洛中洛外紅葉三昧と終わりに

神護寺手前の橋を渡る人・人・人             

金堂へ向かう坂の途中にある茶屋

朱塗りの門に映える紅葉

西明寺の梵鐘

金閣寺に松と紅葉が良く似合う

真如堂では幕末の会津藩士の墓が目に付いた

永観堂には三千本の紅葉が乱舞する

南禅寺三門で石川五右衛門が「絶景なり」と叫んだ、とは嘘のようだ

南禅寺裏の煉瓦造りの疎水に琵琶湖から、かって水が流れていた

清水寺の舞台は相変わらず人で溢れかえっていた

念願の南禅寺名物の湯豆腐で至福の時を過ごす

南禅寺三門から京都市内遠望(京都タワーの左が京都駅)

                  終わりに
 結果的には20日間一日平均25粁で東海道を歩いた。初めから足の裏にテーピングして万全を期した積りでも、二日目で左足にマメが出来、七日目には箱根の石畳で傷めた右足裏のマメの外、末梢神経を傷めた痛みは最後まで治らなかった。  四国遍路の時は、約1150粁を一日平均31粁で歩き、時には40粁を越えたこともあり、半月も過ぎると治ってその後は快調なペースに戻ったが、今回のペースダウンは年齢と足の痛みが影響しているのかもしれない。
 1年経った今も右足裏の痺れこそ無いが、医者の話によると、末梢神経が傷んだのでその内治るとのことだが、相変わらず違和感を感じながら歩いている。
 さて、今回は四国遍路地図のような本が無かったので、インターネットから引き出した大雑把な地図と、先輩から頂いた「東海道五十三次」のカードを頼りに歩いたが、国道1号線等から、旧東海道に入る、またはその逆に旧街道から国道への入り方が、ラフな地図では不鮮明と判ったので、徹底的に道を尋ねることに徹し、数百人の地元の人々に尋ね尋ねて何とか京都三条大橋に立つことが出来た。
 1604年、家康が東海道の重要性を痛感し、街道の整備と並行して道の両側に一里ごと榎で一里塚を設けたが、明治維新の混乱と戦後の経済発展優先から多くの一里塚が消え去り、完全な状態で両側に残っているのは皆無に近い状態で、辛うじて片側に残っているのは5本にも満たなかったと思う。
 一方東海道の象徴たる松並木は日除け用として、街道に沿って随所に設けられたが、島田、袋井、舞坂、御油知立等では保存状態が良かったが、その他では枯れたり、意識的に切り倒されたりして、数本単位で辛うじて命脈を保っているのが多く見受けられたが、歩く者にとっては道案内にもなって、遠くから松が見えると、ホッとしたものだ。
 また東海道の旅人の目を安んじてくれるのは、何と言っても富士山だ。小田原付近で見えると期待したが、生憎曇天で見ることが出来ず、箱根関所から芦ノ湖越しに見た富士山が最初で、しかも強風で前日に積もった雪を吹き飛ばしていた。然しそこから静岡までは快晴が続き、連日富士山を満喫することが出来た。沼津付近から眺めた富士は余りにも完璧な姿で絵葉書的だが、富士川堤防から見た山頂付近がやや斜めになった山容の方が気持ちが安らむから不思議だ。また広重が描いた薩埵峠からの富士も良いが、現代のJR東海道線国道1号線を、広重と同じ目線からの富士の眺めも中々捨てがたい。
 東海道を歩いて驚嘆したことは、日本橋から箱根町に入る辺りまでの四日間、途中、川で途切れるのは別にして、切り通しの丘の上も途切れることも無く延々家並みが続いていた。
 また国道1号線に入るとトラックの洪水に悩まされ、まさに日本の動脈そのものを実感した。特に愛知県に入った途端、猛烈な車の往来には恐怖すら感じたが、北海道と交通事故死日本一?1,2を争う地域が判る気がした。その反面トヨタ王国の実力をまざまざと見せ付けられた。
 他方、宿場を色濃く残す二川宿、亀山宿、関宿等はその面影を残すべく懸命な努力の跡が感じられた。然し、水口宿にあった300年来の旅籠「桝又」が取り壊されて、駐車場に成っていたのは見るに忍びなかった。赤坂宿に旅籠として現存している、大橋屋は何とか残して貰いたいものだ。
 「箱根の山は天下の険・・・」と唄われた旧東海道の道は箱根湯本の先にある、箱根細工の工房付近からの上り坂にある部分的な石畳とその前後の街道は、正月の大学駅伝に映し出されるような、九十九(つづら)折の道路を串差しにするように直登する坂道は、さすが天下の険に相応しい街道一の難所だった。
 箱根関所から箱根峠に掛けての石畳とその前後の街道の部分も右足裏の痛みに堪えながらの辛い歩きだった。
 それに較べれば坂之下宿から鈴鹿峠に掛けての上りもきつかったと感じた程度で、また茶所小夜の中山への坂は急だったが短いので思ったほどではなかった。街道もアスファルトやコンクリートが殆どで、土の上、または石の上を歩いたのは10粁にも満たなかったと思う。
 今回東海道を歩くに当り、二度の四国の経験から判断し、東海道を通しで(日本橋から三条大橋まで一度で歩く)往来する人は数千人と想像していたが、鈴鹿峠馬子唄会館館長の話によると、年間100人から多くて200人程度と話していたのには驚いたが、確かに京都に向かう途中、20日間の道中で、確実に通しで歩いている人に会ったのは二人だけだった。但し、区切りで歩いている人は数万人以上かもしれないが。
 この度東海道を歩いてみてこの街道は日本歴史の縮図で、文中、桶狭間をはじめとする、歴史の「若し」の部分に何かが起きていたら、その後の日本は群雄割拠の戦国時代が暫く続いて、西欧列強の餌食となっていた可能性を否定出来ない。
 「奥の細道」車の旅と合わせて、歴史のあるその場に立つことが出来、それだけに有意義な旅だった。
 一人旅を経験すると、人の情けが無性に有り難く感じ、今でもその時のシーンが胸をよぎる。
 第一回の四国遍路の後、今までの自分本位の生活から脱して、些かなりとも地域住民に対してご恩返しにと、町内会その他で多忙な日々を過ごしております。
 1年遅れながら21日間にわたり拙文をご覧頂き誠に有難うございました。
 平成19年11月23日
                         幸 松  正

3日日本橋を発って今日念願の三条大橋を渡った

22日(20日目) 水 14度 曇り 京都三条大橋 青蓮院門跡 知恩院 高台寺 八坂塔 神護寺 西明寺
                   11,8粁(495,8粁)
大津宿(京都へ牛車で米でも運んでいるのかな) 

