宿屋の湿っぽい蒲団と押入れの異臭には参った

26日(2日目) 火 雨 17℃ 18,6km(40,3km) 雨遍路
七番十楽寺―八番熊谷寺(くまだにじ)―九番法輪寺―十番切幡寺(きりはたじ)―鴨島町旅館三笠屋 7100円 
 夜中過ぎてうとうとと眠れぬまま朝方、久しぶりに鶏の鳴き声を耳にして田舎に居る実感を味わう。6時過ぎから朝の勤行が始まり、その後朝食を食べる。部屋に戻ると隣室の無愛想な体育会系の男は重そうにリュックを背負って出て行くところだった。TM氏には明後日の宿は彼の足から判断して、住友産業の鍋岩荘を推薦し再会を約す。雨脚は結構強いので半袖シャツの上に直接ゴアテックスを着て、完全装備の雨具で宿坊を出たのは7時48分だった。
前回の教訓から「へんろみち保存協力会」の地図と案内標識を確認しながら歩くことに徹することにしたので、分岐点では慎重の上にも慎重に確認する。途中標識が見えなかったので雑貨屋で道筋を聞いて間もなく八番熊谷寺の山門が見えてきた。前回法輪寺を省いて切端寺の道をタクシーの運転手に聞いたばかりに、遍路道ではなく車道を歩いた結果極端に遠回りして左膝を痛めた記憶が戻ってきた。
熊谷寺本堂で昨年12月亡くなった故KY(従兄弟の娘)の月命日の供養をするが、亡くなる一ヶ月程前病院に見舞った際、
「会えて良かった」の言葉が耳に残る。娘を亡くした従兄弟夫婦は如何暮らしているか。
終わって納経所の前であの体育会系の男が居たので会釈して中に入る。
九番法輪寺への道は下り坂で、周辺は宅地造成が行われていた。雨は相変わらず菅笠を打って止む気配も無い。法輪寺は小さな寺で周囲の中に溶け込んでいた。9時40分法輪寺に着く。参拝客も無くひっそりした中で読経する。十番切幡寺への道は狭く車とすれ違うのにも気を使いながら緩い登り坂を歩く。寺に向かう角に仏具店があったので荷物を預けさせてもらい、本堂への長い333段の階段に備えた。これも前回の経験が生きた。坂本屋の前を通ると、干乾びた揚げ物と冷や飯に生ぬるいビール、浴衣は置いてません、の一言で、今後遍路で来ることがあってもここには絶対泊らないと、サービス精神を欠いた前回の嫌な思い出がよみがえって来た。
11時7分、息を切らせながら333段の階段を登った先に切幡寺があった。納経を済ませて帰ろうとすると、誰かの納経帖が机の上にあったので寺の人に届けたが、そそっかしい人も居るものだ。前回は左膝を庇いながら降りた下りの333階段を数えながら降りたが、1段多かったが数え違いかな。雨は少し小降りになってきた。
仏具店に預けた荷物を受け取り緩い坂道を下ると先方に、前夜同宿の体育会系の男が居たので追い越した際言葉を掛けると、「お先にどうぞ」の声が返ってきたが、身体の割には歩みが遅い感じだった。吉野川は台風23号の影響か増水して沈下橋は通れず、県道12号線を通り阿波中央橋に通じる途中の食堂で、小上りに荷物を置いてカレーうどん定食を食べたが、コーヒーをサービスしてくれた。一時間ほど時間を稼いで、前回立ち寄った土成(どなり)町のマルナカスーパーで非常用のカンパンとビスケットにチョコレートを買い阿波中央橋に向かう。橋の手前で携帯電話のベルが鳴り出したので誰かと思って耳に当てると、元会社の上司HS 氏の甲高い声が聞こえてきた。地図を見ながら電話している模様で、これから阿波中央橋を渡ると説明すると判ってくれた。序に家内に元気で歩いていると伝えて貰う。
