鈴鹿サーキットのためホテル等が1年前から予約済みとは驚いた

18日(16日目) 土 13度 曇り 四日市宿 石薬師宿 庄野宿
                   26,2粁(403,3粁)
                   BH松風荘(7,000円)
 朝食を食べ終え、宅急便で佃煮と一緒に要らない荷物も送ることにして、荷物を計ると1,5キロもあり、6キロの荷物はまさに空気とは言わないが、全く肩にかかる負担は少なかった。
 8時20分、女将さんに送られて宿を出たが、寒さが身に応えるほど冷え込んでいた。
春日神社の青銅の鳥居

 春日神社の青銅の鳥居は寛文7年(1667)に造られた物で存在感があった。寺が立ち並ぶ通りに出ようと、スタンドの人に聞いたが、判らないとのこと。間もなく日進小学校前の交差点に出て、地図を調べると一本裏通りになっていた。それにしても一本道を外れただけなのに判らないとは。
 その交差点を右に曲がると、天武天皇壬申の乱の際、一時身を隠していた天武天皇社があった。
 旧東海道を真っ直ぐ南下するが、昨日は殆ど国道1号線を通ったのと違い騒音はなく、時折すれ違う車にどちらかが5米程の道を譲るマナーみたいな阿吽の呼吸が面白かった。何時の間にか桑名市を抜け、朝日町に入り伊勢朝日駅の踏切を渡ると右手に東芝の大きな工場があった。
 相変わらず狭い道を進むと遠くにコンクリートの大きな煙突が白煙を真っ直ぐ上に向かって立ち上がっているのを見て四日市市に入った事を実感する。
四日市宿(風に飛ばされた菅笠を追う姿が面白い)

 四日市と言うと一般的には、水俣市の水銀による公害と並んで、石油コンビナートによる四日市喘息の公害の町として知られているが、現在はその名を返上して公害を克服した町として知られるようになった。
 先ほどから右足指先に軽い痛みが出ていたが、段々痛みが増してきたので、付近の軒先を借りて裸足になって右足先を見ると、人差し指に新たにマメが出来たので、何時もの様に針で穴を開けて、水気を出し切ってバンを貼る。
 近鉄の高架をくぐり富田の市街に入る。突き当たりに、「力石」があり、昔この石(120kg)を持って力自慢を競ったが、実際にこの力石を持ったのは数名のみと言われている。
 その角を曲がりそのまま直進すると、初めて1号線と合流する。間もなく笹井屋の店が見えたので、有名な元祖なが餅を買う。このなが餅を食べた戦国武将で庭園と築城で名が知られた藤堂高虎が賞賛したので、参勤交代の際、諸国の大名達はこぞってこのなが餅を食べたと伝えられている。
味も良く待つだけの価値はあった 

 11時40分、北海道らぁめん(平仮名が珍しい)伝丸の店があったので、昼時とあって混雑していた。順番待ちの用紙に注文の品を記入して、荷物を降ろして暫く長椅子に座って順番を待つ。長椅子に座って待つのは、札幌の「味の三平」の様だ。隣の中年の夫婦に、
「何時もこの様に混んでいるのですか」と聞くと、「2時過ぎてもこの状態です」と話していた。
 間もなく呼ばれて席に就き、何時もの様に塩らぁめんを食べたところ、麺も適当に太くてちじれ、汁も美味かった。初めは「内地の北海道ラーメン」の積りだったが、50年通っている三平には及ばないが、ススキノのラーメン横丁よりはずっと美味かった。精算する時、レジの人に、「社長は居ますか」と聞くと、
「今日は未だ見えてないが、何か御用ですか」
「私は北海道の者だが、どうせ何時もの内地の北海道ラーメンとばかり思って食べたが、美味かったので、社長に会ったらよろしく伝えて欲しい」
「お名前をお聞かせ下さい」と言われたので、「それほどの者ではない」と手を振って店を出た。果たして社長に伝わったかな。
 1号線を外れて旧東海道に入り、橋を渡ると左手に石造りの笹井屋が有ったのを見て、先ほどなが餅を買った店は、1号線の拡幅に合わせて新たに店を出したようだ。道理で店内が明るかった。
 四日市の道標を右に曲がり、近鉄の高架をくぐる。
日永追分の左は伊勢へ、右は京都へ 

