議だ。
遅く宿場に着いた旅人はこの常夜灯を見て安心したことだろう

 火伏(ひぶせ)の神を祈る秋葉山神社の常夜灯があったので、良く見ると見事な透かしが彫られてあった。文政11年(1828)建立とあった。昔は火事が良く発生したので、火に対する信仰と夜の道案内を兼ねて、火が灯されていたらしい。途中には石造の常夜灯が所々目に入る。
 高砂香料の工場が見えてきた。構内には大きなタンクから沢山のパイプが張り巡らされ如何にも化学工場らしい佇まいを見せていた。
 豊田町を過ぎると直角に曲がる道の先に、並行して新旧二本の天竜川橋が見えてきた。旧道の橋は歩道も無い狭い橋で、今まで良くこんな狭い橋を渡っていたものだと感心しながら見ると、人っ子一人歩いていなかった
 10時10分、はじめ昭和初期に作られた旧道を渡ると旧東海道に繋がると聞いていたが、両側に白線もない狭い橋を渡る気もしなかったので、ほぼ完成した新道の橋を渡ったが、歩道の巾も5米近く、丁度脇を1台の自転車とすれ違っても狭さは全く感じられなかった。
 橋を渡る間、この自転車1台だけで、新旧とも橋を歩いているのは私一人で、昭和初期に流行った芸者市丸の、「天竜下れば」を心の中で口ずさむ。
東海道の中間を示す里程標識 

 浜松側の堤防手前20米ほどのところに、日本橋から250粁の里程標があったので、半分来たことを知る。漸く半分か、それとも後半分かと心に問いかけながら、袋井宿で見た「東海道どまんなか」の暖簾と同じく東海道の長さを肌で感じた。
 新天竜大橋を渡ったところで東京のK氏に東海道を半分渡った事を告げると、身体に気を付けて、と励ましの言葉を頂く。
 新道から旧道を通るには大きく迂回しなければならないので、ルール違反を承知で、一旦土手に下りてから旧道を横断し、車が少なくなった時を見て片手を挙げて横切って旧道に出ると、交通事故で救急車やパトカーが数台あった。近くの人に旧東海道の道を教えてもらい、励ましの言葉を背に狭い道を歩くが、所々に松並木が見えると、東海道を歩いていることを実感する。
浜松のランドマーク「アクトタワー」 

 浜松市内に入ると前方に巨大なビルが見えてくる。歳の頃60台の三人連れの婆さん?達に会う。毎年のように少しずつ東海道を歩いているらしく、仲良しながら時には喧嘩して、途中で別れ別れになった時もあったが、何時かは元の鞘に納まって、「姦し三人婆さん」になると言っていた。
 前方に見えるビルの事を尋ねると、「アクトタワー」とのこと。歳の事を聞かれたので、免許証を見せると、「60前後と思っていた」とは。
 12時過ぎ浜松駅に近付くと新しい大きなビルが立ち並び、駅周辺の大改造が進んでいた。右手にカンパンで有名な三立製菓のビルがあった。駅を中心にしてアクトタワーが聳え、環状にバスターミナルがあって、さすがヤマハ、ホンダ、スズキと世界企業を生んだ町だけあって活気が感じられた。
 駅に入るには一旦下に降りないと行けない構造になっていたのには、よそ者には参った。エスカレーターは少ないだけに足の不自由な人には大変だ。
 地上に出て食堂を探したが、市街地改造計画でシャッターを下ろしている店がこの周辺には多く、中通りでやっと和風の小料理屋があったので中に入ると、洒落た造りで落ち着いた気持ちになった。  
 寒ブリ定食が思ったより安かったので頼む。ブリの刺身はアブラが乗って美味かったが、八丁味噌のお汁も今回の旅で初めてで美味しかった。食後、コーヒーも出たので、思わず心の中でガッツポーズ。締めて840円也。夜は酒食を供するとのこと。名産の鰻を食べながらの酒も美味かろうと想像逞しゅうする。
浜松宿(遠くに浜松城が見える) 

