3日日本橋を発って今日念願の三条大橋を渡った

22日(20日目) 水 14度 曇り 京都三条大橋 青蓮院門跡 知恩院 高台寺 八坂塔 神護寺 西明寺
                   11,8粁(495,8粁)
大津宿(京都へ牛車で米でも運んでいるのかな) 

 7時35分、女将さんに送られて宿を出て、札の辻跡を曲がり広い通りには京阪電車のレールがあった。歩道に大津宿二つの本陣跡の標識が嵌め込まれてあったのは珍しかった。
 緩やかな坂を登ると、JRの線路の上を歩いたことを知らずに、踏切が現れたのでJRの踏切と思ったが、何となく違う感じがしたので、簡易地図を見ると、JRの踏切は100米ほど手前に書いてあったので一旦戻ると、確かに橋の下に線路があった。通り掛った人に地図を見せながら、山科に行く道を聞くと、この踏切(京阪電鉄)を渡っていくと間違いないとのこと。
 国道1号線の踏切を渡り暫く歩くと、名神高速が見えたのでその下を通り右に曲がると、右手に弘法大師堂と逢坂の関跡が見えた。
 昔京都を出る人にとっては、無事に帰れるのかと振り返りながら東に向かい、江戸から来た人にとっては、後、数時間で京都に着く思いが交錯した場所だ。
国道1号線は相変わらず車が多い。ここからは坦々とした下り道を歩くと、左伏見、右京都の山科追分の標石を右に進むと旧東海道に出る。ここから山城国、今の京都市に入った、と言っても境界は下水で仕切られていた。
札幌のH氏から電話が入り、
「今何処を歩いているのか」
「もう直ぐ山科に入る」と伝えると、
「エー、山科!直ぐ京都だが随分早いものだ、今日で何日目か」
「20日です」
と返事したが思ったより早い感じなのか感心していた。
 山科と言うと、浄土真宗中興の祖蓮如上人がこの地に大伽藍を建立したことや、元赤穂藩家老の大石蔵之助が一時蟄居していた場所として山科の名が知られ、それにあやかって義士餅が売られている。
京阪電鉄に沿ったほぼ一直線の道を歩くと、三条大橋に行く143号線と合流して、JRの高架の下を通る。間もなく左に入る道があったのでそれなりに歩くと再び143号線に出た。間違えたのか日ノ岡峠に出る道から外れたようだ。戻るのも億劫とばかり143号線を歩く。
旅館か料理屋か何時崩れるか気になる 

 左の急斜面には今にも崩れそうな旅館風な建物を、鉄骨で漸く支えられているのが目に入った。壊すにも多大な経費がかかるのでそのまま放置しているのだろうが、何れ倒れる可能性は大だ。この外にも似たような建物があった。また、かって牛にでも牽かせたのか、米俵の模型を積んだ荷車が2台、道路の左側に展示されていた。
見事に刈り込まれた蹴上浄水場の木々 
 
 左手に蹴上(けあげ)浄水場が見えて来たが、丸く刈り込んだツツジや松が目に飛び込んできた。これは凄いが刈り込む作業も大変だろう等考えながら左に曲がると、都ホテルがあったが標識を見ると、外資系の名前が書いてあった。
 東山への道案内があり、左知恩院、右平安神宮を見て、来た序にと左に曲がり知恩院に向かう。途中、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)が見えたので、中を覗いた後、外に出ると巨大な楠が目に入った。さすが京都だ。
知恩院の山門と南禅寺の三門は甲乙付けがたい堂々たる威容を誇る 

 浄土宗開祖の法然上人所縁の知恩院は巨大な山門が迎えてくれる。鐘楼の鐘は、大晦日の「行く年、来る年」に時々登場する名鐘だ。親鸞上人はここで法然上人に学び後に浄土真宗を興し、後に蓮如上人もここで学んだと言われる。境内の紅葉も時期的には申し分が無いほど赤く染まっていた。
 豊臣秀吉の妻ねねが、秀吉亡き後、髪を下ろして余生を送った高台寺へ行く坂道を登る。
円山公園の紅葉を撮るのも人を掻き分け大変だ 

