天気も良く明日愈々京都と思うと足も軽く感じる程好いペースで歩いた

21日(19日目) 火 16度 快晴 石部宿 草津宿 大津宿 
                   32,1粁(484,0粁)
                   旅館植木屋(8,500円)
 マネジャーから和中散本舗を是非見るようにとの声を背に、7時55分、ホテルを出て直ぐ踏切を渡る。丁度小学校の通学時間帯で、狭い旧東海道では車が連なって進むが、大型車が来ると片側の車は止まって通り過ぎるのを待つ。
 学童達と一緒に白線の中を進むが、子供達は慣れているのか、じゃれ合いながら進むが危険この上ない。間もなく前方に大沙川の下にトンネルが見えて来た。北海道では考えられない川の下にトンネルとは。
 何時の間にか子供達の姿も消え、車も少なくなって来た。30分ほどで石部宿に着いたので、家の玄関前を掃除していたお婆ちゃんに、和中散本舗の場所を尋ねると、知らないと言う。この町の有名な、和中散本舗を知らないとは。
石部宿(当時は草鞋履きではさぞかし冷たかったことだろう) 

広重が画いた宿場の向うに見える山だ

 石部宿の小島本陣跡には、後裔の小島さんが住んでいるようだ。その先の角を曲がると石部駅があった。真面目で頑固な人を「石部金吉」と言うが、由来はこの地と関わりがあるようだ。駅前にいた老人に、和中散本舗の場所を聞くと、暫く考えてから、栗東市の方かな、と、これまた心もとない。如何なっているのか。
 JRの線路と並行して1号線が走っているのを見ながら、先へ進むと、高速道路が見えて来たのでその下を通ると、栗東市の標識が見えてきた。
 線路に沿って暫く進むと、地蔵堂が見えた先に、マネジャーが必ず見て欲しいと言っていた旧和中散本舗があった。この地域は「六地蔵」と言っているがこの地蔵堂と関係があるらしい。
和中散本舗の裏の庭を見たかった 

 かって家康が腹痛を催した際、ここの薬を飲んだ結果、腹痛が納まったことから有名になり大いに商売繁盛し、元禄時代に建てられた家屋と、広重が絶賛した庭園と共に文化財に指定されている。今は薬は作っていないが、表札を見ると、「大角彌右衛門」と尤もらしい名前で、如何にも旧家の重みが感じられた。出来ることなら庭を見たかった。
 高速道路をくぐると左手に、稲荷神社があって、初めて紅葉を見た。10時、右手にJR手原駅があったので、時間があったので休憩したが清潔な駅舎だった。
 駅を出て間もなく足利幕府9代将軍義尚が陣地を張ったと伝える石碑があったので、その土手を上がると大きな池があった。久しぶりに新幹線が目に入った。
姥(うば)が餅の暖簾を見ると信長や秀吉の時代に始まった 

 その高架をくぐり、直進して1号線に出た右手に、11時10分、草津市姥(うば)が餅本舗があったので立ち寄る。この餅は、東海道を旅する人たちには無くては成らないほど有名な餅だったようだ。
 玄関前には昔使った大きな窯がすえられていた。左手が食堂で、買ったばかりの餅を頬張る。お茶のお代わりをしてもらう。伊勢の赤福より少し小ぶりだが、似たような味で小さいので食べやすい。
草津宿(左の篭は京都へ、右の篭は東海道か中仙道か)

草津田中本陣は現存する本陣として二川本陣だけだ 

 天井川草津川に沿った道を通り、堤防に上って川を渡ると草津宿に入る。中仙道と交わる傍に、草津宿田中本陣が有り、代々木材業を営んでいたので木屋本陣とも言う。明治維新も生き残って現在に至っている。
 二川宿本陣同様本陣内を見ることが出来たが、先を急ぐので見学はやめた。外から見た感じでは、可なり広大な建物のようだ。宿場の両側は商店が軒を連ねて、人の往来も活発で、昔の宿場らしい雰囲気が感じられた。
 郵便局の前を通ると、ラーメン屋があったので塩ラーメンを食べたが、脂が強すぎたのか胸にもたれた。早々に店を出て、一旦1号線に出て野路一里塚跡から旧東海道に入る。道の両側には民家が立ち並んでいた。
 間もなく月輪池が見え周囲で宅地造成が行われていた。大江4丁目で道が判らなくなり、太い道路に出たので何気なく歩くと1号線に出たので、今更戻るわけにも行かず、そのまま1号線と歩くと、赤い欄干の橋と繋がり、右にカーブすると瀬田の唐橋に出た。
瀬田の唐橋はかっては軍馬が往来した橋だ 