 1時10分、店を出て浜松の佐藤本陣跡等を写した後、その257号線を進み東海道本線と、新幹線の高架をくぐると松並木が見えたところで、先ほどの「姦し三人組」と会う。
 1号線を左に見ながら単調な道を歩く両側は海が近いのか砂地で、長ネギの単作が殆どで、時たま里芋がある程度だった。通り掛った農家のお婆ちゃんに、「外の野菜が目に入らないが」と聞くと、
「こんな土地では外に植えるものなんかあるものか」
と、投げやりな言葉が返ってきた。確かにこの砂地では雨が降っても直ぐ乾くので、外の野菜が作れないのかも知れない。行けども行けども長ネギの畑が続くのを見て、北海道の農家は土に恵まれていると思った。
 右手に和菓子の店があったので立ち寄り、和菓子を頼み、小上がりに座って食べると、主人が茶を出してくれたので、一息付きながら、今東海道を歩いている途中、と話をすると、主人も、
東海道には興味を持っているが、店を持っているので中々行く機会がないが、何時かは家内と歩いてみたい」
と話していた。
 店を出て間もなく東西の本願寺が見えて来たので、この様な場所に和菓子の店が有る理由が判った。電話で宿に5時過ぎに着く予定と伝える。
 前方に舞坂の松並木が見えてきた。松の木の高さはそれ程ではないが、切れ目なく植えられていた。
 800米の道の両側には、日本橋から三条大橋までの東海道各宿場の、広重の浮世絵が入った銘盤の石碑が並んで、町ぐるみで保存に力を入れている様子が感じられた。舞坂の宿に入る頃は日も大分傾いて薄暗くなってきた。
舞坂宿(浜名湖は船で往来したようだ) 

 16時50分、宿場の目玉の一つ、脇本陣天保9年に建てられたもので、近年解体復元されたものだが、遅かったので中を見ることが出来なかった。
 暗くなり掛けた5時過ぎ、弁天島への橋を渡って旅館「あみ住」に着いた。女将さんの案内で2階の部屋に通される。窓越しに暮れなずむ浜名湖がかすかに見えた。欄間に飾ってあった写真の説明を聞くと、
「お爺ちゃんが湖で網を打っているところで、宿の名前もそこから来ている」
と誇らしげに話していた。
 机の上には浜名湖の写真があり、その中にも、尻をからげて網を打っているお爺ちゃんの写真があった。洗濯物を出すように言われたので、待ってましたとばかり、まとめて肌着類を出した。今日は貸切のようだ。
 今日も湯船に漬かりながら右足裏を揉むが中々治りそうもない。今晩の料理は旅館にしては今一つ冴えなかったのは、7千円と指定したせいかと思いながら食べたが、
「姦し三人組」のお婆ちゃんは今日は喧嘩せず、今頃仲良くご飯を食べていることだろう。
 日記を付けながら、後半分かと思うと何となく心が弾んできた。明日は快晴との予報だ。日記も半分ほど書くうち眠気を催したので蒲団にもぐりこんだ。

四国でも茶畑を見たが、静岡はさすが桁違いの広さだ

12日(10日目) 日 15度 快晴強風 日坂(にっさか)宿 掛川宿 袋井宿 見付宿(磐田市)  
                     29,2粁(237,6粁)
                     BH磐田(5,100円)
金谷宿(大井川を渡ると遠江(とおとうみ)の国へ入る) 

 1階の食堂へ行く途中、廊下の壁に田舎芝居の役者の写真が壁に貼っているのを見て、劇場を兼ねていることが判った。大広間には多くのテーブルが並べられ、正面の舞台には派手な幕が掛っていた。昨日の宿泊客は10人ほどで土曜日にしては少なかった。料理は四国の民宿並みだった。仲居さんに、
「この旅館は今まで泊った中では最低の宿だと、社長に伝えておいて」
と伝えると、パートの感じの仲居さんは小さな声で、
「皆もそう思っているのだが、社長は中々聞く耳を持たないところがあって私達も困っている」
との返事が返ってきた。
 食事を終えて、昨日預けた財布を渡すよう仲居さんに伝えると、
「事務所の鍵は閉まったままで、担当の人は家に居るので、電話で伝えるので、少し時間を下さい」
とのこと。
 部屋に戻り荷物の整理をしていると、仲居さんは財布を持って現れ、平謝りに謝っていた。精算を終えて7時25分、漸く宿を出たが、昨日の空とは違い晴れていたが風は強かったので、ウインドブレーカーを着る。
 金谷駅の線路下を通り坂道を上がると、石畳が上に向かって敷き詰められていたのは、町民がボランティアで石を持ち寄って敷いた石畳で、箱根で見たような単に石を敷いたのとは違い、両側に溝があって水の流れやすい構造になっていた。上から夫婦連れが降りてきたので声を掛けると、
「ご苦労さんです、道中気を付けて下さい、この先の下り道にも石畳があります」と親切にも教えてくれた。高校生も上から降りてきて、石畳に就いて同じような話をしてくれた。
牧の台の茶畑から大井川鉄橋を、電柱の先端は霜除け用の扇風機 