 7時35分、女将さんに送られて宿を出て、札の辻跡を曲がり広い通りには京阪電車のレールがあった。歩道に大津宿二つの本陣跡の標識が嵌め込まれてあったのは珍しかった。
 緩やかな坂を登ると、JRの線路の上を歩いたことを知らずに、踏切が現れたのでJRの踏切と思ったが、何となく違う感じがしたので、簡易地図を見ると、JRの踏切は100米ほど手前に書いてあったので一旦戻ると、確かに橋の下に線路があった。通り掛った人に地図を見せながら、山科に行く道を聞くと、この踏切(京阪電鉄)を渡っていくと間違いないとのこと。
 国道1号線の踏切を渡り暫く歩くと、名神高速が見えたのでその下を通り右に曲がると、右手に弘法大師堂と逢坂の関跡が見えた。
 昔京都を出る人にとっては、無事に帰れるのかと振り返りながら東に向かい、江戸から来た人にとっては、後、数時間で京都に着く思いが交錯した場所だ。
国道1号線は相変わらず車が多い。ここからは坦々とした下り道を歩くと、左伏見、右京都の山科追分の標石を右に進むと旧東海道に出る。ここから山城国、今の京都市に入った、と言っても境界は下水で仕切られていた。
札幌のH氏から電話が入り、
「今何処を歩いているのか」
「もう直ぐ山科に入る」と伝えると、
「エー、山科!直ぐ京都だが随分早いものだ、今日で何日目か」
「20日です」
と返事したが思ったより早い感じなのか感心していた。
 山科と言うと、浄土真宗中興の祖蓮如上人がこの地に大伽藍を建立したことや、元赤穂藩家老の大石蔵之助が一時蟄居していた場所として山科の名が知られ、それにあやかって義士餅が売られている。
京阪電鉄に沿ったほぼ一直線の道を歩くと、三条大橋に行く143号線と合流して、JRの高架の下を通る。間もなく左に入る道があったのでそれなりに歩くと再び143号線に出た。間違えたのか日ノ岡峠に出る道から外れたようだ。戻るのも億劫とばかり143号線を歩く。
旅館か料理屋か何時崩れるか気になる 

 左の急斜面には今にも崩れそうな旅館風な建物を、鉄骨で漸く支えられているのが目に入った。壊すにも多大な経費がかかるのでそのまま放置しているのだろうが、何れ倒れる可能性は大だ。この外にも似たような建物があった。また、かって牛にでも牽かせたのか、米俵の模型を積んだ荷車が2台、道路の左側に展示されていた。
見事に刈り込まれた蹴上浄水場の木々 
 
 左手に蹴上(けあげ)浄水場が見えて来たが、丸く刈り込んだツツジや松が目に飛び込んできた。これは凄いが刈り込む作業も大変だろう等考えながら左に曲がると、都ホテルがあったが標識を見ると、外資系の名前が書いてあった。
 東山への道案内があり、左知恩院、右平安神宮を見て、来た序にと左に曲がり知恩院に向かう。途中、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)が見えたので、中を覗いた後、外に出ると巨大な楠が目に入った。さすが京都だ。
知恩院の山門と南禅寺の三門は甲乙付けがたい堂々たる威容を誇る 

 浄土宗開祖の法然上人所縁の知恩院は巨大な山門が迎えてくれる。鐘楼の鐘は、大晦日の「行く年、来る年」に時々登場する名鐘だ。親鸞上人はここで法然上人に学び後に浄土真宗を興し、後に蓮如上人もここで学んだと言われる。境内の紅葉も時期的には申し分が無いほど赤く染まっていた。
 豊臣秀吉の妻ねねが、秀吉亡き後、髪を下ろして余生を送った高台寺へ行く坂道を登る。
円山公園の紅葉を撮るのも人を掻き分け大変だ 

 観光客が多く目に付き、門前に列をなしていたので周囲を見た後、八坂の塔を訪ねたが、道幅は狭いので、車が入れないのか、人力車を牽く若者が客待ちしていた。この塔は東山と言うより、京都を代表する五重塔として観光ポスター等に目に触れる機会が多い。
坂道を下り鴨川縁りの道に出たが、相変わらず観光客で溢れかえっていた。東山周辺を歩いたので、大分行き過ぎてしまったので三条大橋まで戻る。
京都三条大橋(東山の山裾に寺の屋根が見える)

日本橋から三条大橋までの500粁、色々な思いが交錯する

 11時丁度、三条大橋の橋の袂に着いた。勤皇の志士、高山彦九郎の像を背景に写真を撮ってもらう。
 三条大橋を渡ると、直ぐ右手に、新撰組の名を天下に知らしめた池田屋騒動の跡があった。
 大阪から新千歳に帰る航空券を求めて四条通りに出る途中、旅行会社があったので中に入り掛けると左側に偶然、坂本竜馬中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡の標柱があった。24日の航空券も思ったより廉く手に入れることが出来た。
 思えば平成14年、「奥の細道」車行脚の旅を終え、烏丸通りの駐車場に車を止めたところに、蕪村終焉の地の標柱を見た事を思い出した。千年の都、京都ならではの出会いだ。
 四条河原町の食堂で完歩を祝って、うな丼を食べた。四条烏丸のバスターミナルから神護寺に向かう。市営バスの料金は均一で220円とは廉い。
 先ほどの「奥の細道」車行脚で、天橋立まで足を伸ばした後、丹波篠山経由で、北山杉の山を抜けて高尾の高山寺を見て、神護寺に来た時は5月の中旬で、新緑でまばゆい紅葉の木を見て、今度は紅葉の時期にとの念願が遂に適う日が来た。
 予想したとおり駐車場には多くのバスが駐車していた。
 神護寺に向かうには、一旦下ってから坂道を登るので、年寄りにとっては大変だが、皆さん何とか言いながら登っていた。
人が途切れることが無いのでシャッターチャンスは難しい 

 紅葉はまさに真っ盛りで、多くの観光客は写真を撮り合っていた。北海道の紅葉とは違って、葉の大きさも4から5センチほどの大きさで、それが真っ赤になっている様はまさに自然の妙だ。
神護寺金堂は昭和10年大阪の商人が寄贈した 

 金堂にも多くの観光客が訪れていた。この寺は空海弘法大師)が唐から帰った後、暫く勉学に励んだ場所として名が知られている。
 帰途、茶屋で、みたらし団子を食べているところを店の人に写真を撮ってもらう。
 隣の西明寺を見たが、神護寺を見てしまったので、簡単に済ましてバス乗り場に向かい、丁度バスが来たので乗り込む。
 帰りのバスは満員で、途中立命館大学付近まで渋滞し、1時間半ほどかかって京都駅に着いた。今日も10人以上の人に道を尋ねたが、今回の20日間の旅でも、恐らく数百人の世話になったことだろう。
 京都から大津までは電車で10分少々で着く。宿までは街灯が少ないので暗がりの道を歩く。宿に着いたのは6時を過ぎていた。風呂に入って板のように硬くなった足の裏を丹念に揉む。
 今夜は夫婦連れの客と一緒に夕食を食べたが、話によると、私同様京都の宿が取れず、この宿を取ったとのこと。明日、神護寺高山寺に行くと話していた。
 東海道500粁完歩を祝って何時ものビールの外に銚子2本を追加して、20日間の旅の疲れを落とした。
 女将さんが客の2人に、私の東海道一人旅の話をすると、健康が何より、と羨ましがっていた。
 部屋に戻り、我が東海道五十三次最後の日記を付ける。
 これで全てが終った。
 明日、明後日に掛けて、三井寺園城寺)、金閣寺北野天満宮真如堂永観堂南禅寺清水寺等の紅葉を満喫しようと思っているが、特に南禅寺三門脇の豆腐茶屋で、湯豆腐を食べながら、熱燗の酒を呑むのが念願だったので、明日は楽しい一日に成りそうだ。

