一番の難所「遍路ころがし」で靴底が剥がれる

27日(三日目) 水 小雨後曇り 17℃ 24,2km(64,5km) 12時間昼食なし
旅館三笠屋―十一番藤井寺―長戸庵―柳水庵―12番焼山寺(しょうざんじ)―杖杉庵(じょうさんあん)―左右内(そうち)小―玉ヶ峠―神山町民宿植村旅館 7600円
夜中の3時頃から寝付かれず、異臭も慣れてしまったのか余り気に成らなくなった。慣れとは恐ろしいものだ。果たして押入れに何が入っていたのか。5時蒲団を抜け出し、歯磨きとトイレを済ます。6時15分居酒屋に朝飯を食べに行くと、MY氏が居ないので、女将さんが起こしに行くと、彼は朝食もそこそこに切幡寺に納経帖を取りに出かけた様だ。7時、藤井寺に行く道順を聞いて宿を後にしたが、途中で雨が降り出したので、合羽を取り出して着ているところに、女将さんが自転車で宿に忘れたハンカチを届けてくれた。
「主人の言った通り真っ直ぐ山に向かって突き当たったところの市営アパートを右に回り、道なりに行くと藤井寺に着く」
 と改めて教えてくれ感謝感謝。心のお接待を痛感した。その通り山に向かって歩くが、早朝のこともあって殆ど人に会わなかったが、市営アパートが近付くに連れ、生徒の姿が目に入り挨拶を交わす。
 7時35分藤井寺に着いて納経所の方を見るとMY氏はそこに居た。
「タクシーで切幡寺の本堂近くまで車で行ったので、例の階段を上ることも無く早く戻ることが出来、タクシー代も5千円程で済んだ」
と話していた。前回この寺でマイカー夫婦に荷物を焼山寺まで届けて貰ったことを思い出す。今日月命日の故KS(爺さん)故FY(友人の母)故MK、T(牟岐町民宿あずまの義父と夫)の供養をする。
7時50分、焼山寺に向かう途中の遍路一番の難所「遍路ころがし」への登り口に、上級者5時間、中級者6時間、老人女子7時間との小さな標識を目にしながら登るが、先日の台風の影響か、遍路道には猛烈な雨水が流れたような跡があって、石の上や両側に両足を支えながら枝をつかんで登ったりして、何とか端山休憩所(H225米)に着いた。ここから眺める吉野川はほぼ一直線に見え、阿波中央橋も見えた。遥か向うの山並みの彼方に切幡寺がある筈だが、良く歩いてきたものと我ながら感心する。間もなくMY氏と遅れて十楽寺で同宿の屈強な男も上がって来た。吉野川を背景にMY氏に写真を撮って貰う。彼もビデオに声を入れながらカメラを回していた。今のカメラは音声も入るようになって便利になったものだ。一休みの後、彼と一本杉の大師像を目指す。
史実に残る空海も歩いた道を我も歩む

途中弘法大師空海が間違いなく通ったと伝えられる遍路道の標識が目に入ったので、彼にそのことを伝えると、早速ビデオカメラにその旨を吹き込みながら写していた。彼の靴が合わないのか両足の親指の爪が痛むようで、段々と間隔が開いて遂に見えなくなってしまった。
 長戸庵を過ぎてほぼ平坦な道を柳水庵に向けて歩くうち、突然右足の靴底が剥れて来たのを見て、一瞬頭が真っ白になった、とはこのような事を言うのか。大麻ホクレンショップ靴屋で、
「前回履いた靴に愛着があるので、底を張り替えて貰いたいが大丈夫か」
「大丈夫」と太鼓判を押して貰い、それを履いた結果がこのような事になったが、幸い爪先の部分は付いていたので、応急措置として太めの紐を予備に持ってきたので、それで土踏まずの部分に巻いて何とか歩くことが出来た。5分も歩かないうち今度は左足の靴底も剥れ掛けてきたので、右足同様の措置を取って慎重に歩く。程なく柳水庵(H500米)に着いた。
この針金で43キロ歩いた