 登り切ったところに、明治天皇が京都から東京に遷都の際、ここで休憩された碑があったので、何となく左折して歩くと、広大な茶畑が現れ、その向うに昨日渡った大井川鉄橋が見えた。茶畑には、水力発電用の風車が多く目に入り、強風に煽られて凄い勢いで回っていた。
 向うから強風のため自転車を引いた老人が見えたので、「この道は旧東海道ですか」
と尋ねると、
「この先は何もないが。旧東海道を歩くなら、反対方向に行くのが良い、序だがこの茶畑は明治維新で禄を失った幕臣や川人足たち等が開拓した牧の原台の茶畑で、元は荒地の上、風が強い土地で開拓するのに大変だったらしいが、今は金谷茶として有名だ」
 貴重な話を教えてくれたので礼を述べて、二人で元来た道を引き返し、明治天皇の碑を過ぎて、緩やかな下りになると老人は、「お先に」と言って自転車に乗って行ってしまった。暫く進むと彼の老人が分岐点で待っていてくれた。
「ここを下ると菊川に出て、急な坂道を登ると小夜の中山に出る。車に気を付けて」
と親切に教えてくれた。昨日の金谷の人も含めた親切に感謝、感謝だ。この付近にも広大な茶畑が広がっていた。
 下ると間もなく石畳が現れてきたが、これは後に敷かれた石畳で、その向うに元からの石畳があった。下ったところが菊川間(あいの)宿で、金谷宿とこの先の日坂宿との間に、急な坂道が多いのでその中間に位置した菊川に、簡単な宿場が必要だったらしい。
 偶々通り掛った農家の庭に、巾1,2米、長さ12米程度の茶の畝が10本ほどあったので、洗濯物を干していたお婆ちゃんに、
「この1本の畝でお茶がどれくらい収穫するのか」
と聞いたところ、傍に居た嫁さんらしき人と話しながら、
「大体20キロ位なものかな、家の場合は自家用程度しか作ってない」
自家用にしても単純に計算しても、200キロとは結構なものだ。
 村を抜けると間もなく急な坂道に差し掛かる。息せき切って登り切った辺りが小
この寺で山内一豊徳川家康を接待した

 小夜の中山で、昨年の大河ドラマにも登場した山内一豊徳川家康を接待した久延寺で、境内には接待した茶亭跡の石碑があった。
 また、夜泣石と言って、村のお石という女が菊川からの帰りに、丸い石の傍で赤子を身篭って倒れていたところに通り掛った、轟業右衛門が助けたが、お石の持っていたお金に目がくらみお石を殺す。生まれた赤子は久延寺の和尚が引き取ったが、母恋しさの泣き声が石に乗り移って、夜な夜な泣き声が聞こえ、後に嘘かまことか空海がその石に、「南無阿弥陀佛」の法号を刻んだと言う跡もある。この石は小夜の中山を下った辺りに有って、広重の絵にも描かれているが、明治天皇が東京に向かう際、ここ久延寺に運ばれたが、何処まで嘘か本当か知らないがその様な話が残っている。
 小夜の中山を有名にしたのは東京遷都の後、この夜泣石を東京博覧会に出品したところ、物珍しさも手伝い大評判になった。
 源平期の歌人西行で、二度目の奥州への旅の途中で詠んだ、
  年たけて 又越ゆべしと 思いきや 命なりけり さやの中山
 西行69歳の作で亡くなる4年前に詠んだ。昔はこの地を、「さや」と言ったようだ。
 ここから日坂へは下り道が続くが、途中広大な茶畑が左右に広がっていた。流石茶所静岡県だ。途中明治元年まで夜泣石があった場所を過ぎて、道を下ると国道1号線と高速道路が目に入った。
日坂宿(小夜の中山へ向かう急な坂は今も変わらない)

 10時、日坂宿に着く。道の両側はこじんまり家並みが続き、本陣跡は幼稚園になっていた。町ぐるみ保存に力を入れている様子が見て取れた。今日は日曜日とあって、旅籠の中をボランティアの説明を聞きながら見学することが出来、外に出ると高札場があって、当時の面影を色濃く残していた。再び1号線に出る。
 掛川宿に向かう途中、カメラを出そうと、ポシェットの中に手を入れると、百楽園の部屋の鍵が出てきたので、電話でその事を伝えると、後で送って欲しいとのこと。暫く歩くとヤマト運輸があったので送る手配をすると640円も取られた。序に荷物を測るとリュック6,24キロ、とポシェット1キロ合わせて7,24キロと、我が家を出る時より何故か1キロも増えていた。道理で荷物が重たい筈だ。
 旧東海道の狭い道を進むが人も車も少ない。西山口小学校を過ぎ、掛川農協西山口支所の傍に古い道標があった。掛川市内に入ると街道は防衛上作った曲がりくねった道を進む。
掛川宿(江戸と名古屋の中間に位置し幕府にとっても重要な城だった) 