天気も良く明日愈々京都と思うと足も軽く感じる程好いペースで歩いた

21日(19日目) 火 16度 快晴 石部宿 草津宿 大津宿 
                   32,1粁(484,0粁)
                   旅館植木屋(8,500円)
 マネジャーから和中散本舗を是非見るようにとの声を背に、7時55分、ホテルを出て直ぐ踏切を渡る。丁度小学校の通学時間帯で、狭い旧東海道では車が連なって進むが、大型車が来ると片側の車は止まって通り過ぎるのを待つ。
 学童達と一緒に白線の中を進むが、子供達は慣れているのか、じゃれ合いながら進むが危険この上ない。間もなく前方に大沙川の下にトンネルが見えて来た。北海道では考えられない川の下にトンネルとは。
 何時の間にか子供達の姿も消え、車も少なくなって来た。30分ほどで石部宿に着いたので、家の玄関前を掃除していたお婆ちゃんに、和中散本舗の場所を尋ねると、知らないと言う。この町の有名な、和中散本舗を知らないとは。
石部宿(当時は草鞋履きではさぞかし冷たかったことだろう) 

広重が画いた宿場の向うに見える山だ

 石部宿の小島本陣跡には、後裔の小島さんが住んでいるようだ。その先の角を曲がると石部駅があった。真面目で頑固な人を「石部金吉」と言うが、由来はこの地と関わりがあるようだ。駅前にいた老人に、和中散本舗の場所を聞くと、暫く考えてから、栗東市の方かな、と、これまた心もとない。如何なっているのか。
 JRの線路と並行して1号線が走っているのを見ながら、先へ進むと、高速道路が見えて来たのでその下を通ると、栗東市の標識が見えてきた。
 線路に沿って暫く進むと、地蔵堂が見えた先に、マネジャーが必ず見て欲しいと言っていた旧和中散本舗があった。この地域は「六地蔵」と言っているがこの地蔵堂と関係があるらしい。
和中散本舗の裏の庭を見たかった 

 かって家康が腹痛を催した際、ここの薬を飲んだ結果、腹痛が納まったことから有名になり大いに商売繁盛し、元禄時代に建てられた家屋と、広重が絶賛した庭園と共に文化財に指定されている。今は薬は作っていないが、表札を見ると、「大角彌右衛門」と尤もらしい名前で、如何にも旧家の重みが感じられた。出来ることなら庭を見たかった。
 高速道路をくぐると左手に、稲荷神社があって、初めて紅葉を見た。10時、右手にJR手原駅があったので、時間があったので休憩したが清潔な駅舎だった。
 駅を出て間もなく足利幕府9代将軍義尚が陣地を張ったと伝える石碑があったので、その土手を上がると大きな池があった。久しぶりに新幹線が目に入った。
姥(うば)が餅の暖簾を見ると信長や秀吉の時代に始まった 

 その高架をくぐり、直進して1号線に出た右手に、11時10分、草津市姥(うば)が餅本舗があったので立ち寄る。この餅は、東海道を旅する人たちには無くては成らないほど有名な餅だったようだ。
 玄関前には昔使った大きな窯がすえられていた。左手が食堂で、買ったばかりの餅を頬張る。お茶のお代わりをしてもらう。伊勢の赤福より少し小ぶりだが、似たような味で小さいので食べやすい。
草津宿(左の篭は京都へ、右の篭は東海道か中仙道か)

草津田中本陣は現存する本陣として二川本陣だけだ 

 天井川草津川に沿った道を通り、堤防に上って川を渡ると草津宿に入る。中仙道と交わる傍に、草津宿田中本陣が有り、代々木材業を営んでいたので木屋本陣とも言う。明治維新も生き残って現在に至っている。
 二川宿本陣同様本陣内を見ることが出来たが、先を急ぐので見学はやめた。外から見た感じでは、可なり広大な建物のようだ。宿場の両側は商店が軒を連ねて、人の往来も活発で、昔の宿場らしい雰囲気が感じられた。
 郵便局の前を通ると、ラーメン屋があったので塩ラーメンを食べたが、脂が強すぎたのか胸にもたれた。早々に店を出て、一旦1号線に出て野路一里塚跡から旧東海道に入る。道の両側には民家が立ち並んでいた。
 間もなく月輪池が見え周囲で宅地造成が行われていた。大江4丁目で道が判らなくなり、太い道路に出たので何気なく歩くと1号線に出たので、今更戻るわけにも行かず、そのまま1号線と歩くと、赤い欄干の橋と繋がり、右にカーブすると瀬田の唐橋に出た。
瀬田の唐橋はかっては軍馬が往来した橋だ 

 近江八景の一つ、瀬田の唐橋の周辺をカメラに収め、橋を渡って石山駅に出る。間もなくNECの工場の脇を通ったが、可なり大きな工場だった。若宮神社を過ぎた辺りから道に迷い、地元の人に聞いても旧東海道に出る道は判らないので、琵琶湖に出る道を尋ねて、暫く進むと近江大橋が見えてきた。
 漸く膳所城北惣門跡に出たが、前方に高層ビルがあったので、通り掛った人に尋ねると、プリンスホテルとのこと。
義仲寺を何故か芭蕉は幾度も訪れているが、木曾義仲と並んで葬られている 

 近くのスタンドで大津駅に出る道を聞いて歩くと、偶然、義仲寺のバス停に出たので、早速義仲寺に向かう。巴御前木曾義仲を葬った寺で、後に、芭蕉がこの寺を幾度か参り、自分の墓をこの義仲寺にと決め、大阪で亡くなった後、弟子達によって遺言通り遺体を舟で淀川を遡って、この寺に葬った。二つの墓に手を合わせて寺を出ると4時近かった。
 宿に電話で、宿の場所を聞いた後、近江牛のスキヤキを食べる店を聞くと、みずほ銀行の傍の「かど万」を教えてもらった。
 夕暮れ時であったが、みずほ銀行は直ぐ判った。4時20分、「かど万」の1階は肉屋で、2階がスキヤキの店だった。40年ほど前に、琵琶湖のほとりで食べた近江牛のスキヤキの味が忘れられず、今回の旅の終着点に近い、大津付近で食べる積りで居たので、メニューで一番高い一人前6千円を注文する。
 その間ビールを呑みながら待つ。店員が肉に砂糖と醤油に水を入れた容器を持って来たので、
「タレは?」と聞くと、「砂糖と醤油だけで味付けする」
「私はスキヤキをこのようにして食べたことがないので、味付けして欲しい」
「店ではお客さんがすることに成っているので悪しからず」
と言って下に降りて行ってしまった。
 誰も居ないので人に聞く訳にも行かず、止む無く、鍋に脂を敷いて肉を乗せた上に、砂糖と醤油を掛けて暫く鍋の中を見ていると、煮上がってきたが、味が如何なっているのか判らないので、焼けたのを食べると、塩っぱいので砂糖を足したり水を差したりしている内に、肝心の肉は焼け過ぎたりして、忙しい目に会いながら何とか食べ終えたが、美味いより何より、スキヤキは仲居さんに頼むか、カミさんと食べるに限ると痛切に感じた。
 帰り際店員に、「皆さんこの様にして食べるのか」と聞くと、「その通りです」の答えが返ってきた。これが関西風のスキヤキか。
 店を出ると外は真っ暗闇だったが、街灯を頼りに、三井寺の裏口に当たる、長等神社前の旅館植木屋に着いたのは5時45分だった。
 女将さんが、「スキヤキ如何でした」の問いに、事の顛末を話すと、
「スキヤキは砂糖と醤油の味付けで食べるのが普通です」
には参った。
 洗濯物を出すよう言われたので、好意に甘んじることにして、下着のほか、ズボンとウインドブレーカーも頼む。
 風呂に入ってから、スキヤキを食べた後にも拘らず、旅館の料理を余さず食べたのには我ながら驚いた。今日も貸切だ。愈々明日念願の京都三条大橋に立つのを楽しみに、日記を書いた後、蒲団にもぐりこんだ。

