展望台から望む春と秋の情景のコントラストは、まさに人生そのものだ

13日(19日目) 土 快晴 24℃ 35,9km(540,3km) 足摺岬は空と海「空海の風景」だ
旅路―窪津港―足摺岬―38番金剛福寺(こんごうふくじ)―民宿旅路―民宿安宿(あんしゅく)  7000円
 7時5分、お婆ちゃんが家の裏から浜に抜ける近道の遍路道まで送ってくれ、
「午後からお寺に行くので、貴方の昼ご飯のお世話をすることが出来ないので、握り飯を作っておくからお爺ちゃんがお世話をする」
誠に有り難い話を聞いて別れた。そこから急な坂道を下ると以布利の浜に出る。後ろを振り向くとお婆ちゃんがこちらを見ていたので思わず杖を振って感謝の気持ちを表すと、お婆ちゃんも手を振って応えてくれた。昨夜の「今が一番幸せだ」の言葉を思い出し胸が熱くなった。漁港を過ぎると材木やプラスチック類が散乱する浜辺を右折すると遍路道に出る。上を見ると10米以上の木の上に波で押し上げられた材木や魚網とその浮き等が枝に引っ掛って居るのを見て、多分先月上陸した台風23号の物らしい。改めて台風の威力をまざまざと目にした。アップダウンを繰り返して、お爺ちゃんたちの汗の結晶である鉄製の橋を渡る。暫く進むと県道に出て、海沿いの道を歩くと8時15分、窪津港に着く。
右側の急な細い道を登ると、窪津港は真下に見える。車道に出ると遍路客を乗せたバスやタクシーが通り過ぎるが、中には私に手を合わせている姿が目に入る。一人で歩いている姿を見て申し訳ないと思うのか。こちらは好きで歩いているが。
善根宿(個人の無料宿泊所)風の造りの建物が目に入り、中に入ると頭を丸刈りした坊さん風の人が居たので水をご馳走になる。
「今夜の宿が決まってないならどうぞ利用して結構です」
と言ってくれたが、安宿に宿を取っているので丁重に断る。
足摺岬まで3キロの標識を見ると何となく軽やかな足取りとなる。間もなく「椿ロード」の花の無い椿のトンネルを抜けると、そこは足摺岬の展望台だった。室戸岬を出て十日目で再び岬に立つ。
秋色漂う金剛福寺の堂塔も万次郎の像も沈み込む

前回の椿咲く春爛漫の岬の新緑に堂塔と銅像が一層映える

10時3分、宿を出て3時間ほどで金剛福寺に着く。山門に一礼して境内に入る。観光バスの遍路客は見えなかったが、マイカーの人達が10人ほど居た程度で閑散としていた。新仏で今日月命日の従兄弟故藤田武男の供養を終えて納経帖に記帳の際、
「鐘を撞いてもよろしいですか」
「本来は焼香の前にするのだが、どうぞ撞いて下さい」
 色々とマナーが煩い様だ。前回ここで孫5人にお守りを買った事を思い出し、今でもカバンにそのお守りを付けているはずだ。鐘を撞いてその余韻が漂うひと時、今まで供養した人々の顔が頭をよぎり、彼の世と此の世の感極まりない両界の狭間の世界に引きずり込まれる。今日まで大事に至らず何とか歩いて来られたのも、故人達の見えない加護の賜物と只ひたすら合掌する。
 今日で遍路の旅の約半分に当たる距離を歩いたことになる。周囲は前回の椿が咲き揃う春爛漫の時期とは異なり、今回は秋色が漂う静けさが辺りを支配していたが、岬の下の海岸と島に打ち寄せる波は変わらず、その一つの島の上で釣り人が数人釣り糸を垂れていたが何処から来たのか。
沖を通る漁船が灯台を横切って行く