吉野川は別名四国三郎と称する暴れ川で、河口に堰を作ることで住民投票の結果中止となった曰く付きの川だけあって、昨夜からの雨で中洲が隠れるほど水嵩を増して下流へと濁水が流れていた。川の堤防も二段作りで堅牢そのものに見えた。
終日雨でカメラどころではなく前回の写真を借用

全長820米(札幌豊平橋は132米)の阿波中央橋を渡り切るのに1160歩を数えた。荷物を背負っての歩数から換算すると、一歩当たり70センチは普段より10センチ短い勘定だが、それでも平均的な歩き遍路に較べて可なり速いペースだ。川を越えると鴨島町で、踏切を渡って暫く歩いたが、通行人に鴨島駅の場所を聞くと通り過ぎたらしく、序に郵便局を聞いてお金を下ろす。
3時、今夜の宿三笠屋は駅の近くの奥まった路地裏にあり、看板が出ていたのは食堂で宿は別な建物で、主人が宿に案内する時冷やかし気味に、
「多角経営で結構ですね」と言うと「ヘ・・」と苦笑いしていた。宿は鉄筋造りだが古い建物で、息子らしき男から新聞を貰って雨に濡れた靴に押し込む。案内された三階の部屋には、既に安っぽい蒲団が敷いてあった、と言うより敷きっ放しの感じに見えた。荷物を下ろして半間の押入れを開けると、強烈な異臭が鼻をついたので慌てて戸を閉め、窓を開けて空気を入れ替えた。これは大変なところに泊ったぞ、と覚悟して雨に濡れた合羽等をハンガーに掛け、下着類は洗濯機で洗った。
ドアをノックする人が居たので開けると、一番霊山寺に向かう時に会った白髪交じりの短髪の歩き遍路で初めて言葉を交わす。彼の部屋に上がり名刺を差し出し納め札を貰ってMY氏と判明、埼玉県在住で西武球場が見える近くに住んでいる由。話の中で、
「どこかに納経帖を忘れてきた」
「私が切幡寺の納経所で誰かが忘れた納経帖を、寺の人に預けたのは多分貴方の納経帖だ」
「それに間違いない、何とか取りに行きたい」
「切端寺に電話して、後から来る遍路タクシーかバスに焼山寺まで届けてもらうのが良い」
と言ったが、「明日タクシーで取りに行きたい」と行く積りらしい。夕食前に風呂場に行くと風呂は家庭用のステンレス製だが、収まりが悪くぐらぐら動くのには参ったが、湯加減は上々で雨に濡れた身体を温めるにはこれ以上のものは無かった。
6時過ぎMY氏と別棟の居酒屋に夕食を食べに行く。亭主が料理して女将さんが相手をする仕組みになっているようで、彼は禁酒しているのでビールを呑むのにも一応は気を使いながら、酢の物、天ぷら、おでん、焼き魚等食べ切れない程の料理を満喫した。彼は頭から納経帖のことが頭から離れないようで、明朝、切幡寺までタクシーで納経帖を取りに行く積りのようだ。彼は山男で日本100名山中51名山を登っている猛者だった。また南米ボリビアのラパスにJICAのボランティアを2年契約で行ったが高山病等で体調を崩して途中で帰って来たとも話していた。
女将さんも、と言ってもお婆ちゃんと言った方が良いが、話し出すと止まらない感じで、その上親切で、何時の間にか切幡寺に電話して、納経帖のことを確認してくれたりしていた。流石食べ過ぎたのでご飯は止めて、明日朝早いので精算して部屋に戻ったが、その間客は一人も無かった。
日記を書いていると埼玉の長女からメールが入って、「元気で歩いているか」
「今日は雨が降ったが快調なペースで、明日は一番の難所、遍路ころがしに向かう」
とメールを送り返す。部屋の中は相変わらず湿っぽく、変な臭いがするが我慢しながら日記を書き終えてから、今日供養した故KYの両親に葉書を書く。何となく湿っぽい感じの蒲団に入ったのは10時半で、明日の遍路ころがしのことを気にしながら何時の間にか寝入った。