水口の300年来の旅籠は駐車場に変わっていた

20日(18日目) 月 15度 小雨 水口(みなくち)宿 三雲町 
                   18,5粁(451,9粁)
                   ホテル甲西(8,000円)
 宿を出る際、女将さんに料金を聞くと、8,400円とのこと、一瞬高いとは思ったが、今更値引く訳にも行かないので支払う。7時55分、小雨が降っているので合羽を着て宿を出る。
街道筋の紅がら格子の家 

 京都に近付くに従い、紅がら格子の建物が目に入る。旧東海道の道路には黄色のアスファルト舗装が施してあったので、どの様にしてこの色が出るのかと思いながら歩いていると、茶畑が道の両側に黒いネットを張るようにワイヤーが張られているのを見て、お婆ちゃんに、
「この黒いネットは何ですか」
玉露の茶を作るためには、この様にして霜除けや、日焼けを防ぐために手間暇が掛かる」
「お茶の木を植えて収穫するのに何年くらい掛かるのか」
「3年ほどで収穫できるが、最近は農薬を余り使わないので、堆肥を鋤き込んだりしている」
とに角周囲は茶畑が広がって、今まで見た小夜の中山や牧の原の茶所と甲乙が付け難い。
 間もなく松並木が見えてきた。左に野洲川が流れていた。大野市場一里塚でストップウォッチを押して、次の一里塚間の時間を計測すると、44分掛ったので、1粁当たり11分と少しペースは遅かった。
 野洲川に沿った道を歩くと冠木門が目に入る。10時、東見付跡でここから水口宿に入る。
水口宿(干瓢を干している女達)

今年ここで山車の全国大会が開かれた

 本陣跡から正面に道が三本に分かれるので、真ん中の道を進む。問屋場跡の休憩所での公衆電話で、京都の宿を数件電話したが何処も満杯状態で断られたので、前から穴場として聞いていた大津付近の宿を電話帳で探し、旅館植木屋を明日から三泊予約する。
 雨も上がったようなので合羽を脱いでリュックに入れ、休憩所を出るとカラクリ時計が正面にあった。この宿の目玉は山車で有名のようだ。昼時で食堂を探したが見当たらなかったので、止む無くパンを買い、どこで食べようかなと探して歩いていると、うどん屋の暖簾が目に入ったので入る。食堂はこの町には一軒しかないらしい。雨に降られた身体には熱々のうどんは何よりだった。
 水口石橋駅の踏切を渡り、道なりに曲がると、林口一里塚に出た。両側に刈り入れの終った田圃が続く、真っ直ぐで単調な田舎道をただ歩く。泉一里塚から太い道に出ると、轢かれたばかりの犬の死体が道の真ん中にあったのを、目にすると気分が優れない。一号線に出て横田橋を渡ると、12時40分、三雲駅に着いた。
 早く着き過ぎたので、駅員に隣の石部駅に旅館かホテルは無いかと聞いたところ、石部には無く、この辺りでは草津に有るだけです、とのこと。今更草津までは歩けないので、ホテルに電話すると、駅前の道を線路に沿って真っ直ぐ進むと、踏切がありその傍にホテルがあるとのこと。ホテル甲西には10分足らずで着いた。
 1時、チェックインの際、宿泊名簿に記入しているとマネジャーが、
江別市は北海道のどの辺ですか、札幌と函館に小樽はは知っているが」
との問いに逆に「どの辺と思うか」と聞くと、「うーん、全く判らない」
「札幌を中心にして西隣、つまり左側は小樽、その反対側、つまり東隣が江別市だ」
「札幌の隣ですか、北海道は広いから中々町は覚えられない」
「私も三雲の町の名は初めて聞いたが、この付近には大きな工場があるようで、三雲駅で電車が着くと大勢のサラリーマンの人達が降りて来た」
「うちのホテルはその人たちが良く泊まる」
 一先ず部屋で濡れた合羽等をハンガーに吊るし、ベッドの上に荷物を出してから、資料を調べていると、300年続いている、「旅籠桝又」に行ってないのに気が付いたので、再びロビーに下りてマネジャーに、
「京都の地図があるか」と聞くと、後で揃えて置くので、揃い次第電話するとのこと。
「水口宿に300年続いている、桝又旅館の話は前から聞いていたが、行くのを忘れてしまった。時間が早いのでこれから行くには、今更歩く訳には行かないので如何したらよいか」
 マネジャーは時刻表を見ながら、
「15時42分の電車が間に合うので、貴生(きぶ)川で近江鉄道に乗り換え、水口石橋駅で降りると水口宿は直ぐだ」
 礼を述べて部屋に戻り、雨の心配が無いので、ウインドブレーカーを着て、手にカメラを持って三雲駅に向かう。時間をどう過ごすかと心配していたのも、杞憂に過ぎなかった。
 三雲駅で電車に乗り、言われたとおり貴生川で乗り換えたが、待つほどのことも無く近江鉄道の電車が来たので、その電車の乗り水口石橋駅で下車すると雨が降っていた。先ほど通った踏切を渡り、宿場の中程まで探したが旅館桝又が見当たらず、軒先で雨宿りしている時、丁度通り掛った人に、旅籠桝又の場所を聞くと、目の前の駐車場を指差して、
「6年ほど前まではここに有ったが、その後、建物も傷んで来たので、市に買い上げて貰うよう頼んだらしいが、個別の物件に対して特例は難しく、結局この様に取り壊されて駐車場になってしまったが、取り壊されてから、初めて貴重なものを失った空しさを覚えた」
 その人に礼を述べてその駐車場を写真に撮る。態々来て何と言うことか。赤坂宿の大橋屋は今でも営業しているのにと思ったが、我々には判らない事情が有ったのだろう。それにしても何とか成らなかったのかと、東海道を旅する者にとっては惜しい話だ。
 無人駅の石橋駅の時刻表を見ると、次の電車までは40分ほど時間があるので、踏切手前の喫茶店に入り、店主にコーヒーを飲みながら先ほどの顛末を話すと、
「町全体もその費用を負担する余裕も無く、取り壊されてしまった」
と残念そうだった。その後の雑談で店主は元サラリーマンで、
「定年で送別会をして貰った際、島根から両親のいる水口まで歩いて帰る事を話すと、道中の費用にとカンパで30万円ほど集まったが、その後階段から落ちて足首を捻挫し、今更カンパを返す訳にも行かないので、松葉杖を突きながら何とか家に帰った」
との話を聞いたので私も、
「初めての四国八十八ヶ所歩き遍路の旅に出る際、身内から友人知己までを含め、76人の供養をすることで自らの退路を断って、途中からの挫折を食い止め無事結願した」
と似たような話をして2人で大いに盛り上がった。今年、水口でカラクリ山車全国大会があって賑わったと話していた。
 そこへ親子連れが来て、お焼を20個注文したので、店主もその仕事に取り掛かったので私も2個頼む。田舎だけにお焼も扱っているようだ。夜はバーになるようなカウンターがあった。
 雨は少し小降りになってきたが、外は真っ暗闇だった。時間が来たので2個のお焼きを手に駅に戻り、誰も居ないのでお焼を食べたが美味かった。
 ホテルに着いてマネジャーに、今は取り壊されて駐車場になった話しをすると、申し訳ないと盛んに謝っていた。
 部屋に戻り風呂を沸かし、三日振りで髭を剃り右足の痛みは未だ取れないので丹念に揉む。1階の食堂に入ると、マネジャーが京都周辺の地図を持って来てくれたが、まだ、水口の旅館のことを詫びていた。序に京都の旅館は満杯なので、大津の旅館を取ったことを話すと、それは正解と誉めてくれた。
 昨日はお粗末な料理だったので、天ぷら定食を食べたが、揚げたてで美味かったので、昨日の分も含めて栄養補給は十分摂った積りだ。
 明日は大津に泊り、明後日の午前中には愈々三条大橋に立つこと間違い無しだ。 今日は歩いた距離こそ少ないが、内容の豊富な一日だったような気がするのを日記に書き込む。