 12時20分、市内の食堂で天丼を食べたが味は冴えなかった。食堂を出て旧東海道に出て間もなく右手に大手門とその先に、出来て間もない掛川城天守閣が快晴の空を背景にくっきりと見えた。風の強い中、観光客は城を目指して歩いていた。清水銀行掛川支店の民芸風な壁に、山内一豊と千代の像が見えた。
 掛川信金を右に曲がると、十九首塚の標識があった。平将門と家臣十八人を奉った首塚であるが、将門の首塚は東京にもあるが、と思いながら過ぎる。東名高速の下を通ると間もなく松並木が見えてきた。川の手前の地下道を通り袋井市に入る。
袋井宿(旅人に臨時の茶屋が描かれている)

東海道一の松並木が続く 

 大和ハウス袋井工場の前の松並木は立派で、今まで見た松並木としては、良く残されていて東海道の風情を楽しみながら歩くと、「東海道どまんなか茶屋」の暖簾が下がっている喫茶店があった。「どまんなか」と言っても、東京日本橋から数えても、京都三条大橋から数えても27番目の宿場で、距離的には浜松付近のはずだ。良く整備された袋井宿場を過ぎると、ほぼ一直線の単調な道が続くが、車が少ないのが何よりだ。三ヶ野橋を渡ると薄暗くなってきたので、1号線に出て坂道を登ると、大きなビルが現れた。磐田グランドホテルだった。4時半、突然電話が鳴り、磐田市のS氏の声で、
「貴方に電話を何回も掛けたが、こちらが番号を間違ったので通じなく、遅れて申し訳なかった。今居る場所を教えてくれれば、(磐田グランドホテル前に居る事を伝える)向いのラーメン屋で待っていて欲しい、15分ほどで家内が迎えに行く」
とのこと、丁度向かいに大きな家電販売店があったので、デジカメ用の512MBのコンパクト・フラッシュを買い、ラーメン屋の前で待っていると、奥さんが運転する車が来たので、彼の家に向かった頃は日が暮れていた。
 5時、彼とは6年半ぶりの再会だった。
 平成12年の春の四国八十八ヶ所歩き遍路の際、半月ほど行動を共にした間柄だったが、9,11世界貿易センター爆破の約2ヵ月後、自転車に乗ったまま側溝に転落し、意識不明の状態となり、首から下が半身不随の重傷を負ったことは以前から聞いていたが、その後もベッド生活を余儀なくされて、奥さん懸命の介護等で自宅療養していた。
 私が電話した際、彼はベッドの中に居たが、生憎奥さんが留守だったので受話器を取ることが出来なかったとのこと。彼に、二度の四国歩き遍路と奥の細道車行脚の写真集(630枚)とその旅日記(A4で200枚)の入ったCDを贈ると快く受け取ってくれた。
 今回の東海道の旅は、彼から旧東海道の旅の楽しさを、四国を歩きながら良く聞かされたので、何時か行って見たいものだと心の中にあった事を彼に話すと、そうだったのかと喜んでくれた。
 金谷や小夜の中山の茶畑で見た風車は随分小さなものだ、と話すと、あれは風車でなく霜除け用の扇風機とのこと、道理で小さいはずだ。
 夕食時だったので、鰻をご馳走になったが、彼は奥さんから食べ物を口に入れてもらう状態で、改めて事故の後遺症の怖さを目の当たりにした。
 彼に四国遍路の際、寺の朱印を押してもらった大きな掛軸を見せてもらい、記念に写真を撮ったりして2時間以上話しこんだ。
 遅くなったので申し訳ないが、奥さんの車でBH磐田まで送って貰った際、奥さんに彼の介護を重々お願いした。
 7時50分、ホテルに入り、早速大風呂に入り旅の垢を流したが、S氏の事を思い出すと、可愛そうでならなかったが、食事と言葉を話せることが不幸中の幸いだった。
 部屋に戻り今日の日記を付け終えたのは11時を過ぎていた。

水量を増すと越すに越されぬ大井川と歌にも詠まれた難所だった

11日(9日目) 土 16度 雨一時雷雨後曇り 藤枝宿 島田宿 金谷宿(遠江国
                        19,4粁(208,4粁)
                        百楽園(7,823円)
岡部宿(山間の風景は今も変わらず単調な登りが続く) 

 4時頃猛烈な雷の音と雨の音で目が覚める。予報では午後からの雨とのことだったが。その後蒲団の中でうとうとしながら6時起床。雨具を上にして荷物をまとめる。
 7時、朝食の際、1枚のCDを見せて、
「この中に2度の四国八十八ヶ所歩き遍路と奥の細道車行脚の1枚毎にコメント付写真が630枚と夫々の旅日記合わせてA4で200枚が入っている」
「この中にそんなに入っているの!幸松さんが作ったの!」の問いに頷くと、
「家に泊るお客さんに、夏蒲団のことと、このCDのことを話しても良いですか」
「どうぞ、私は構いませんよ」と言っておいた。余程感銘を与えたようだ。
 7時40分、何時もの様に両足の裏にテーピングして、雨は小降りになっていたので、半袖シャツ1枚の上にゴアテックス上着だけ着込んで、女将さんに送られて藤枝宿に向かった。土曜日の早朝で車も少なく、旧東海道は歩きやすかった。歩くペースを測定すると、毎分130歩と、何時ものウォーキング並みの早さで歩いていたので、少しペースを落とす。所々に旧東海道特有の松並木が点在していた。雨が上がったので合羽を脱いで、ウインドブレーカーを着る。
藤枝宿(大井川を渡る準備で忙しそうだ) 