かって一泊した宿は工事をしていたので、大工に靴に巻く針金を貰いたいがと話したところ、快く適当な太さの針金を呉れたので、その場で両方の靴の紐を外して、その針金をぐるぐる巻きにして何とか持たせることが出来そうだ、とは言っても靴屋がある徳島までは43キロ先の話だが。記念にと針金が巻かれた靴と風呂場や宿をカメラに収める。大工に、
「この宿の爺さんと婆さんは如何なっているのか」
「爺さんが入院したので宿は人手に渡った」
と話してくれたが、本当に人の良い話好きの80歳は過ぎた年寄り夫婦で、泊める客も3人のみで、前回泊った際、初めて五右衛門風呂に入るのでその入り方から、夜、同宿の二人を交えて婆さんを共々5人でのひと時の情景と、翌朝、宿を出て暫く行って後ろを振り向くと、爺さんが手を振っている姿は未だに目に焼き付いて離れない。その時頂いた旧徳島駅を画いた栞は今でも文芸春秋を読む際使っている。
かれこれ15分ほど時間をロスしたが、再び焼山寺に向けて歩き出したが、靴のことが頭から離れないので、つい頭を下にして歩いていたら、直進すべき道を右折してそのまま車道を歩いているのに気付かず、暫く道を下り15分ほどして、何となく道を間違えたことに気が付き、地図を見ると間違っていたので慌てて元来た道を引き返し、遍路道を見つけて歩いたが少なくとも30分はロスした。靴は何とか持ちそうだ。
暫く緩い登り坂だったが、杉林が目に付くあたりから急なつずら折の坂道の連続で、途中何回か休みながら登っていると、50代の男が上靴を履いただけの格好で追い抜いて行った。間もなく上の方が明るくなってきた。11時半やっとの思いで二つ目の尾根、標高745米のお大師様が休んだと伝えられる巨大な一本杉と大師像が見えて来た。
靴底が剥がれないようにお大師様に祈る

この銅像は江戸時代京都から運んで、よくこの山の中まで上げたものだが、それ以上に信仰とは恐ろしいものだと痛感した。    
そこに彼の男が居たので、お大師像を背景にカメラに撮って貰ったが、彼はデジカメの画面は初めてのことらしく感じ入って見ていた。「どちらから」の問いに「広島です」と答えてくれたが、中々タフな感じだった。
道は急な下りに差し掛かる。前回ここを下るのに痛めた左膝を庇いながら慎重に降りた記憶が思い出されたが、今回はそれ程苦労も無く一気に350米ほど下り、左右内部落に付いた途端、相変わらず犬の物凄い吼え声の洗礼を受けた。ここからまた一歩一歩喘ぎながらの登りが続く。一時間ほどして石切り場が見えて来た。これからは緩やかな登りになるので、先を見ると何とMY氏が痛そうな足で歩いている姿が見えたので、声を掛けると、「何で今頃ここに」との問いに、道に迷って30分以上ロスしたことや、剥れた靴底を見せると彼も驚いていた。その後二人で遍路ころがしの辛さなどを話しながら歩く先に、漸く焼山寺の山門が見えて来た。
1時7分、標高700米の焼山寺に着いた。大師堂は再建中だった。納経の際、
「何とか5時間を切った」と話をしたところ、「お歳は」との問いに「72歳」と答えると3人の寺の人は一斉に「それは凄い」と賞賛してくれたが照れくさかった反面、満更でもない思いの一瞬だった。藤井寺からの所要時間5時間17分の内、靴底が剥れた事故と、道に迷った30分を差し引くと、実際は4時間半を切った時間帯で着いたことになり、上級者でもトップクラスの健脚かも知れない。
納経所の外でMY氏のほか、「広島氏」、メガネに半ズボンの人、ねずみ色の菅笠を被った人に小生と5人の歩き遍路が何となく揃い、何れも旅なれた感じに見えた。「メガネ氏」と、ねずみ色の「菅笠氏」の二人が先に山を下りた。程なく「広島氏」も山を下り、MY氏と二人でお互い靴を気にしながら皆に遅れて山道を下る。杖杉庵から遍路道を下ると間もなく、バスのへんろ駅に着いた。「広島氏」はサツマイモの接待を受けていた。前回遍路道を通ったが急な坂道が続いた記憶を思い出したので、車道を通るかどうか判断しかねたので、売店の人に聞くと、