MY氏が解説しながらビデオカメラで周囲の景色を撮っていたところだった。空と海の青さはまさに司馬遼太郎の書いた「空海の風景」だ。その海を漁船が一隻横切っていくのが目に入る。
彼に灯台を背景に写真を撮ってもらう。その後数枚の写真を撮ったが、4年半前に見た春爛漫新緑の岬の風景と今日の眺めは、時の流れとなってまさに人生そのものの情景となってレンズに写し出される。
彼は電池が切れたので買いに行くと言って出かけたので、20代後半位の女性に頼んで寺の尖塔と中浜万次郎銅像を背景に写真を撮ってもらった際、
「毎日何で苦労しながら歩くのですか」
と厳しい質問が寄せられたので、
「難しいことは別にして、要は自分自身の満足を満たす為かな」
 彼女は判ったような判らないような顔付きをして、「とにかく気を付けて下さい」と言って展望台を下りていった。
幕末に日米修好条約の際、通訳として活躍した中浜万次郎銅像前の椅子に腰掛けて、ミカンを食べながら、彼を待っていたが中々戻らないので、携帯電話を掛けても通じなかったので、先に出かけることにして岬を後にした。
帰り道は半島を一周するコースもあるが、相当遠回りになるので、打ち戻しと言って同じ道を歩くのが一般的な歩き方で気分的にも楽だ。途中山茶花の生け垣が目に付いたので、写真に撮ったり、変わった生け垣があると、剪定している人に木の種類を聞いたりしながら道を下る。
右手の海を見ると濃淡のはっきりした線が見えたが、これは多分親潮黒潮との境目かな。波も無く穏やかな真昼の日を受けて光っているのを見ると、日本海の荒々しい海を思い返し、同じ日本でも随分違うものだ等と考えながら歩いているうちに、窪津に行く遍路道を通らず、車道を歩いて迂回する結果になったが、道の右側は凄い絶壁でここから落ちたら、と思うとゾッとする。また鯨取りの見張り場所を見たりして、途中の風景も良く、回り道も時には満更でもなかった。
窪津漁港は前回の時はブリの大漁に恵まれて港は活気付いていたが、今日は人気が殆ど感じられず、鰹節を作る工場も土曜日のせいかシャッターを降ろしていた。
旅路に行く前に星空を覗いて、MY氏が居るか確かめたところ、未だ戻っていないとのこと。
1時50分、旅路の玄関の小上がりに腰を下ろして、お茶を飲みながらお婆ちゃんの作ってくれたお握りを食べる。
窪津港の閑散とした話をすると、最近の漁業組合はどこも赤字続きで大変だと話していた。今夜は女性二人と久百々の紹介で男性一人合わせて三人泊ると喜んでいた。最近の民宿の経営状況を聞くと、
「儲けとか何とかではなく、婆さんと二人で遣れるだけやるだけで、損得の話ではない」
 聞いていて清々しい気持ちになってきた。3時過ぎにはお婆ちゃんも宗教の会合から帰って来るらしいが、先を急ぐので、お婆ちゃんによろしく伝えて欲しい、と言い残して握手して別れた。
 大岐の浜を過ぎて遍路道に入って間もなく女性の遍路二人が見えたので、挨拶を交わした序に、今夜の宿を聞くと、旅路とのこと、お婆ちゃんの心尽くしの料理と二人の人柄に就いて触れたところ喜んでくれたが、二人の足取りから想像すると宿に着くのは日が暮れる頃と思われた。それから5分もすると男性の遍路と出合ったので、
「今夜は旅路に泊るのですか」
「そうですが何故判ったのですか」
「昨夜旅路に泊り、今日足摺岬の帰途立ち寄って、貴方と女性二人が泊ることを聞いた。お婆ちゃんの心のこもった手料理を味わって下さい。それ以上に二人の人柄も良い」
 彼は喜んで二人の後を追いかけて行った。
 足摺半島に以前見かけなかった、旧遍路道を歩く会が作った標識が随所にあって、来る時から煩わしいと思っていたが、久百々付近で何気なくその遍路道に入ってしまい、随分遠回りさせられてしまったが、下の加江の町明かりが見えて来たので安心した。何とか日が暮れかけた4時50分、安宿に着いた。
 奥さんが、疲れたでしょうと荷物を取ってくれた。部屋に戻りランニングシャツ等の余分な荷物を家に送り返そうと、整理して息子に宅急便で頼むと、荷物を手に持って目検討で、1キロ少々かなと言っていた。風呂に入った後、夕食を食べたが8人の泊り客に奥さんが付きっ切りで傍に付いてお世話をしてくれた。四国の女性は強いとよく言われるが、客に対する持て成しは心がこもって嬉しい限りだ。この宿も女将さんで持っているようなものだ。安宿(名前の割には宿泊代は高かったが)は足摺岬往復の拠点として一度は泊る場所で今時8人とは流石だ。MY氏は久百々に泊ると言っていたが、足摺岬で待って、一緒に来た方が良かったのかと少し気になる。明日の宿を延光寺傍の民宿嶋屋を申し込む。供養した家族に葉書を書き、日記は今日も書くことの多い一日だった。明日の天気は雨の予報とのこと。