箱根峠に次ぐ鈴鹿峠越えは想像したほどではなかった

19日(17日目) 日 14度 曇り時々雨 亀山宿 関宿 坂之下宿 土山宿(近江国
                       30,1粁(433,4粁)
                       ビジネス旅館大安(8,400円)
 お茶を沸かし、昨日四日市で買った笹井屋のなが餅を朝飯代わりに食べたが侘しいものだ。7時10分、ホテルを出る。イオンの駐車場には1台の車も無く、昨夜の喧騒は何だったのかと考えながら亀山宿を目指す。昨日間違って渡った汲川原(くみかわら)橋を通って、旧東海道に出る。
 この付近は今日は日曜日とあって人っ子一人居ないような異様な雰囲気の道だった。間もなく収穫の終った田圃に沿った道を歩いていると、右手に井田川駅が見えたので、駅方面に向かう路ながら、途中で途切れてしまったので、路に迷った事を知り、引き返すと踏切があったので渡ると、JAの建物だけがコンンクリート造りで、外は木造の建物が散見される程度の鄙びた駅前だった。
 間もなく国道1号線の高架をくぐると亀山市に近付いた事を知る。和田一里塚の榎は数百年の風雪に耐え、見事な枝振りを見せていた。
亀山宿(昔はこの様に雪が降ったようだ) 

9時20分、江戸口門跡から亀山宿に入る。両側の家々の目に付く位置に木の表札が目に入る。
昔は旨いお供え餅屋か、馬の何かをする場所か全く判らない

 文久3年(1863)の古文書を基に、当時の屋号を現在の住宅に当て嵌めたもので、それが延々と2粁に亘って続き、往時の繁栄を物語っていた。
 シャープの亀山工場が液晶テレビでは「亀山ブランド」として、態々地名を付けてまで世界的に名を馳せているのも、亀山商人のDNAが脈々として受け継がれているのかもしれない。
野村一里塚は名古屋の笠寺一里塚と双璧をなす 

 城下町だけに曲がりくねった道を抜け、坂道を登ると野村一里塚が見えて来た。片側しか残っていないが、幹の太さや根の張り具合を見ると、まさに王者の風格が備わっている椋(むく)の巨木で、若し台風か何かで倒れた場合は、隣の家は間違いなく大きな損傷を受けることになるだろう。
 9時40分、漸く食堂が目に入った。「母屋」(おもや)の名が付いた和風造りで、玄関の上がり框に荷物を置いて部屋に入る。
 畳の上にテーブルがあって、年配のお婆ちゃんが一人コーヒーを飲んでいた。朝早いのでご飯料理はないとのこと、モーニングセットを注文する。隣の部屋を見ると、囲炉裏があって床の間には立派な置物や掛軸が掛けてあった。女将さんの許しを得て写真を撮らせてもらう。
 向いのお婆ちゃんが、「どちらからお出でですか」の問いに、
「北海道の者だが、3日日本橋を出て京都に向かう途中で、順調に行くと後3日程で着く予定です」
と伝えると、
「北海道ネー、随分遠いところからお出でですね、北海道は雪が降っているのでしょう」
「北海道は広いので一概には言えないが、根雪になるのは12月に入ってからです」
 とも角本州の人は、今頃の季節になると、決まって北海道と言うと、如何にも寒い土地で良く生きているくらいの表現をする。
 間もなく高速道路の高架下を通ると、広重の浮世絵が7枚描かれていたが、中々洒落た事をするものだ。踏切を渡り、緩やかな坂を登ると、関宿の説明版があった。
関宿(本陣の旅発ちの模様が良く描かれている)

今日は生憎の雨で観光客も少なかった 

 11時10分、大きな鳥居がある東の追分から関宿の町並みが見えてくる。霧雨が降って来たので傘を広げて歩くが、今日は日曜ながら、天気が悪いせいか、観光バスは1台きりで、観光客は資料館や土産物屋に、また食堂に入ったりして宿場の旅を楽しんでいた。
百五銀行関支店

 道幅は相変わらず狭いが、両側の家並みは今まで歩いて来た東海道の町並みの中では一番整備されて、信州妻籠辺りの宿場の様な面影を色濃く残していた。
 百五銀行の建物も宿場の雰囲気を壊さないように造られていた。この宿場の繁華街と言うか目立つ建物等は、500米程歩くと途絶え、その先は観光客は誰一人として歩いている姿は見られなかったのはいささか寂しかった。西の追分で1号線と合流する。
 この付近から鈴鹿峠の方向を見ると厚い雲に覆われていた。多分雨が降っていることだろうが、こちらも依然小雨が降っているが合羽に着替えるほどでもない。右側に、「名勝筆捨山」の標識が見える。由来は、筆を捨てるほど美しい山とか、この辺りは良く雨が降るので絵を画くのに手間取るとか、色々の説があるようだ。市ノ瀬一里塚から右に入り、暫く坂を登ると、「鈴鹿馬子唄会館」があった。
 12時半、会館のドアを開けると、男の人が事務所から出てきたので挨拶をすると館長と判った。訪問者は今日で二人目とか。序に、
東海道を往来する旅人は年間何人ほどですか」
「精々100人から200人まで居ないと思う。何故ならこの建物は道路を挟んで建てられているので、東海道を往来する人は貴方同様必ずこの会館に立ち寄るはずで、通しの人か区切りの人かを聞いている」
「私は北海道の者で、3日日本橋を発ってから今まで出会った旅人と思われる人は2〜3人ほどで、来る前には年間数千人歩いているものとばかり思っていた。四国八十八ヶ所を2回歩いたが、1度で回る遍路は年間千人から二千人と聞いているが、東海道の距離は四国の半分以下の500粁でその程度の人とは知らなかった」
東海道を旅する人の多くは、区切って歩く人が殆どで、団体で回るケースも多いので、延べ人数で言えば、年間数万人は歩いているのではないか。去年全国の馬子唄サミットをここで開催したが北海道からも来ていた」
と、早速、「鈴鹿馬子唄」を聴かせて貰ったが、哀調を帯びた歌声に、鈴の音色が何とも言えず、聴き惚れてしまった。「小諸馬子唄」「相馬馬子唄」等、どれを聴いても哀調を帯びた民謡だ。かっては人馬一体となって農作業に取り組んだ時代を懐かしむように、「鈴鹿馬子唄」は館内に響き渡った。
   坂は照る照る 鈴鹿は曇る   あいの土山 雨が降る
 館長の話によると、「鈴鹿馬子唄」は300年以上前から唄われていたらしく、「小室節」から「小諸馬子唄」を経て今に至っているとのことだが、「江差追分」に通ずる節回しが随所に聴かれた。
 一人旅を続けていると、他人と話す機会は数少ないので、館長の話には胸が打たれた。館長に坂之下宿に食堂があるかどうか聞いたところ、無いとのこと。館長は事務所に戻り、手に袋を提げて、これでも食べなさいと、出してくれたのは、稗(ひえ)か何かで作った「おこし」で、
「村の人が作ってくれたので、遠慮せず食べて下さい」
とお茶も注いで呉れたのを有り難く頂戴したが、昔食べたおこし同様硬かった。
 外は雨脚が激しくなってきたので、食べ残しの「おこし」も頂いて完全装備に傘を差し館長に送られて、1時10分、会館を出た。
坂之下宿(筆を捨てるほど綺麗な山でこの名が付いたが) 