 間もなく藤枝市に入ると、道の両側の商店街は長いアーケードが続いていた。突如雷が鳴り猛烈な雨が降り出したので、丁度タクシー会社の無人車庫があったので、リュックの中から合羽を取り出して上下を着たが、ズボンの裾部分のファスナーが締まらなくなったので紐で縛る。この歳になると格好は二の次だ。
 携帯で104番を呼び出し、日坂(にっさか)の観光協会の電話番号を聞き、呼び出したが応答が無かったところに、タクシーが戻って来たので、運転手に日坂の宿の事を尋ねると、
「日坂には宿が無く、掛川で泊るしか方法が無い」
とのこと。
 距離を調べるとこの雨の中では25粁は無理なので、再び104番で金谷の観光協会を探してもらったが、電話帳には出ていないと言われたので、運転手に相談すると、島田駅観光協会があるのでそこで聞いては如何とのこと。
 雨宿りの間運転手に、
「私は北海道の者だが、北海道ではタクシーの運転手の手取りは、17万円前後とか聞いたが、この辺りでは幾ら位になるのか」
「17万円は多い方で、大体16万円で、息子は高校に行っているが、実家で生活しているので家賃が掛らず何とか遣っている程度だ。45も過ぎると就職はままならず、今まで何十枚も履歴書を書いたが問題にされないのが現実だ」
「藤枝と言えばサッカーの町、息子さんはサッカーをしているのか」
「サッカーどころでは無いよ、ここに居ても金にならないので失礼だがお先に、貴方も道中気を付けて」
の言葉を残して雨の中を出て行った。
 雨も漸く小降りになってきたので、リュックにカバーを掛けて、こちらも雨の中9時50分、島田宿を目指す。
正定寺の見事な枝振りの松

 途中正定寺に年代物の松があると前から調べてあったので注意して歩くと、右手の寺の門から松の木が見えてきた。正しく年代物で、1730年に植えられたと看板に書いてあった。見事な枝振りで手入れも行き届き、幹周りは2米近くあった。
島田の松並木 

 東海道の松が5本から10本ほど所々目に入り、国道1号線を横切るとまとまった松並木が東海道を歩いている旅情を誘い、足の痛みも心なしか薄らいできた。今日は主に旧東海道を歩いたので、車の騒音に悩まされることも、飛沫を掛けられることも無く順調だ。
 松並木が途切れると1号線を暫く歩くが、相変わらず雨は途切れることもなく降り続いている。間もなく島田市に入る。ビルが見えて来たので左に曲がって島田駅に向かう。
島田宿(東海道を往来する旅人泣かせの大井川)

 島田市は大井川を挟んで金谷町と合併した。昔は日本刀造りの名工が輩出し、大井川の川越の町として有名だ。
 12時、駅の左側に観光案内所があったので中に入り、金谷の宿を聞くと3軒有るとのこと。1軒は満杯で断られ、2軒目も断られ、頼みの3軒目で漸く百楽園の宿を確保した。観光案内所の女性に、
「聞くところによれば、金谷の方が町としては大きいと聞いたが、それにしても3軒しかないとは」
と問うと、
「とんでもない、島田の人口7万に対して、金谷は2万足らずで、島田が吸収したようなものです」
とわが町を過小評価され、憤懣遣るかたない模様だった。
 かっては大井川を挟んでお互い持ちつ持たれつの関係があった筈だが。平成の大合併で、金谷を助けて遣ったような言い方を聞いて、官民を問わず縄張り意識は何処にもあるようで面白かった。大井川手前にある川越の島田宿への道順を聞いて案内所を出る。
 間もなく東海パルプ工場の煙突が見えて来たので左に曲がると、暫くして大井川堤防手前の宿場に川越人足達の建物が観光用に並んでいた。
見るからに凄い顔付きだ、男でも恐れを為す 

