快晴無風絶好の旅発ち日和で、娘夫婦に送られて京都を目ざす

11月3日(1日目) 金 快晴 21度 北浦和 日本橋武蔵国) 品川宿 川崎宿相模国)             
東横イン(4,095円) 
17,7粁(17,7粁)
 さいたま市の長女宅で朝ご飯を済ませ、念の為両足の裏にテーピングして、皆と写真を撮った後、当初一家4人で日本橋まで見送る予定だったが、下の真が昨日から熱を出したので、玄関で二人の孫の見送りを受けガッツポーズで、「頑張るぞ」と声を掛けると二人も、「頑張って」の声を背に玄関を出て、娘夫婦の車に乗り込む。朝の混雑を予想して中仙道を避けて東京日本橋に向かったが、初めは何処を通っているのかさっぱり判らなかった。
 途中から中山道を通って文京区に入ると見慣れた建物の中に、東京ドーム周辺が目に入り都心に近付いていることが判った。間もなく日本橋が見えて来たので近くに駐車して、日本橋に着いたのは8時55分だった。


広重が描いた頃の日本橋の朝風景


今朝の高速道路下の日本橋には広重もビックリすること請け合い


 今日3日は天気の特異日とかで、まさに快晴無風、旅発ちには絶好の日和で、橋の歩道脇にはホームレスが一人陽を浴びて寝転んでいた。先ず日本道路原標や里程標の標識等と、周辺の建物を写した後、「日本橋」の銘が入った柱を背に、お互いに記念写真を撮り合う。
 9時、娘夫婦に見送られて、約6キロの荷物を背負い、出来るだけ旧東海道を通って京都三条大橋を目指して国道15号線に歩みを進める。信号を渡ったところで後ろを振り向くと娘夫婦が手を振っているのに応える。
 45年前兜町にあった東京営業所に勤務していた頃、良く立ち寄った高島屋は変わらぬ姿を見せていたが、白木屋(その後東急)はビルに変貌し、丸善本社ビルも建て替えられていた。通り三丁目を過ぎ京橋に入ると、明治製菓明治屋の昔変わらぬ建物が目に入ってきた。
 初めは交差点で止まることが多いと予想していたが、思ったより順調に信号が気に成らないほど、上手い具合に進むことが出来たのは予想外だった。また休日とあって車が少ないので、狭い通路の信号で車が見えない時は無視して通る。
 銀座三越を過ぎて、手帳を忘れたこと気が付いたので、娘にその事を伝えた際、日本橋で携帯で撮った写真を札幌の次女に送ったと話していたが、便利に成ったものだ。
 今回東海道の旅は出来るだけ江戸時代以降の面影を残すものは、カメラに収めることにしているので新橋のコンクリート造りだが擬宝珠を先ずカメラに撮る。
 田町に入ると、江戸南の大木戸と西郷隆盛勝海舟との間で決まった江戸城明け渡しの場所の標識を写す。
 東京在住の遍路仲間のK氏から、以前品川駅で見送りたいと伝えて来たので、電話で、「11時頃品川で会いましょう」と伝える。
 時折東京タワーが顔を覗かせるが、ビルの上から先頭部分が見えるだけで、中々シャッターチャンスに恵まれなかったが、芝大門の交差点から初めて全貌が見えたので、紺碧の空を背景に赤く塗られた東京タワーを写したが、この付近に来ると、さすが車の多さが目に付いた。
 今まで用を足そうとしても休日でビルは何処も入れなかったが、この辺に来ると、休日にも拘らず営業しているビルがあったので、中に用事がある振りをして用を足し、外に出ると高輪泉岳寺の標識があったので右折して泉岳寺に向かう。
 

高輪泉岳寺では四十七士の墓前に線香の香りが漂っていた

 

 境内の人は少なかったが、線香の臭いが何処からともなく漂ってきた。赤穂四十七士の墓を一巡した後、大石蔵之助の墓に手を合わせて門を出る。
 11時、品川駅前は多くの人で溢れかえっていた。さすが東京だ。横断歩道を渡り向い側の人の群れの中にK氏が居た。彼とは初めての四国八十八ヶ所歩き遍路の際、45番岩屋寺に向かう槙の谷の登り口で、上から降りてきた逆打ちの彼と出会って以来だが、その後メールによる付き合いは続いていたので、今回東海道五十三次の旅に出ることを伝えると、「是非、品川で会いたい」との話で、6年ぶりの再会だった。「白い恋人」の土産を渡すと恐縮していた。
 彼は先月四国遍路の区切り打ちに出かけたが、初日に足を痛めて断念せざるを得ないことになった由。私の元気の様子を見て、又出かける気が起きた模様だ。四国遍路の話になると、お互い話は尽きることがなく1時間は直ぐ経ってしまった。コーヒー代も彼が払い、お接待としてコンビニのカードを頂く。感謝。
 品川の橋の袂で彼と別れ、京浜急行の線路に沿った旧東海道に入ると道幅は狭く、車の交差も大変のようだが、車が少ないので道の真ん中を歩く。両側の商店街は休日にも拘らず店を出していた。右手に品川宿の暖簾を出している案内所で品川宿の商店街の地図を貰い、暫く進むと小さな公園が品川宿跡で、看板の後ろに公衆トイレがあった。
 1時を過ぎていたので、手頃な食堂に入り、炒飯を注文すると直ぐ出てきたのには驚いた。客も居ないので暇つぶしにでも作っていたのか、それにしても早かった。スープを飲んでから店を出たが、この街道は一本道で迷うことがないのは良かった。
 

