生き仏?からタダの人を二度経験したが、タダの人に限ると思いながら

終わりに
 お袋と弟を始め親戚、友人、知己の新仏供養の旅を兼ねた、第二回「四国八十八ヶ所歩き遍路」を無事終えたのも、多くの故人が影ながら手を差し伸べてくれた賜物と心に刻んでおります。
思い残すこととして当初の目的だった逆打ちが、半月ほど前に襲った台風23号の影響で、遍路道はもとより車道も寸断された状況で、断念せざるを得なかったことだった。
前回は68歳、今回は72歳と4歳違いだが、60代よりも70代として、相手の受ける感じが全く違うのか、会った人々全てが私の歩き振りを見て、70代とは誰一人思いもよらなかったようだ。それと「北海道出身」が四国の人々から羨望の目で見られる。何故なら、せせこましい土地と人間関係が、道産子のこだわらない人柄と、土地は広大で景観に富み、食べ物の旨さが上乗せされて、一度でも北海道へ来た人はその虜(とりこ)になるようだ。
 巡拝セレモニーと並んで、節目節目の時間等は、自分なりのペースを出来るだけ詳しく記録した積りで、若し歩かれる方の参考にでもなればと思っています。
この旅で一番のハプニングは三日目、遍路転がしの難所の途中にある柳水庵手前で、先ず右足の靴底が剥がれた瞬間、俗に、「頭が真っ白」と言うことが、まさに発生したことだった。間もなく左足の靴底も剥がれて万事休すと思ったが、大工さんに貰った針金で、ぐるぐる巻きした靴に全てを託し、43キロ先の徳島市まで何とかたどり着いた。
然し徳島市内のスーパーで買った新しい靴が、これまた慣れるまでの間の半月以上、両方の足裏のマメと指先の靴擦れによる血豆と爪の剥れに泣かされたことだった。
その外、左下入れ歯を洗面所に落とし右奥歯だけで噛む羽目に陥ったり、ルームキーと宿泊料を払い忘れたり、宿を間違えて予約しない宿に泊ったり、カメラをバスに忘れたりと、大事には至らなかったのは不幸中の幸いだった。
歩き遍路に対して特に前回と違い、4年の間に接待する側と、接待される側に大きなギャップが存在したことに思い知らされた。それは単にお接待の額の多少ではなく、四国の人たちの歩き遍路に対する見方が大きく変わったことだった。一部のホームレスによる遍路まがいの振る舞いや、野宿の人たちの行状等も有るが、全国的にも県民所得の低い四国、特に徳島県高知県の人たちから見ると、我々のような宿に泊りながらの歩き遍路に対して、特異な眼差しを感じるように見えた。又、近年、ブームになっているバスツアーや車による遍路等も、土地の人から見ると遍路貴族に映るようだ。
今回は秋の遍路道を回ったが、前回の春爛漫花の遍路とは違い、当然人出も少なく、特に足摺岬の秋色漂う空と海、木々の間から尖塔を出す金剛福寺の堂塔が、春とは全く違った静けさを呈していた。また晩秋の根香寺の紅葉は筆舌に尽くせぬほどの素晴らしかった。偶々デジカメのメモリーカードが残り少なかったので、思う存分撮れなかったのは残念だった。
今回の旅で写した撮影枚数も300枚を越え、その一部を旅日記に掲載したが、その多くを写真集としてCDにしての一部の方々に贈ったところ好評を博した。今でも時折前回と今回の写真集を見ながら、数々の出来事を思い出しては四国の風景や出会った人々に懐かしさを覚える。
12月6日、夏日のさいたま市の長女宅を出て、前日降った白銀に覆われた新千歳空港に着陸し、我が家に帰って庭に一面の雪を見て、今更ながら四国と北海道との緯度の違いを痛切に感じ、これから雪の中の暮らしを思うと暗澹たる気持ちに襲われた。その思いも数日過ぎると消えて、間もなく原始林スキーへと気持ちが切り替わって行った。
足のマメも何時しか治り、4本の爪も少しずつ剥がれて新しいのに生まれ変わった。
年も変わり、二月頃から第二回四国遍路の旅日記のINPUTを開始、遍路中毎晩のように書いた原文を見ながら、又 遍路地図を参照して打ち込んだが、地図上のルートを辿ると、当時の出来事が鮮明に浮かび上がって来るから不思議だ。打ち込みながら当日出会った人々の姿が頭をよぎる。今頃何をしていることやら。
我が家を出てから京都東寺へのお礼参りまで含めると40日間の旅だったが、前回は初めての旅のこともあって、ただ歩くだけで周囲を良く見る雰囲気ではなかったが、二度目ともなると余裕も出てきて、これが今回約12万字の旅日記となった。
前回の旅日記は兄たちの好意によって一冊の本にまとめることが出来たが、今回は当初ホームページで送る積りだったが、ブログで日記風に送ることが出来る新しい情報手段が有る事を、我がパソコンの師、平山さんから教わったが、時間的な余裕も無く覚えたてのまま送ることになり、所謂見切り発車となったが、皆様には誌上を通じて、泥縄式を詫びながら何とか終えることが出来た。
メール仲間の外、全国の遍路フアンに目を通して頂ければと思い、「掬水へんろ館」の串間さんにお願いして、掲載の運びとなりました事を、誌上を通じて御礼申し上げます。
月日の経過とともに、何事も三度目、三度目の正直、二度あることは三度ある等々日本人は何故か三の字を好む傾向にあるが、まさにその三年後の閏年は平成20年で、小生の喜寿(数え77歳)の年でもあるので、体調が許されるのであれば、今度こそ三度目の正直?で逆打ちを成し遂げ、お大師様に会いたい思いにそぞろ気も駆られる。その前に世界自然遺産熊野古道を、出来れば高野山吉野山から紀伊半島を縦断する修験の道を歩けたらな、と思案している今日この頃である。あれだけ色々と酷い目に会いながら我ながら困ったものだ。
最後にお接待と餞別として頂いた貴重な志に、私の分も含めた3万円を、「へんろみち保存協力会」に寄付した事を付け加えさせて頂きます。
41日間にわたる旅日記をお読み頂き有難うございました。何かの参考にでもなればこれ以上の幸甚は御座いません。
師走に入り何かとお忙しい皆様方の今後のご健勝を祈願し、INPUTを終えさせて頂きます。
平成17年12月4日                      
幸 松  正

追って 
1、メール仲間の皆様には、拙い旅日記を読んで頂いたお礼に、これも昨年収録した拙いギター演奏ですが、映画「禁じられた遊び」の主題歌を送らせて頂きます。
2、日記を保存したいとの要望がありますので、WORDによる文章をメールで送りますのでご利用下さい。なお、ブログの保存方法は後日お知らせします。