 中には煙管を手に客待ちしている川越人足の模型は凄みがあり、こんな連中に担がされた女性は、時にはわざと架台を揺さぶられたりして、恐怖におののいたことだろう。
 土曜日と雨のせいか客は少なく、1時45分、食堂に入ったが誰も居なかった。新そばを注文し食べたが手打ちらしく美味かった。食べ終えて堤防に出ると両側の桜並木が年月を感じさせる。
 県道の大井川鉄橋(1026米)は5年越しの大工事だった様に、往時は川が増水すると足止めを食い、足元を見られて宿泊代が嵩み、水が引くと先ず大名行列が優先的に、次いで武士や商人達は駕籠に、一般の町民や子女は架台や肩車で川を渡ったものだ。
 唄にもある様に、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」は昔の旅人にとっては難所の一つだったが、私は10分ほどで渡ってしまったが、朝方の大雨にも拘らず川の水は少ないのは、多分上流のダムのせいかも知れない。便利になったものだ。
 金谷宿に入り、タクシーの運転手に百楽園の場所を聞いて、途中から急な坂道を登ったが、雰囲気が違うので少し戻り、途中の民家のベルを押して出てきた奥さんに場所を聞くと、大分上に来た模様で、主人が出てきて地図を片手の教えてくれたので、礼を述べて道を下ったところの信号を右に回る。
 暫く進むと、教えてくれた道が判らなくなり地図を見ていると、先ほどの主人が追い掛けてきたのか、別な地図を持って、百楽園への近道を教えてくれた。有り難いもので、主人の名前を聞くと、「とんでもない、元気で気を付けて」と手を振って戻っていった。四国の心のお接待を思い出し、琴線に触れたひと時だった。巾が1米ほどの道を登ると、百楽園の裏口に出た。
 3時20分、廊下伝いに正面玄関に出て部屋に案内された。ドアと言っても襖だが、今時珍しい錠前が付いていた。部屋に入るとお粗末な造りで、畳にタバコの焼け跡が何ヶ所もあり、電話もなく、テレビはリモコンがなく、画面はだぶ付いて見れるような代物ではなかった。取り得は窓越しに、先ほど渡った大井川と鉄橋が見えることだ。
 事務所に貴重品を預かり風呂に向かう。雨に冷えた身体には上々の風呂だった。今日は歩いた距離が20粁と少なく、寒かったせいもあって、足の痛みはそれ程感じなかった。
 部屋での食事は品数は6品ほどで味は冴えなかった。寒いこともあって、早々に食べ終えて、仲居さんがお膳を取りに来たので、朝食は7時に頼む。
 平成12年春の四国遍路で半月ほど一緒に歩いた、磐田市に住むS氏に電話を掛けたが出なかったので、留守電に、帰り次第電話を呉れるよう、携帯電話の番号を教えた。
 今日は合羽を着ながら蒸し暑さは感じなかったのは、昨日との温度差は6度も低く、振り返ってみると、雨らしい雨は今日が初めてだった。明日は快晴の予報だった。
 日記を付けながら、金谷で道を教えてくれたが、私が理解してないと思い、後を追って改めて別の地図で教えて頂いた人を思い出し、胸が熱くなりながら続きの日記を書き終えたのは10時近かった。

今日は東海道の名物、鞠子のとろろ汁と安倍川餅を食べた

10日(8日目) 金 22度 快晴後曇り 府中宿 鞠子(まりこ)宿 岡部宿
                     24,1粁(189,0粁) 
                     旅館きくや(7,800円)
 朝食を食べた後、宿の主人に、次郎長の生家の道順を書いてもらったが、信号の多さから判断すると結構長い感じがした。7時35分、朝日を浴びながら宿を出る。
 柳宮通りを一路次郎長の生家に向かって歩いたが、二つ目の踏切に捕まったが直ぐバーが上がった、通学や通勤の人たちとすれ違うが、皆急ぎ足に踏切を渡っていた。予想したとおり次郎長の生家は遠かったが、今更戻る訳にも行かず宿を出て25分掛った。右手に大きな寺が見えた。
往復5粁掛けて来たが、小さな生家とは目と鼻の先に大きな寺に次郎長が葬られているが次郎長様々だ 

 左に曲がるとその狭い路地の奥に、次郎長の生家があった。平屋の小さな家だった。朝早いので玄関は閉まっていたので引き返し、良く見ると先ほどの寺が次郎長の菩提寺だ。次郎長の墓を見に来る人が多いのか、大きな駐車場があり、寺は鉄筋コンクリートの立派な造りだった。この寺も次郎長の恩恵を受けているようだ。次郎長様々だ。
 寺の門をくぐると、墓地入り口に、8時半開門とあったので止む無く諦めて、入り口手前にあった、清水次郎長の墓の案内標識が削られているのをカメラに撮る。
江尻宿(清水港は昔から活気がみなぎる)

