伊勢湾台風で数千人が犠牲となった痕跡は巨大な堤防がモニュメ

17日(15日目) 金 16度 晴れ後曇り 桑名宿(伊勢国
                      27,4粁(377,1粁)
                      旅館初音(6,700円)
 朝食後、女将さんを呼んでも返事が無く、主人が出てきたので宿賃を払った際、最近はビジネスホテルに押されて、旅館経営は楽ではないので、近々宿を閉めると言っていたので、この様な造りの宿は少ないので勿体無いと話すと、貴方も感じたように、一人や二人泊ってもらっても商売にはならん、と言っていた。
熱田神宮に草薙の剣が奉られていたが現在は天皇の傍に鎮座している

7時50分、宿を出て熱田神宮には5分ほどで着いた。東門の大きな鳥居をくぐり、玉砂利を踏みながら両側の生い茂った杉やその他の木々を見ると、伊勢神宮の内宮に向かった時同様の歴史の重さを感じる。昨日は織田信長桶狭間の合戦に勝った場所に立ち、今日はその際ここ熱田神宮の神殿にて必勝を祈願して、雨中戦場に向かった信長のことに思いを馳せ、神前に武運長久ならぬ、スケールが小さい家内安全を祈願する。
 社務所で本殿の屋根の張替えに使う、銅板1枚(2千円)を寄付した際、記入した用紙の住所を見て若い社務所の人が、
「私の母は新篠津出身で江別のことは聞いているが、江別から見えたのですか」
と言うので、
「新篠津と江別が合併する話が進んでいるので、お母さんによろしく伝えて欲しい」
それにしても狭い話だ。序に野次馬根性丸出しに、
「ここに三種の神器の一つ、咫(やた)の鏡が奉られているが、何処にあるのか」
と聞いたところ、
「一番奥の社殿らしいが、誰も知らないところが良いのであって、信長も見ていない」
 奈良東大寺大仏開眼法要に献物された、正倉院御物の一つ、蘭奢待(らんじゃたい)の名がある香木を削り取ってその香りを嗜んだ信長でも、咫の鏡には後難を恐れてか手を出せなかったようだ。その香りを嗜んだのは、その他足利義政明治天皇の名が記載されている由。これも話の種になると思いながら西門から出る。
 川崎のK君に電話し、「今熱田神宮を参拝して、今夜は桑名に泊る」と告げると、奥さん共々余りにも早いので驚いていた。
 1号線に出て桑名に向かったが、名古屋特有の広い道路も、通勤時間とあって、車の洪水に悲鳴を上げるが、それにしても凄い車の列だ。ここで一案を考えて、1丁左側の裏道を歩いたところ、旧東海道のように車が少なく、快適な状態と思ったのも束の間、川に突き当たって、また1号線に出る始末だったが。それを3度ほど繰り返したが、バカバカしくなって結局1号線を歩く。中川区を抜けるのに随分歩かされたようだった。
 漸く蟹江町に出る。暫く歩いていると、後から走って来る70歳前後の人が、
「貴方の歩くペースは早いが、何処に行くのですか」
東海道を歩いているが、この辺は1号線を歩くしかないので、車には参っている。桑名まで歩く予定ですが、貴方は何時も走っているようなスタイルだが」
「これから友達、と言っても65歳のお婆ちゃんで、ジョギング仲間で良く一緒に走っているが、これからそのお婆ちゃんの家に遊びに行く。ところで貴方はどこの人ですか」
「北海道だが、3日東京日本橋から東海道五十三次の旅に出て、今日で15日目、この調子で行くと22日前後には京都に着く予定だ」
「北海道ですか。私は稚内から函館まで走ったことがあるが、途中士別のスーパーに入ったところ、碌な物が無いので、店員に聞くと、間もなく閉店すると言っていたが、あの辺では商売にはならないだろうと思った。札幌周辺で北海道の人口の半分近くが居るのでは、士別辺りでは無理だ。この北海道縦断を完走した際、地元の新聞にも掲載された。サロマ湖100キロマラソンも走ったが、ゴールした時は感動で涙が止まらなかった」
 北海道には詳しい訳だ、喋っている間、小刻みに足を私に合わせて走っていたが、「気を付けて」の言葉を残して走っていったが、彼の背中は間もなく視野から消えた。
 名古屋と言えばキシメン。昼時になったので、福津屋の大きな暖簾が出ていたうどん屋に入る。和風の建物で従業員もてきぱきとして、重い荷物を持っているのを見て、小上がりに席を取ってくれた。キシメンを注文すると、何とか鳥のうどんのみで、キシメンは無いとのこと、止む無くその力うどんを食べたが、味は上々で美味かった。
 明日の宿を鈴鹿市観光協会に聞いて、2軒のBHに電話したが何れも断られた。理由は鈴鹿サーキットが開かれるとのこと。先に聞いたところは、1年前から予約で一杯とのことだった。3軒目のBHと繋がったが、庄野宿とは2粁ほど左寄りのところと聞いたが、今更他所を探すのも大変で予約するが往復4粁ロスすることになる。初めてF1の凄さを思い知った次第だった。
尾張大橋は渡り切るのにとに角長かった 

