横浜駅周辺は、むかし海だったとは・・・

4日(2日目) 土 曇り時々晴れ 21度 神奈川宿 保土ヶ谷宿 戸塚宿 
戸塚アーバンルーフ・ホテル(8,550円)     23,6粁(41,2粁)
 川崎宿(六郷川を渡り切るところで富士山が描かれた)

 6時半、時計の目覚ましをセットした積りが作動せずに目覚めたので荷物を整理し直して、足の裏にテーピングしてロビーに下りて、朝食サービスを食べてからホテルを出たのは7時40分だった。昨夜気付かなかったが、旧東海道に面して、なまこ壁の砂子会館があったので、街道の歩道を西に向けて歩く。
 川崎と横浜との境界の鶴見橋を渡ったところで、前回二度目の四国遍路で初日同宿した、鶴見区在住のT氏に、その写真集のCDを贈呈するので電話したところ、この場所で待ち合わせることにした。程なく自転車に乗って彼が来た。2年ぶりの再会だ。早速彼に(奥の細道車行脚。春、秋の「四国八十八ヶ所歩き遍路」630枚と旅日記A4で200枚入)のCDを渡すと喜んで受け取ってくれた。彼の案内で旧道を共に歩き、四国当時の話や、その後の話をしながら歩くうち、道の両側に多くの 魚屋があるので彼に聞くと、かってこの付近の前浜で昔から漁師が魚を取っていた名残で、今もこの様に市場があるとのこと。良く見ると見たこともない魚も結構あったが活きは良かった。                  
 国道1号線の合流点近くに、生麦事件の碑があった。幕末、薩摩藩島津久光の行列に、英国人が馬で横切ったところを、藩士が切り掛かり、リチャドソンを殺害し、女性を含む数名に怪我を負わせる事件が発生し、賠償を巡って、後に薩英戦争にまで発展した事件の現場だった。ここで彼と別れるにあたり写真を撮り後で送る事を約して、再び一人国道の喧騒のなかを歩く。
 新子安付近は高層マンションが多く目に入り、横浜駅が近いことが判る。横浜駅周辺は立体交差の道路と新しいビルが多く全く見当が付かないので、近くの人に道を尋ねて、漸く目標の青木橋に着いた。右手に相模鉄道東神奈川駅
現在の本覚寺は広重ならずとも現代人も驚く

 目の前に鉄筋コンクリートの土台の上に、開国当時米国領事館があった本覚寺が半分ほど空間に乗っていたのには驚く。
神奈川宿(台町の坂を旅人達が登る)

台町の坂の両側はマンションが、左側の海は埋め立てられて横浜駅

 青木橋を渡り、寺の脇を通り東海道五十三次の浮世絵師安藤広重が描いた、「神奈川」の坂が見えて来たが、今や台町の地名でマンションが両側に立ち並び、かって傍に海があった等想像出来ない情景に様変わりしていた。坂の上には幕末から明治維新に掛けて、外人の治安維持のための関所跡があった。
 坂を下ると旧道の道端に、所々旧東海道の標識が埋め込まれてあり、道に迷うことがない。浅間神社の下を通ると、間もなく保土ヶ谷宿の帷子(かたびら)橋に着く、といっても、かってここに橋があったというだけのもので、この付近は商店街が有り、その先の天王町駅の下を通ると昔の追分の標識等があり、右に曲がると昔の絹街道の八王子に向かう。
 その追分に接待の番所が有ると聞き、訪れると二人のお婆ちゃんが居て、駄菓子とお茶の接待に預かる。喉が渇いたのでお茶を追加すると三杯も出してくれた。何処からとの問いに、「日本橋から」と言うと、「日本橋から歩いて来たの、東京の人?」「北海道」と言うと、なおの事驚いて、又新しいお茶を注いでくれた。荷物を背にして、二人の写真を撮った際、四国同様歳を聞かれたので、免許証のコピーを見せると、年長のおばちゃんが、「私と同じ74歳だ、私は1粁も歩けない、気を付けて」の声を背に歩くと直ぐ先に、保土ヶ谷本陣が有り、今も軽部姓を名乗り生活しているが、建物は大分傷んでいた。
保土ヶ谷宿(この付近に新町橋もどきの橋が小公園にあった)