 元来た道を引き返し二つの踏切もそれぞれ閉じる寸前に通過し、8時35分、往復1時間(約5粁)を要して旧東海道に出る。銀座街全体が江尻宿だったらしいが本陣跡は判らなかった。
 橋を渡ると真っ直ぐな道路になる。歩くに従い汗ばんで来たので、通り掛りの温度計を見ると14度を指していたので、オープンシャツの腕をまくり半袖姿で歩く。
 左手に草薙神社の鳥居が見えてきた。日本武尊が敵に火を付けられ危ないところを、剣で草を薙げて難を逃れた古事から神社が出来たようだ。草薙駅前から旧東海道に入り閑静な住宅街の中に、百坪程度ながら静岡に来て初めての茶畑を見た。
 高速道路の下をくぐると正面に大きな球場が見えてきた。中に入ると、ベーブ・ルースと沢村投手の銅像が有った。ベーブ・ルースルー・ゲーリッグ等の名立たる大リーグの選手に投げ勝ったのを記念して建てられたもので、沢村投手(第二次世界大戦で戦死)の偉業は、プロ野球投手に与えられる最高の名誉の証である沢村賞になったことでも判る。
 球場を出ると、ソフトバンクが有ったので、メールによるグループ送信の手順を教わった。通り道に有ったコンビニで暑いのでお茶を買う。
 東静岡駅脇の跨線橋を渡り右手に富士山が見えたので、多分これが最後の富士山と思い薄い靄掛ったが富士にシャッターを切る。渡り終えると国道1号線に出てから、また旧東海道を通り、東海道本線を二度くぐって、再び旧東海道に出た。間もなく久能山東照宮にでる道路を横切ると、静岡市内の繁華街に出た。
府中宿(安倍川の渡しの情景かな) 

 府中宿(静岡市)に着いたのは11時半だった。本陣跡の傍に、西郷隆盛山岡鉄舟の会見碑が見えてきた。両者の会見があって、後に勝海舟西郷隆盛江戸城明け渡しの道筋が出来た重要な会見だった。
 市内は県庁所在地だけあって、建物も道路も歩道も綺麗で歩きやすかった。丁度昼時でこの陽気に誘われて、多くのサラリーマンや若い人が歩道に溢れていた。
 商店街も洒落た感じの店が多く目に付き、デジカメ用のコンパクトフラッシュを買う積りで、カメラ店に入ったが512MBが無かったので、店の主人に聞くと、駅裏のビックカメラに有ると聞いたが、遠いので買うのを諦めた。
 昼時を過ぎたので、通り掛りの食堂でトンカツ定食を食べ、安倍川への道順を聞く。
 映画館街の右を曲がると、カトリック教会があったのでそこを左に曲がり、タクシー会社に安倍川の道筋を聞くと、待ってましたとばかり運転手らしき人が聞きもしないのに、
「この教会の場所は元梅屋と言って、1651年、軍学者由比正雪が、諸国の浪人と呼応して、徳川幕府転覆を企て、四ヶ所(ここと、久能山、江戸、日光)で一斉に蜂起する計画が幕府側に漏れて、ここに泊っていた仲間20人ほどが切り殺され、由比正雪はここで自刃し、この先の安倍川手前で曝し首にされ、由比正雪一族三代全員が殺された。未だ話すことはあるが、貴方も忙しいだろうからこの辺で止めておく」
と貰った名刺を見ると、「郷土史研究」と書いてあった。詳しいはずだ。
「道理で由比宿では由比正雪のことや、関係する資料が無かったので、不思議に思っていたのは、町としては触れたくない事件だったとのことか」
「その通り、序だがこの通りに面して、わさび漬けの元祖の店があるので、良い土産と話の種に成り、曝し首の現場は今は公園になって、その向いに安倍川餅の元祖の店がある」
 元祖が二つ出てくるところ等、至れり尽くせりの話好きな人だったが得るところがあった。
日本のわさび漬の元祖はここだ 

 元祖わさび漬本舗「田尻屋」は直ぐその先にあった。店に入ると正面に大きな樽に「元祖田尻屋」と書いてあり、奥では大勢の人が袋詰めに精を出していた。番頭風の人に、一つ幾らかと聞くと、500円とのこと、15個を宅急便で発送手配し、端数はサービスしてもらい九千円支払う。
 安倍川橋に向かって真っ直ぐな道を歩くと公園に差し掛かる。由比正雪の曝し首になった場所が墓になっていた。
元祖の看板はこの店だけで、この先に数軒の安倍川餅の店があった 

 軽く一礼して向いの、元祖安倍川餅の店に入り、太目の亭主に、指で2本を示すと、怪訝な顔をして、手で、前を見るようなしぐさをしたので前を見ると、餅はイチゴほどの大きさで、数は10個ほど、黄な粉と餡の上に砂糖が乗っていた。道産子は切り餅の安倍川餅しか知らないので、2枚を頼む積りだったのが、亭主は、今時二皿も食べるのかと思った様で大笑い。
 亭主も一緒に小上がりに座り安倍川餅の由来の話を聞くと、
「創業200年になるが、戦中、戦後の時期は休業した。昔は餅の上に黒砂糖や和三盆を使った黄な粉だけだったが、その後白砂糖が出てきたので、黄な粉と餡の上に砂糖を被せたところ、見た目と美味しさで大評判となり、街道筋を往来する旅人は、立ち寄って食べたとのこと、この形は今も同じ手法で作っている」
 亭主と女将さんに送られて店を出ると、同業者の店が数軒並んでいたが、さすが元祖の字は無かった。安倍川橋を渡り旧東海道に当たる208号線を歩く。間もなく右手に国道1号線が並行して見えた。
鞠子宿(広重は蒲原同様雪景色を描いている) 