 坂之下宿はかって本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒もあって繁栄を極めた時期もあったが、鉄道開通に伴い、取り残されて現在はその面影は無く、本陣跡の標柱があるのみだった。
 坂之下宿から15分ほど歩くと、鈴鹿峠への登りの階段を登る。久しぶりに土の上を歩く感触を味わったが、勾配は結構きつく息切れがしてきた。片山神社脇の石畳を登り、国道と交差する道を登ると峠が見えて来た。
今は峠の下をトンネルが通っている

 2時10分、覚悟した割には簡単に峠に立つことが出来た。簡単な標識を見ると、378米と意外に低かった。これから先は近江国滋賀県)に入るが、今登ってきた様な急な山道はなく、目の前には広大な茶畑が広がっていた。
 道路の脇には大きな石の万人講常夜灯があったが、下の国道開通の際この地に移設したらしい。依然として雨は降り続いていた。鈴鹿馬子唄に唄われているように、この峠は雨が降りやすいようだ。
 直ぐ1号線と合流し、緩やかな下り道を土山宿目指し雨の中を一人で歩いていると、気分的にも寂しい気持ちになってくる。高峰三枝子淡谷のり子が歌った、
 「雨は静かに降る 寂しい町外れ そぼ降る小雨に 濡れ行く我が胸・・・」
を歌いながら1号線を下る。
 途中茶畑が点在し、土山茶のブランドで売られているようだ。日曜のせいか車も少なく、飛沫を掛けられることもなかった。1時間半ほどで「道の駅あいの土山」に着いたのは3時40分だった。
土山宿(鈴鹿峠の影響か雨が多いようだ) 

 濡れた合羽を脱ぎ、無料サービスの土山茶をコップに注いで飲んだが、冷えた身体には堪らなく美味しかったので2杯目もコップに注ぐ。電話帳で探した今夜の宿「大安」に電話すると、夕食は出るとのこと。腹が減っているので軽めの山菜若布うどんを食べる。
 雨は小降りになったので濡れた合羽をリュックに入れて、傘を差して道の駅を出て間もなく土山宿に入る。道の両側の建物は関宿ほどではないが、良く整備されていた。
 横浜のT氏から電話が入ったので、先ほど鈴鹿峠を越えて土山にいるが22日には京都に着くと話すと、彼は想像した以上に早いのか驚いていた。
 町に入り宿を探したが見当たらなかったので通り掛かりの人に聞いて、玄関の戸を開けたが、そこは裏口だったのか、雑然として中は丸見えで余り感じの良い宿ではなかった。右へ曲がると玄関があった。
 4時35分、宿に着き、水気を取るため新聞を貰って靴の中に詰め込んでから部屋に入ったが、建物そのものが臭いのか、変な匂いが部屋にもこもっていた。合羽類をハンガーに吊るし、荷物の中身を全部取り出す。明日の宿を三雲町のホテル甲西に決める。
 かみそりを持って早速風呂に入ったが、肝心の鏡もシャンプーもなかったので、髭を剃るのをやめた。今日も貸切だ。
 食事の内容も予想した程度の内容で早々に済まし、昨日の分と合わせて二日分を書いたが、今日は雨に降られたのと、ホテルから庄野宿までの2粁を合わせると実質32粁は歩いたので流石疲れた。
 歯を磨くので洗面所に行ったが何となく薄汚れた感じには参った。明日の天気も小雨模様のようだ。

鈴鹿サーキットのためホテル等が1年前から予約済みとは驚いた

18日(16日目) 土 13度 曇り 四日市宿 石薬師宿 庄野宿
                   26,2粁(403,3粁)
                   BH松風荘(7,000円)
 朝食を食べ終え、宅急便で佃煮と一緒に要らない荷物も送ることにして、荷物を計ると1,5キロもあり、6キロの荷物はまさに空気とは言わないが、全く肩にかかる負担は少なかった。
 8時20分、女将さんに送られて宿を出たが、寒さが身に応えるほど冷え込んでいた。
春日神社の青銅の鳥居

 春日神社の青銅の鳥居は寛文7年(1667)に造られた物で存在感があった。寺が立ち並ぶ通りに出ようと、スタンドの人に聞いたが、判らないとのこと。間もなく日進小学校前の交差点に出て、地図を調べると一本裏通りになっていた。それにしても一本道を外れただけなのに判らないとは。
 その交差点を右に曲がると、天武天皇壬申の乱の際、一時身を隠していた天武天皇社があった。
 旧東海道を真っ直ぐ南下するが、昨日は殆ど国道1号線を通ったのと違い騒音はなく、時折すれ違う車にどちらかが5米程の道を譲るマナーみたいな阿吽の呼吸が面白かった。何時の間にか桑名市を抜け、朝日町に入り伊勢朝日駅の踏切を渡ると右手に東芝の大きな工場があった。
 相変わらず狭い道を進むと遠くにコンクリートの大きな煙突が白煙を真っ直ぐ上に向かって立ち上がっているのを見て四日市市に入った事を実感する。
四日市宿(風に飛ばされた菅笠を追う姿が面白い)

 四日市と言うと一般的には、水俣市の水銀による公害と並んで、石油コンビナートによる四日市喘息の公害の町として知られているが、現在はその名を返上して公害を克服した町として知られるようになった。
 先ほどから右足指先に軽い痛みが出ていたが、段々痛みが増してきたので、付近の軒先を借りて裸足になって右足先を見ると、人差し指に新たにマメが出来たので、何時もの様に針で穴を開けて、水気を出し切ってバンを貼る。
 近鉄の高架をくぐり富田の市街に入る。突き当たりに、「力石」があり、昔この石(120kg)を持って力自慢を競ったが、実際にこの力石を持ったのは数名のみと言われている。
 その角を曲がりそのまま直進すると、初めて1号線と合流する。間もなく笹井屋の店が見えたので、有名な元祖なが餅を買う。このなが餅を食べた戦国武将で庭園と築城で名が知られた藤堂高虎が賞賛したので、参勤交代の際、諸国の大名達はこぞってこのなが餅を食べたと伝えられている。
味も良く待つだけの価値はあった 