多くの罪人の血が流れた鈴ヶ森刑場跡

 
 
 間もなく涙橋に着く。この橋は昔から鈴ヶ森刑場手前にあり、ここで処刑される人との今生の別れの場所で、この名前が付いたと書かれてあった。橋を渡ると刑場跡があり、徳川幕府転覆を企てた由比正雪の乱で磔の刑になった丸橋忠弥や、火付けの刑で焼殺された八百屋お七の処刑台が今も残っている。その脇にはこれらの人を弔う寺があった。
 ここで第一京浜と合流するが、途端にトラックの流れに驚かされる。この先六郷橋まではこの道を通ることになるので先が案じられる。幸い休日とあって心なしか車の流れが良いので、初めは排気ガスはそれ程気には成らなかったが、歩くうち咽喉の奥がいがらっぽくなるような感じがしてくる。この両側に人は良く住んでいるものと、感心するどころか可哀そうな気がしてきた。我が家のような環境の良い空気の澄んだところで生活している者は幸せなものだと実感した。
 途中梅屋敷の公園の脇に弓道場があって、袴を着て熱心に弓を射っている姿を見て、子供の頃、親父の供をして良く弓場に行ったことが懐かしく思い出された。
 蒲田周辺では立体交差の工事や駅の拡幅工事が行われ、分厚い鉄骨が組み立てられていた。かって鉄の仕事に携わっていた関係上、このような大きな工事には直ぐ目が行ってしまうから不思議だ。
 間もなく多摩川の堤防に差し掛かり、六郷橋を渡ると、広い河川敷では多くの人たちが、野球やサッカー等に興じている姿が目に入る。遠く河口を見ると大きな煙突から煙が真上を指していた。 
 川崎側の河川敷ではホームレスの住む掘っ立て小屋が散見されたが、彼らは固定資産税を払っていないのではないかと、変な勘繰りをしているうち橋を渡りきり、時計を見ると3時を指していた。
 品川でK氏が、「出来れば川崎大師に行っては」との話を思い出し、近くの人に場所を尋ねると、「ここから約2キロはある」との答えに、往復4キロは厳しいので諦める。
 級友のK君に、「今六郷橋を渡ったところだ」と伝えると、「黙って川崎を通るとは何事だ、今夜何処に泊るのか」との問いに、「ビジネスホテルの積りだ」と答えると、「東横インは安くて良い」とのこと。
 川崎駅前の東横インは生憎満杯で、近くの東横イン砂子を紹介して貰い3時半チェックインする。K君に5時川崎市役所前で会うことにして、一先ず荷物を解いて、風呂に入り今日の疲れを癒す。今のところ足の痛みは無い。
 暮れなずむ5時、川崎市役所前で彼と合流し、近くの居酒屋で、9月の級会以来2ヶ月ぶりの再会を果たす。先ずビールで乾杯しお互いの健康を祝す。目下入院中のO君の病状を聞くと、「心臓の血管が問題で、手術をするかどうかは未だ決まってないが、多分無理だろう」とのことだった。ビールを呑んだ後、酒を注文する際、彼は、「国士無双は北海道の酒で美味い」と聞いて頼んだが、北海道の酒とは思わなかった。良く覚えているものだと感心した。
 来年の級会は函館で開催するので、来て欲しいと頼むと、了解してくれた。彼は級会には、昨年体調がすぐれず欠席したが、その外は必ず来てくれた。彼も久しぶりに気の置けない仲間と呑んだせいか、酒も捗ったようだ。終って割り勘は受け付けず彼の接待に預かった。
 居酒屋を出て東横インまで送ってくれ、ロビーの自販機から缶ビールを持って来てくれたので別れの時間を過ごし、無事を祈って彼は帰っていった。
 部屋に戻り、スケジュールを調べた後、歯を磨く。日記を書く積りでノートを出したものの、3行ほど書いた状態で眠気を催したのでノートを閉じ、明日書くことにして蒲団に潜り込んだ。