 近江八景の一つ、瀬田の唐橋の周辺をカメラに収め、橋を渡って石山駅に出る。間もなくNECの工場の脇を通ったが、可なり大きな工場だった。若宮神社を過ぎた辺りから道に迷い、地元の人に聞いても旧東海道に出る道は判らないので、琵琶湖に出る道を尋ねて、暫く進むと近江大橋が見えてきた。
 漸く膳所城北惣門跡に出たが、前方に高層ビルがあったので、通り掛った人に尋ねると、プリンスホテルとのこと。
義仲寺を何故か芭蕉は幾度も訪れているが、木曾義仲と並んで葬られている 

 近くのスタンドで大津駅に出る道を聞いて歩くと、偶然、義仲寺のバス停に出たので、早速義仲寺に向かう。巴御前木曾義仲を葬った寺で、後に、芭蕉がこの寺を幾度か参り、自分の墓をこの義仲寺にと決め、大阪で亡くなった後、弟子達によって遺言通り遺体を舟で淀川を遡って、この寺に葬った。二つの墓に手を合わせて寺を出ると4時近かった。
 宿に電話で、宿の場所を聞いた後、近江牛のスキヤキを食べる店を聞くと、みずほ銀行の傍の「かど万」を教えてもらった。
 夕暮れ時であったが、みずほ銀行は直ぐ判った。4時20分、「かど万」の1階は肉屋で、2階がスキヤキの店だった。40年ほど前に、琵琶湖のほとりで食べた近江牛のスキヤキの味が忘れられず、今回の旅の終着点に近い、大津付近で食べる積りで居たので、メニューで一番高い一人前6千円を注文する。
 その間ビールを呑みながら待つ。店員が肉に砂糖と醤油に水を入れた容器を持って来たので、
「タレは?」と聞くと、「砂糖と醤油だけで味付けする」
「私はスキヤキをこのようにして食べたことがないので、味付けして欲しい」
「店ではお客さんがすることに成っているので悪しからず」
と言って下に降りて行ってしまった。
 誰も居ないので人に聞く訳にも行かず、止む無く、鍋に脂を敷いて肉を乗せた上に、砂糖と醤油を掛けて暫く鍋の中を見ていると、煮上がってきたが、味が如何なっているのか判らないので、焼けたのを食べると、塩っぱいので砂糖を足したり水を差したりしている内に、肝心の肉は焼け過ぎたりして、忙しい目に会いながら何とか食べ終えたが、美味いより何より、スキヤキは仲居さんに頼むか、カミさんと食べるに限ると痛切に感じた。
 帰り際店員に、「皆さんこの様にして食べるのか」と聞くと、「その通りです」の答えが返ってきた。これが関西風のスキヤキか。
 店を出ると外は真っ暗闇だったが、街灯を頼りに、三井寺の裏口に当たる、長等神社前の旅館植木屋に着いたのは5時45分だった。
 女将さんが、「スキヤキ如何でした」の問いに、事の顛末を話すと、
「スキヤキは砂糖と醤油の味付けで食べるのが普通です」
には参った。
 洗濯物を出すよう言われたので、好意に甘んじることにして、下着のほか、ズボンとウインドブレーカーも頼む。
 風呂に入ってから、スキヤキを食べた後にも拘らず、旅館の料理を余さず食べたのには我ながら驚いた。今日も貸切だ。愈々明日念願の京都三条大橋に立つのを楽しみに、日記を書いた後、蒲団にもぐりこんだ。