 11時40分、北海道らぁめん(平仮名が珍しい)伝丸の店があったので、昼時とあって混雑していた。順番待ちの用紙に注文の品を記入して、荷物を降ろして暫く長椅子に座って順番を待つ。長椅子に座って待つのは、札幌の「味の三平」の様だ。隣の中年の夫婦に、
「何時もこの様に混んでいるのですか」と聞くと、「2時過ぎてもこの状態です」と話していた。
 間もなく呼ばれて席に就き、何時もの様に塩らぁめんを食べたところ、麺も適当に太くてちじれ、汁も美味かった。初めは「内地の北海道ラーメン」の積りだったが、50年通っている三平には及ばないが、ススキノのラーメン横丁よりはずっと美味かった。精算する時、レジの人に、「社長は居ますか」と聞くと、
「今日は未だ見えてないが、何か御用ですか」
「私は北海道の者だが、どうせ何時もの内地の北海道ラーメンとばかり思って食べたが、美味かったので、社長に会ったらよろしく伝えて欲しい」
「お名前をお聞かせ下さい」と言われたので、「それほどの者ではない」と手を振って店を出た。果たして社長に伝わったかな。
 1号線を外れて旧東海道に入り、橋を渡ると左手に石造りの笹井屋が有ったのを見て、先ほどなが餅を買った店は、1号線の拡幅に合わせて新たに店を出したようだ。道理で店内が明るかった。
 四日市の道標を右に曲がり、近鉄の高架をくぐる。
日永追分の左は伊勢へ、右は京都へ 

 日永の町に入ると、間もなく日永追分に差し掛かる。分岐点は塚のような形の中に、鳥居やら道標があった。左に行くと伊勢に、右は東海道への道だった。昔も今もこの追分は重要な分岐点だ。
 追分駅の踏切を渡ると、名物の追分まんじゅう岩嶋屋があったが、なが餅を買った後だけに通り過ぎる。この辺にしては大きな山中胃腸科病院を過ぎ、内部橋を渡ると杖衝坂に向かう道に出たが、参考までに通り掛った女学生に道を尋ねると、自分の家の傍が杖衝坂で、手前に墓地があると聞いて言われた通り向かう。
 距離は短いが急な坂道はコンクリート舗装で滑らないように、直径10センチ程のリング状の穴が無数にあった。
 2時20分、坂を登る途中に芭蕉が馬から落ちて痛い目にあったところとして、芭蕉の句碑があった。
    歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな
 坂の頂上付近に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が負傷して、采女(うねめ)が傷口の血を洗ったと、伝えられる血塚社があった。梅園の地名があるところから1号線に入る。途端に車が猛烈な速さで列をなして走っていた。采女町交差点を直進し、延命地蔵尊で左の旧東海道に入る。
石薬師宿(遠くに薬師寺の屋根が見える) 

 3時、石薬師宿に入ると明治から昭和に掛けての歌人佐左木信綱の生家とその向いには資料館があった。間もなく石薬師寺が見えたが、訪ねる人も少ないのかひっそりした感じだった。石薬師一里塚を過ぎ、JRと国道の高架をくぐると1号線に出る。この辺にしては大きな、日本コンクリート工場を右に見て、庄野交差点を曲がって庄野宿に入る。
 ここでBH松風荘に電話して場所を聞いたところ、
「前方に見える赤い橋を渡り、そのまま真っ直ぐ進むと、左側に高校ある。そこを右に500米程進むと直ぐ判る」
とのこと。
庄野宿(篭かきは蓑も着けず大変だ) 

 庄野宿は人影も無く本陣跡の写真を撮り、そのまま宿場の道を進む。これが間違いの元だった。と言うのは、赤い橋に出る道を通り越してしまい、その先の大きな交差点を左折すると新しい橋に出たので、参考までホテルに電話すると、「そのまま橋を直進する様言われた」のでその通り直進するが、両側は工場や倉庫が立ち並んでいた。
 暫く歩いてT字の角にあった花屋で高校の場所を尋ねると、とんでもない方向に来ていることが判った。元来た道を引き返したが、外は暗闇に近い状態になっていた。橋の袂のスタンドで若い女性に松風荘の場所を聞くと直ぐ判り、右折して暫く歩くと、問題の赤い橋に出たので一安心した。また右折すると確かに高校があり、右に曲がる道があった。暫く歩くと、イオンのスーパーがあり、その先の信号を渡ると松風荘があった。
 5時20分、遅れた事情を話したが、マネジャーは新しい橋は未だ渡ったことがないので、赤い橋しかないと思って直進するよう話したらしい。道理で話が食い違う訳だ。チェックインの際、7千円を払った割に朝食は無いとのこと。何処のホテルも満杯と知ってのことだろう。部屋に案内され、湯船にお湯を入れる。
 今日は結果的には片道3粁以上は間違いなく歩いたことだろう。
 風呂に入った後、イオンの満車の駐車場を横切って、レストランで刺身定食を食べたが、家族連れが多いのには驚いた。考えてみると今日は土曜日の外、亀山、鈴鹿を中心にスズキやシャープの工場があることに気が付いた。
 部屋に戻り、三日分の下着の洗濯をした後、乾燥機に掛ける。その間、右足の人差し指の治療をしたが、順調に治っているようだ。今日は道を迷った分を含めると30粁以上歩いた筈で、とに角疲れがどっと出て来た。
 明日の鈴鹿峠越えに備えて、日記は明日に持ち越し、9時過ぎ蒲団にもぐりこんだ。

伊勢湾台風で数千人が犠牲となった痕跡は巨大な堤防がモニュメ

17日(15日目) 金 16度 晴れ後曇り 桑名宿(伊勢国
                      27,4粁(377,1粁)
                      旅館初音(6,700円)
 朝食後、女将さんを呼んでも返事が無く、主人が出てきたので宿賃を払った際、最近はビジネスホテルに押されて、旅館経営は楽ではないので、近々宿を閉めると言っていたので、この様な造りの宿は少ないので勿体無いと話すと、貴方も感じたように、一人や二人泊ってもらっても商売にはならん、と言っていた。
熱田神宮に草薙の剣が奉られていたが現在は天皇の傍に鎮座している