 道は緩やかな登りとなり、初めての一里塚が目に入った。1604年幕府が東海道を整備するに伴い、一里(約4粁)毎に土塁の上に榎(えのき)を植えて、旅人の目安にしたが、近年に至り都市化が進んだ結果多くが破壊されてしまい、開道以来の一里塚に植えた木で、残っているのは数えるのみとなり、殆どはその後植え替えたもので、この木も植え替えられたものだ。
 上を見ると丘の上に大きなマンションが立ち並んでいた。この坂は正月の大学箱根駅伝のコースになって、往路で多くの選手を悩ませる権太坂だ。 
 保土ヶ谷2丁目の交差点の左側に、名前は聞いたことがある、「尾道ラーメン」の看板を見たので、昼を過ぎているので立ち寄る。味噌ラーメンを食べたが妙に脂が強くて感心しなかった。
 傍の横断歩道を渡り、旧東海道権太坂は国道とは違い狭くて急な登りで、高台からの海の眺めはマンションに遮られて余り見えなかった。境木地蔵から旧街道を通り一里塚を写す。
 1号線に出るのに道を間違えたが、少しのロスで済み、跨線橋を渡り、住宅街を暫く進み1号線に出ると、ブリッヂストンやポーラ化粧品に小糸製作所の工場が右手に目に入ってきた。
戸塚宿(モチの木は戸塚宿の象徴だ) 

 間もなく左手に大きな木が見えてきた。この木は益田家の所有するモチの木(実は鳥もちの材料)で、古来から大名行列や多くの旅人の目に触れてきたもので、横浜市文化財に指定されていた。写真を撮ろうと中に入ると家は昔ながらの茅葺だった。これにも驚いた。
 戸塚周辺はビルが立ち並び、地下道を通り駅付近に出て、今夜の宿を探したが、この付近には宿屋やホテルがないとのこと、これには参った。今更戻る訳にも行かず、この先の茅ヶ崎は遠すぎるし、困っていたところにガソリンスタンドが有ったので近くの宿を聞くと、「1粁以上先だが、柏尾温泉のあるアーバンルーフ・ホテルしかない」その声を頼りに先へ進むと、右手に日立の大きな工場があって、その先に漸く戸塚アーバンルーフ・ホテルの建物が見えてきた。
 4時50分、ホテルのフロントで部屋を聞くとシングルは有るとのこと、料金8,550円(朝食のみ)は高いと思ったものの、今更外に宿もないので渋々払い部屋に入る。浴衣に着替え洗濯物を持って裏の洗濯機に入れようとしたが要領が判らず、フロントの女性に来てもらい何とか回してもらった。温泉に入って二日の旅の疲れを癒す。洗濯機を見ると既に洗濯は終っていたので、乾燥機に入れて部屋に戻る。
 夕食は向いの焼肉屋で食べるが、下着は全部洗濯してしまったので、止む無くズボンとウインドブレーカーを身体の上に直接着込んで、早速出かける。
 先ずビールを注文し、何時もの焼肉3点を頼む。久しぶりの焼肉と張り切って食べたが、味は今一つ冴えなかった。若布スープとキムチでご飯を食べ、腹が一杯になったので精算すると5千円札にお釣は200円程だった。今日はホテルと夕食で高いものに付いたので明日は安く上がる事を祈る。乾燥機から洗濯物を取り出して部屋に戻る。
 昨日の分も合わせて二日分の日記を書いたが、随分時間が掛かり、その間、我が家に電話すると、「野幌公民館に展示された私のパステル画が奨励賞を受け、道新に名前が出たので、裏のTさんと一緒に見に行った」とカミさんの嬉しそうな声が届いた。
 又二人の娘と孫から次々とメールが届いたが、携帯でメールの出し方は娘に教わったが、いざ出すとなると中々通じなかったので、電話することに成った。Tさんにもお礼の電話と近況報告をする。
 左足の裏にマメが出来たので、四国の時同様、針先をマッチで消毒した後、マメに穴を開け徹底的に水分を搾り出した後、バンを貼ったが、新しく買った靴を200粁も履き慣らし、テーピングしてもこの有様だ。
 その後書き残した日記を終えたのは10時近かった。明日は大磯泊りだ。