遍路道は急だが3キロ短い」
と言っていたので、MY氏には足の具合を聞いたところ、
「爪がはげ掛っている」
「無理せず今回中止して帰っては如何か」
「お荷物にならないよう頑張るので是非一緒に歩きたい」
との返事が返って来たので、彼と「広島氏」三人で遍路道を通ることになった。
車道を左折して緩やかな登り坂を暫く進むうち、考えてみると朝飯を食べてから今まで殆ど口にしていないことに気が付いたので、ビスケットを口にしながら何とか空腹感を抑えた。前回の記憶が甦り山側から流れてくる川を右折して、愈々急な登りに差し掛かる。「広島氏」に先頭を、小生が中、後にMY氏の順で途中何度か休憩しながら、漸く今日四度目の急な登りの玉ヶ峠に着いた。「広島氏」は峠の小さな庵に泊るので別れしな、
「今までぞんざいな口をきいて申し訳なかった」
と頭を下げた。彼としては自分が58歳なので小生を50代前半と思っていたらしく、焼山寺で納経の際年齢を告げたので、72歳と判り敬意を表したかったらしい。それにしても若く見られたものだ。MY氏も小生を何時の間にか「先輩」と呼ぶようになっていた。
その後MY氏と二人で緩やかな舗装した坂を雑談しながら下ったが、途中で右側の靴底の爪先部分も剥れたので残りの針金で先端部も縛り付け、序に前から結んでいた針金も緩んできたので巻き直したがよく切れないものだ。歩くに従い爪先部分が痛くなってきたので、緩めに巻き直す。右手の遥か下に鮎喰(あくい)川が真っ青な色をして見えてきたが、今日の宿はその川の傍にあるので、何時着くのか心配になってきた。途中点々と家があるが人の気配は余り感じられない。日が暮れかかってきた5時過ぎ漸く車の音や、人と出会ったりして本名の村に近付いてきたことを感じる。
5時40分、暮れなずむ橋のたもとに女性が立ち止まっているのは、今夜の宿植村旅館の女将さんで、我々が遅いので外で待っていたようだ。玄関で女将さんに靴を見せて、
「針金があったら分けて欲しい」
「生憎家にはそのような物は無い」と恐縮していた。
「東京のKKさんをご存知ですか」
「学校の先生ですか」と返事が帰って来たので、「そう、来年回るようだ」と伝えると喜んでいた。
二日分の洗濯をしている間、時間も遅いので狭い風呂だがMY氏と一緒に入る。風呂から上がって洗濯物を部屋に張られていた紐に吊ってから、夕食を食べに下に降りる。焼山寺で見かけた「菅笠氏」を交えて、三人で今日の苦労話と、明日の予定など話しながら、12時間振り(休憩らしい休憩は焼山寺で納経した際のみ)の空きっ腹にビールと飯を流し込む。「菅笠氏」は毎日のように、440米の山を犬を連れて登っているとのこと。彼は二度目の歩き遍路の旅で、大興寺からスタートしたが、八十七番長尾寺から八十八番大窪寺の道も土砂崩れながら何とか歩いて来たと話していた。食事を終えて部屋に戻り我が家に電話すると、
「昨日HSさんからの電話で状況は判ったが、裏のHTさんも心配していた」
「TR、HSさんにも元気で歩いていることを伝えて欲しい」
旨を頼んでから、今日供養した故FYさんの息子のY氏に、今頃何をしているのかなと思いを巡らしながら葉書を書く。日記を書き始めたが今日はハプニングが多いせいか、次から次と書くことが多く、途中で眠くなったのでその後は明日書くことにして蒲団にもぐりこんだ。果たして明日徳島まで靴が持つかが心配で暫く寝付かれなかった。
後記 焼山寺で会った5人の内、「メガネ氏」は判らないが、4人は通し打ちした模様で、3人は二度目の遍路、1人は51名山登山の猛者で、偶然とは言え健脚同士だったが、同じく登山の猛者で26番金剛頂寺付近で別れた「メガネ氏」も、あの健脚振りから判断すると多分通し打ちしたものと思う。