 日永の町に入ると、間もなく日永追分に差し掛かる。分岐点は塚のような形の中に、鳥居やら道標があった。左に行くと伊勢に、右は東海道への道だった。昔も今もこの追分は重要な分岐点だ。
 追分駅の踏切を渡ると、名物の追分まんじゅう岩嶋屋があったが、なが餅を買った後だけに通り過ぎる。この辺にしては大きな山中胃腸科病院を過ぎ、内部橋を渡ると杖衝坂に向かう道に出たが、参考までに通り掛った女学生に道を尋ねると、自分の家の傍が杖衝坂で、手前に墓地があると聞いて言われた通り向かう。
 距離は短いが急な坂道はコンクリート舗装で滑らないように、直径10センチ程のリング状の穴が無数にあった。
 2時20分、坂を登る途中に芭蕉が馬から落ちて痛い目にあったところとして、芭蕉の句碑があった。
    歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな
 坂の頂上付近に、日本武尊(やまとたけるのみこと)が負傷して、采女(うねめ)が傷口の血を洗ったと、伝えられる血塚社があった。梅園の地名があるところから1号線に入る。途端に車が猛烈な速さで列をなして走っていた。采女町交差点を直進し、延命地蔵尊で左の旧東海道に入る。
石薬師宿(遠くに薬師寺の屋根が見える) 

 3時、石薬師宿に入ると明治から昭和に掛けての歌人佐左木信綱の生家とその向いには資料館があった。間もなく石薬師寺が見えたが、訪ねる人も少ないのかひっそりした感じだった。石薬師一里塚を過ぎ、JRと国道の高架をくぐると1号線に出る。この辺にしては大きな、日本コンクリート工場を右に見て、庄野交差点を曲がって庄野宿に入る。
 ここでBH松風荘に電話して場所を聞いたところ、
「前方に見える赤い橋を渡り、そのまま真っ直ぐ進むと、左側に高校ある。そこを右に500米程進むと直ぐ判る」
とのこと。
庄野宿(篭かきは蓑も着けず大変だ) 

 庄野宿は人影も無く本陣跡の写真を撮り、そのまま宿場の道を進む。これが間違いの元だった。と言うのは、赤い橋に出る道を通り越してしまい、その先の大きな交差点を左折すると新しい橋に出たので、参考までホテルに電話すると、「そのまま橋を直進する様言われた」のでその通り直進するが、両側は工場や倉庫が立ち並んでいた。
 暫く歩いてT字の角にあった花屋で高校の場所を尋ねると、とんでもない方向に来ていることが判った。元来た道を引き返したが、外は暗闇に近い状態になっていた。橋の袂のスタンドで若い女性に松風荘の場所を聞くと直ぐ判り、右折して暫く歩くと、問題の赤い橋に出たので一安心した。また右折すると確かに高校があり、右に曲がる道があった。暫く歩くと、イオンのスーパーがあり、その先の信号を渡ると松風荘があった。
 5時20分、遅れた事情を話したが、マネジャーは新しい橋は未だ渡ったことがないので、赤い橋しかないと思って直進するよう話したらしい。道理で話が食い違う訳だ。チェックインの際、7千円を払った割に朝食は無いとのこと。何処のホテルも満杯と知ってのことだろう。部屋に案内され、湯船にお湯を入れる。
 今日は結果的には片道3粁以上は間違いなく歩いたことだろう。
 風呂に入った後、イオンの満車の駐車場を横切って、レストランで刺身定食を食べたが、家族連れが多いのには驚いた。考えてみると今日は土曜日の外、亀山、鈴鹿を中心にスズキやシャープの工場があることに気が付いた。
 部屋に戻り、三日分の下着の洗濯をした後、乾燥機に掛ける。その間、右足の人差し指の治療をしたが、順調に治っているようだ。今日は道を迷った分を含めると30粁以上歩いた筈で、とに角疲れがどっと出て来た。
 明日の鈴鹿峠越えに備えて、日記は明日に持ち越し、9時過ぎ蒲団にもぐりこんだ。