洛中洛外紅葉三昧と終わりに

神護寺手前の橋を渡る人・人・人             

金堂へ向かう坂の途中にある茶屋

朱塗りの門に映える紅葉

西明寺の梵鐘

金閣寺に松と紅葉が良く似合う

真如堂では幕末の会津藩士の墓が目に付いた

永観堂には三千本の紅葉が乱舞する

南禅寺三門で石川五右衛門が「絶景なり」と叫んだ、とは嘘のようだ

南禅寺裏の煉瓦造りの疎水に琵琶湖から、かって水が流れていた

清水寺の舞台は相変わらず人で溢れかえっていた

念願の南禅寺名物の湯豆腐で至福の時を過ごす

南禅寺三門から京都市内遠望(京都タワーの左が京都駅)

                  終わりに
 結果的には20日間一日平均25粁で東海道を歩いた。初めから足の裏にテーピングして万全を期した積りでも、二日目で左足にマメが出来、七日目には箱根の石畳で傷めた右足裏のマメの外、末梢神経を傷めた痛みは最後まで治らなかった。  四国遍路の時は、約1150粁を一日平均31粁で歩き、時には40粁を越えたこともあり、半月も過ぎると治ってその後は快調なペースに戻ったが、今回のペースダウンは年齢と足の痛みが影響しているのかもしれない。
 1年経った今も右足裏の痺れこそ無いが、医者の話によると、末梢神経が傷んだのでその内治るとのことだが、相変わらず違和感を感じながら歩いている。
 さて、今回は四国遍路地図のような本が無かったので、インターネットから引き出した大雑把な地図と、先輩から頂いた「東海道五十三次」のカードを頼りに歩いたが、国道1号線等から、旧東海道に入る、またはその逆に旧街道から国道への入り方が、ラフな地図では不鮮明と判ったので、徹底的に道を尋ねることに徹し、数百人の地元の人々に尋ね尋ねて何とか京都三条大橋に立つことが出来た。
 1604年、家康が東海道の重要性を痛感し、街道の整備と並行して道の両側に一里ごと榎で一里塚を設けたが、明治維新の混乱と戦後の経済発展優先から多くの一里塚が消え去り、完全な状態で両側に残っているのは皆無に近い状態で、辛うじて片側に残っているのは5本にも満たなかったと思う。
 一方東海道の象徴たる松並木は日除け用として、街道に沿って随所に設けられたが、島田、袋井、舞坂、御油知立等では保存状態が良かったが、その他では枯れたり、意識的に切り倒されたりして、数本単位で辛うじて命脈を保っているのが多く見受けられたが、歩く者にとっては道案内にもなって、遠くから松が見えると、ホッとしたものだ。
 また東海道の旅人の目を安んじてくれるのは、何と言っても富士山だ。小田原付近で見えると期待したが、生憎曇天で見ることが出来ず、箱根関所から芦ノ湖越しに見た富士山が最初で、しかも強風で前日に積もった雪を吹き飛ばしていた。然しそこから静岡までは快晴が続き、連日富士山を満喫することが出来た。沼津付近から眺めた富士は余りにも完璧な姿で絵葉書的だが、富士川堤防から見た山頂付近がやや斜めになった山容の方が気持ちが安らむから不思議だ。また広重が描いた薩埵峠からの富士も良いが、現代のJR東海道線国道1号線を、広重と同じ目線からの富士の眺めも中々捨てがたい。
 東海道を歩いて驚嘆したことは、日本橋から箱根町に入る辺りまでの四日間、途中、川で途切れるのは別にして、切り通しの丘の上も途切れることも無く延々家並みが続いていた。
 また国道1号線に入るとトラックの洪水に悩まされ、まさに日本の動脈そのものを実感した。特に愛知県に入った途端、猛烈な車の往来には恐怖すら感じたが、北海道と交通事故死日本一?1,2を争う地域が判る気がした。その反面トヨタ王国の実力をまざまざと見せ付けられた。
 他方、宿場を色濃く残す二川宿、亀山宿、関宿等はその面影を残すべく懸命な努力の跡が感じられた。然し、水口宿にあった300年来の旅籠「桝又」が取り壊されて、駐車場に成っていたのは見るに忍びなかった。赤坂宿に旅籠として現存している、大橋屋は何とか残して貰いたいものだ。
 「箱根の山は天下の険・・・」と唄われた旧東海道の道は箱根湯本の先にある、箱根細工の工房付近からの上り坂にある部分的な石畳とその前後の街道は、正月の大学駅伝に映し出されるような、九十九(つづら)折の道路を串差しにするように直登する坂道は、さすが天下の険に相応しい街道一の難所だった。
 箱根関所から箱根峠に掛けての石畳とその前後の街道の部分も右足裏の痛みに堪えながらの辛い歩きだった。
 それに較べれば坂之下宿から鈴鹿峠に掛けての上りもきつかったと感じた程度で、また茶所小夜の中山への坂は急だったが短いので思ったほどではなかった。街道もアスファルトやコンクリートが殆どで、土の上、または石の上を歩いたのは10粁にも満たなかったと思う。
 今回東海道を歩くに当り、二度の四国の経験から判断し、東海道を通しで(日本橋から三条大橋まで一度で歩く)往来する人は数千人と想像していたが、鈴鹿峠馬子唄会館館長の話によると、年間100人から多くて200人程度と話していたのには驚いたが、確かに京都に向かう途中、20日間の道中で、確実に通しで歩いている人に会ったのは二人だけだった。但し、区切りで歩いている人は数万人以上かもしれないが。
 この度東海道を歩いてみてこの街道は日本歴史の縮図で、文中、桶狭間をはじめとする、歴史の「若し」の部分に何かが起きていたら、その後の日本は群雄割拠の戦国時代が暫く続いて、西欧列強の餌食となっていた可能性を否定出来ない。
 「奥の細道」車の旅と合わせて、歴史のあるその場に立つことが出来、それだけに有意義な旅だった。
 一人旅を経験すると、人の情けが無性に有り難く感じ、今でもその時のシーンが胸をよぎる。
 第一回の四国遍路の後、今までの自分本位の生活から脱して、些かなりとも地域住民に対してご恩返しにと、町内会その他で多忙な日々を過ごしております。
 1年遅れながら21日間にわたり拙文をご覧頂き誠に有難うございました。
 平成19年11月23日
                         幸 松  正