 観光客が多く目に付き、門前に列をなしていたので周囲を見た後、八坂の塔を訪ねたが、道幅は狭いので、車が入れないのか、人力車を牽く若者が客待ちしていた。この塔は東山と言うより、京都を代表する五重塔として観光ポスター等に目に触れる機会が多い。
坂道を下り鴨川縁りの道に出たが、相変わらず観光客で溢れかえっていた。東山周辺を歩いたので、大分行き過ぎてしまったので三条大橋まで戻る。
京都三条大橋(東山の山裾に寺の屋根が見える)

日本橋から三条大橋までの500粁、色々な思いが交錯する

 11時丁度、三条大橋の橋の袂に着いた。勤皇の志士、高山彦九郎の像を背景に写真を撮ってもらう。
 三条大橋を渡ると、直ぐ右手に、新撰組の名を天下に知らしめた池田屋騒動の跡があった。
 大阪から新千歳に帰る航空券を求めて四条通りに出る途中、旅行会社があったので中に入り掛けると左側に偶然、坂本竜馬中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡の標柱があった。24日の航空券も思ったより廉く手に入れることが出来た。
 思えば平成14年、「奥の細道」車行脚の旅を終え、烏丸通りの駐車場に車を止めたところに、蕪村終焉の地の標柱を見た事を思い出した。千年の都、京都ならではの出会いだ。
 四条河原町の食堂で完歩を祝って、うな丼を食べた。四条烏丸のバスターミナルから神護寺に向かう。市営バスの料金は均一で220円とは廉い。
 先ほどの「奥の細道」車行脚で、天橋立まで足を伸ばした後、丹波篠山経由で、北山杉の山を抜けて高尾の高山寺を見て、神護寺に来た時は5月の中旬で、新緑でまばゆい紅葉の木を見て、今度は紅葉の時期にとの念願が遂に適う日が来た。
 予想したとおり駐車場には多くのバスが駐車していた。
 神護寺に向かうには、一旦下ってから坂道を登るので、年寄りにとっては大変だが、皆さん何とか言いながら登っていた。
人が途切れることが無いのでシャッターチャンスは難しい 

 紅葉はまさに真っ盛りで、多くの観光客は写真を撮り合っていた。北海道の紅葉とは違って、葉の大きさも4から5センチほどの大きさで、それが真っ赤になっている様はまさに自然の妙だ。
神護寺金堂は昭和10年大阪の商人が寄贈した 

 金堂にも多くの観光客が訪れていた。この寺は空海弘法大師)が唐から帰った後、暫く勉学に励んだ場所として名が知られている。
 帰途、茶屋で、みたらし団子を食べているところを店の人に写真を撮ってもらう。
 隣の西明寺を見たが、神護寺を見てしまったので、簡単に済ましてバス乗り場に向かい、丁度バスが来たので乗り込む。
 帰りのバスは満員で、途中立命館大学付近まで渋滞し、1時間半ほどかかって京都駅に着いた。今日も10人以上の人に道を尋ねたが、今回の20日間の旅でも、恐らく数百人の世話になったことだろう。
 京都から大津までは電車で10分少々で着く。宿までは街灯が少ないので暗がりの道を歩く。宿に着いたのは6時を過ぎていた。風呂に入って板のように硬くなった足の裏を丹念に揉む。
 今夜は夫婦連れの客と一緒に夕食を食べたが、話によると、私同様京都の宿が取れず、この宿を取ったとのこと。明日、神護寺高山寺に行くと話していた。
 東海道500粁完歩を祝って何時ものビールの外に銚子2本を追加して、20日間の旅の疲れを落とした。
 女将さんが客の2人に、私の東海道一人旅の話をすると、健康が何より、と羨ましがっていた。
 部屋に戻り、我が東海道五十三次最後の日記を付ける。
 これで全てが終った。
 明日、明後日に掛けて、三井寺園城寺)、金閣寺北野天満宮真如堂永観堂南禅寺清水寺等の紅葉を満喫しようと思っているが、特に南禅寺三門脇の豆腐茶屋で、湯豆腐を食べながら、熱燗の酒を呑むのが念願だったので、明日は楽しい一日に成りそうだ。