 やがて茅葺の家が見えてきた。一軒の家が両側の道に挟まれて、土産物屋と茅葺の屋根を見せて名物丸子の「とろろ汁」の店、丁子屋があった。
一番廉い1350円のとろろ汁定食だ、わさび漬も安倍川餅も丁子屋もご先祖様々だ 

 2時20分、茅葺の玄関で靴を脱いで大広間に入る。時間も遅かったので客は5人しか居なかった。欄間には、東海道五十三次の広重の絵が周囲に飾ってあり、如何にも東海道に来た感じがした。昼にトンカツ定食に安倍川餅を食べた後だけに、一番廉い1,350円(自然薯とは言いながら高いものだ)のとろろ汁定食を注文する。
 ここは自然薯(じねんじよ)のとろろ芋を使っている。すり鉢からどんぶりにすくってとろろ汁を食べているところを、仲居さんに写真を撮ってもらう。自然薯を使っているとは言いながら、この値段では儲かって止められない等下手な下種の勘ぐりか、貧乏人の僻みか一人苦笑い。食べ終わると流石満腹状態で立つのも億劫になってきたが、そうも行かないので、重たいリュウックを背に店を出た。
 丸子橋を渡り、丸子川に沿った道を岡部宿目指して歩くが、右足の裏は相変わらず痛む。途中日本での紅茶発祥の地を過ぎ、1号線に合流する。「道の駅宇津の谷峠」で小用し、何となく全長880米のトンネルに入ってしまった。
 旧東海道は右手の道を歩くのを、うっかりしてそのまま歩いてしまったらしい。今更引き返す訳にも行かないので直進する。トンネルの中は幸い追い風で歩きやすかった。トンネルを出て1号線を暫く歩くと旧東海道に出たので一安心した。
 岡部宿の看板が目に入り、間もなく創業170年の旧旅籠柏屋に着く。店の人が中に入っても宜しいと話していたが、時間が無いので外観だけを写して、岡部の町に入ると道路は良く整備されて、町の旧東海道に対する思い入れが伝わってくる。今夜の宿、旅館きくやを探すが中々判らなかったが、ペットショップの裏手にあった。薄暗くなりかけた4時30分旅館きくやに着いた。
 今夜は貸切で部屋も中々手の込んだ造りを見せ、女将さんの心使い伝わってくるようだ。荷物を解いて風呂に向かう。今日も次郎長生家の往復を加えると、昨日に続いて約30粁歩いたので、右足の裏を丹念に揉む。風呂から上がり、一階の食堂に入る。
 食事をしながら女将さんに、「夏蒲団を出して欲しい」と伝えると、「エッ、夏蒲団!」と驚きの声がしたので、
「こちらに来る前は薄い夏蒲団一枚で寝ていたが、真冬でもその下にタオルケットだけで過ごしているが、実は昨日清水の宿でも女将さんが驚いていた」
「北海道では、夜間も暖房が効いていると聞いたので寒さに強いんだネ」
「我が家では冬の夜間暖房は無い。今時は一般的には普通は厚手の蒲団で寝ているはずで、夏蒲団一枚は私くらいな者でしょう」
「幸松さんは普段身体を鍛えているのでしょう」の問いに、
「夏場は下手なゴルフを月4ラウンドから5ラウンドのペースを含めて、月間250粁歩いているのと、冬場は歩くスキーをしているのが健康に役立っているのかな」
と言うと、余程驚いたようだった。
 部屋に戻り、右足の裏に二つ目のマメが出来たので、何時もの様に、針先を焼いた後、マメに穴を開けて水分を徹底的に搾り出しバンを貼ったが、土踏まずの部分は相変わらず歩くと、板が挟まっている感じだ。左足はほぼ完全に治ったようだ。
 昨日書き残した日記と今日の分と合わせてノートに書き込んだが、終ったのは10時半を過ぎていた。その間、日本ハムと台湾の試合の中継を見たが、日本ハムが逆転したところで中継が切れた。
 蒲団に入ると敷き蒲団の上に、敷布代わりに毛布が掛けてあったので、普通の敷布と交換して蒲団に入り直す。今日も痛い足を引きずって歩いたが、明日はどうなることやら。