 店を出て暫く歩くと、木曽川に架かる尾張大橋が見えてきた。
 尾張大橋も歩けど歩けど対岸に中々着かないほどの長い橋で、1粁以上は優にある感じだったが、渡りきると間もなく今度は伊勢大橋が見えてきた。
巨大な堤防がかって伊勢湾台風があった事を伝える 

 この伊勢大橋は揖斐川長良川に架かる大橋で、歩いている途中、右手の中洲から車が橋に入ってくるのには驚いたくらい長大な橋で、左に眼を転じると、揖斐川に架かる巨大な水門が一列になって川を遮っているのが見えた。これは伊勢湾台風からの教訓で作られたものだった。渡り切ったところが伊勢国三重県桑名市だ。
 信号を左折すると桑名市内に入る。3時10分と少し時間が早すぎるので、喫茶店で時間潰しのコーヒーとゆで卵にピーナツが付いての350円は廉かった。マスターに今夜の宿を聞くと、ここから歩いても5分も掛らない近さだった。
 店を出ると直ぐ先に、佃煮屋があったので入ると、店の女性が出てきた。桑名と言えば、焼蛤とその佃煮で有名、佃煮には、しじみと蛤の2種類があり、味見したところはっきりと蛤の方が美味かったので、早速、昭和天皇も食べたと言う佃煮を買ったが、2千円とは思ったより高かった。店員はリュックを背負った姿を見て、「どちらからお越しですか」の問いに、
「北海道だが、東京日本橋から京都三条大橋に向かって東海道を歩いているところです」
「私は日高の浦河出身です」には参った。今日これで熱田神宮の人と合わせて2人目の道産子と関りのある人に会うとは世の中も狭いものだ。
 店を出て直進すると七里の渡しに着いた。11月の中を過ぎると落ち葉が舞い、如何にも晩秋の装いが際立った。家康の家来本多忠勝の大きな銅像が有るところを曲がり、少し歩くと七里の渡し跡があった。以前は宮の渡しから舟が着いた場所だ。
桑名宿(宮からの舟が着いたところか)

かっての船の発着場は分厚いコンクリートに囲まれていた 

 伊勢湾台風で新しく嵩上げされて昔の面影は無いが、観光用に作られた堤防の上から見る、伊勢湾に架かる水門をまじかに見ることが出来る。序に鹿鳴館等を設計したコンドルの六華園は時間が遅いので中に入れなかった。
 旅館初音は玄関が閉まっていたので、止む無く近所をうろついたところ、昔の大塚本陣跡に、久保田万太郎が新派向けの「歌行灯」を執筆した料理旅館船津屋が、駿河脇本陣は料理屋山月と姿を変えていた。
 また春日神社の青銅の鳥居を眺めて、再び宿に向かったが、相変わらず玄関は閉まったまま。向いの電気屋に聞いたところ、玄関は裏にあると聞いて、そこを曲がると、割と新しい旅館初音があった。
 外は薄暗い4時15分、女将さんに玄関が判らず苦労した話をすると、申し訳ないと謝り、判るように張り紙等をすると話していた。
 部屋は旅館だけあって調度品も適当にあって、久しぶりに寛いだ雰囲気になった。荷物を解いて風呂に入るが、4時近くなって冷たい川風に当たりながら七里の渡しを見たり、宿の周辺をうろついたりした身体には何よりの湯加減だった。足の裏も丹念に揉む。今日も貸切だ。
 夕食は女将さん心尽くしの料理の品が並び、「その手は食わぬ(桑名)の焼き蛤」こそ無かったが、先ほどの玄関のことも忘れて、女将さんから三重県の状況や、紀伊半島の観光地に就いて色々聞いたりして時を過ごし、今日2人の北海道の人との出会いや、北海道のことを女将さんに話すと、一度行きたいと仕切りに言っていた。
 部屋に戻り今日の日記を付け、10時過ぎ蒲団に入った。