7時50分、宿を出て熱田神宮には5分ほどで着いた。東門の大きな鳥居をくぐり、玉砂利を踏みながら両側の生い茂った杉やその他の木々を見ると、伊勢神宮の内宮に向かった時同様の歴史の重さを感じる。昨日は織田信長桶狭間の合戦に勝った場所に立ち、今日はその際ここ熱田神宮の神殿にて必勝を祈願して、雨中戦場に向かった信長のことに思いを馳せ、神前に武運長久ならぬ、スケールが小さい家内安全を祈願する。
 社務所で本殿の屋根の張替えに使う、銅板1枚(2千円)を寄付した際、記入した用紙の住所を見て若い社務所の人が、
「私の母は新篠津出身で江別のことは聞いているが、江別から見えたのですか」
と言うので、
「新篠津と江別が合併する話が進んでいるので、お母さんによろしく伝えて欲しい」
それにしても狭い話だ。序に野次馬根性丸出しに、
「ここに三種の神器の一つ、咫(やた)の鏡が奉られているが、何処にあるのか」
と聞いたところ、
「一番奥の社殿らしいが、誰も知らないところが良いのであって、信長も見ていない」
 奈良東大寺大仏開眼法要に献物された、正倉院御物の一つ、蘭奢待(らんじゃたい)の名がある香木を削り取ってその香りを嗜んだ信長でも、咫の鏡には後難を恐れてか手を出せなかったようだ。その香りを嗜んだのは、その他足利義政明治天皇の名が記載されている由。これも話の種になると思いながら西門から出る。
 川崎のK君に電話し、「今熱田神宮を参拝して、今夜は桑名に泊る」と告げると、奥さん共々余りにも早いので驚いていた。
 1号線に出て桑名に向かったが、名古屋特有の広い道路も、通勤時間とあって、車の洪水に悲鳴を上げるが、それにしても凄い車の列だ。ここで一案を考えて、1丁左側の裏道を歩いたところ、旧東海道のように車が少なく、快適な状態と思ったのも束の間、川に突き当たって、また1号線に出る始末だったが。それを3度ほど繰り返したが、バカバカしくなって結局1号線を歩く。中川区を抜けるのに随分歩かされたようだった。
 漸く蟹江町に出る。暫く歩いていると、後から走って来る70歳前後の人が、
「貴方の歩くペースは早いが、何処に行くのですか」
東海道を歩いているが、この辺は1号線を歩くしかないので、車には参っている。桑名まで歩く予定ですが、貴方は何時も走っているようなスタイルだが」
「これから友達、と言っても65歳のお婆ちゃんで、ジョギング仲間で良く一緒に走っているが、これからそのお婆ちゃんの家に遊びに行く。ところで貴方はどこの人ですか」
「北海道だが、3日東京日本橋から東海道五十三次の旅に出て、今日で15日目、この調子で行くと22日前後には京都に着く予定だ」
「北海道ですか。私は稚内から函館まで走ったことがあるが、途中士別のスーパーに入ったところ、碌な物が無いので、店員に聞くと、間もなく閉店すると言っていたが、あの辺では商売にはならないだろうと思った。札幌周辺で北海道の人口の半分近くが居るのでは、士別辺りでは無理だ。この北海道縦断を完走した際、地元の新聞にも掲載された。サロマ湖100キロマラソンも走ったが、ゴールした時は感動で涙が止まらなかった」
 北海道には詳しい訳だ、喋っている間、小刻みに足を私に合わせて走っていたが、「気を付けて」の言葉を残して走っていったが、彼の背中は間もなく視野から消えた。
 名古屋と言えばキシメン。昼時になったので、福津屋の大きな暖簾が出ていたうどん屋に入る。和風の建物で従業員もてきぱきとして、重い荷物を持っているのを見て、小上がりに席を取ってくれた。キシメンを注文すると、何とか鳥のうどんのみで、キシメンは無いとのこと、止む無くその力うどんを食べたが、味は上々で美味かった。
 明日の宿を鈴鹿市観光協会に聞いて、2軒のBHに電話したが何れも断られた。理由は鈴鹿サーキットが開かれるとのこと。先に聞いたところは、1年前から予約で一杯とのことだった。3軒目のBHと繋がったが、庄野宿とは2粁ほど左寄りのところと聞いたが、今更他所を探すのも大変で予約するが往復4粁ロスすることになる。初めてF1の凄さを思い知った次第だった。
尾張大橋は渡り切るのにとに角長かった 

 店を出て暫く歩くと、木曽川に架かる尾張大橋が見えてきた。
 尾張大橋も歩けど歩けど対岸に中々着かないほどの長い橋で、1粁以上は優にある感じだったが、渡りきると間もなく今度は伊勢大橋が見えてきた。
巨大な堤防がかって伊勢湾台風があった事を伝える 

 この伊勢大橋は揖斐川長良川に架かる大橋で、歩いている途中、右手の中洲から車が橋に入ってくるのには驚いたくらい長大な橋で、左に眼を転じると、揖斐川に架かる巨大な水門が一列になって川を遮っているのが見えた。これは伊勢湾台風からの教訓で作られたものだった。渡り切ったところが伊勢国三重県桑名市だ。
 信号を左折すると桑名市内に入る。3時10分と少し時間が早すぎるので、喫茶店で時間潰しのコーヒーとゆで卵にピーナツが付いての350円は廉かった。マスターに今夜の宿を聞くと、ここから歩いても5分も掛らない近さだった。
 店を出ると直ぐ先に、佃煮屋があったので入ると、店の女性が出てきた。桑名と言えば、焼蛤とその佃煮で有名、佃煮には、しじみと蛤の2種類があり、味見したところはっきりと蛤の方が美味かったので、早速、昭和天皇も食べたと言う佃煮を買ったが、2千円とは思ったより高かった。店員はリュックを背負った姿を見て、「どちらからお越しですか」の問いに、
「北海道だが、東京日本橋から京都三条大橋に向かって東海道を歩いているところです」
「私は日高の浦河出身です」には参った。今日これで熱田神宮の人と合わせて2人目の道産子と関りのある人に会うとは世の中も狭いものだ。
 店を出て直進すると七里の渡しに着いた。11月の中を過ぎると落ち葉が舞い、如何にも晩秋の装いが際立った。家康の家来本多忠勝の大きな銅像が有るところを曲がり、少し歩くと七里の渡し跡があった。以前は宮の渡しから舟が着いた場所だ。
桑名宿(宮からの舟が着いたところか)

かっての船の発着場は分厚いコンクリートに囲まれていた 

 伊勢湾台風で新しく嵩上げされて昔の面影は無いが、観光用に作られた堤防の上から見る、伊勢湾に架かる水門をまじかに見ることが出来る。序に鹿鳴館等を設計したコンドルの六華園は時間が遅いので中に入れなかった。
 旅館初音は玄関が閉まっていたので、止む無く近所をうろついたところ、昔の大塚本陣跡に、久保田万太郎が新派向けの「歌行灯」を執筆した料理旅館船津屋が、駿河脇本陣は料理屋山月と姿を変えていた。
 また春日神社の青銅の鳥居を眺めて、再び宿に向かったが、相変わらず玄関は閉まったまま。向いの電気屋に聞いたところ、玄関は裏にあると聞いて、そこを曲がると、割と新しい旅館初音があった。
 外は薄暗い4時15分、女将さんに玄関が判らず苦労した話をすると、申し訳ないと謝り、判るように張り紙等をすると話していた。
 部屋は旅館だけあって調度品も適当にあって、久しぶりに寛いだ雰囲気になった。荷物を解いて風呂に入るが、4時近くなって冷たい川風に当たりながら七里の渡しを見たり、宿の周辺をうろついたりした身体には何よりの湯加減だった。足の裏も丹念に揉む。今日も貸切だ。
 夕食は女将さん心尽くしの料理の品が並び、「その手は食わぬ(桑名)の焼き蛤」こそ無かったが、先ほどの玄関のことも忘れて、女将さんから三重県の状況や、紀伊半島の観光地に就いて色々聞いたりして時を過ごし、今日2人の北海道の人との出会いや、北海道のことを女将さんに話すと、一度行きたいと仕切りに言っていた。
 部屋に戻り今日の日記を付け、10時過ぎ蒲団に入った。