相模湾に沿った湘南の地を歩きながら一度は住んで見たいと思った

5日(3日目) 日 晴れ 21度 藤沢宿 平塚宿 大磯宿 
                 つるや旅館(5,250円) 
24,6粁(65,8粁)
 昨夜は直ぐ寝付いたが、夜中暑くて寝付かれず、クーラーは24度を指していたので、20度にセットし直したのが失敗のもと、普段クーラーを使うことがないので、後で考えると10度程度に設定すべきだったと後悔したが、朝方までまどろんだ状態でベッドを出る。左足裏の状態は何とか成りそうだが、念の為、両足裏にテーピングする。
 朝食に際、窓越しに橋が目に入ったので、隣の人に藤沢に出る道を聞くと、
「この橋を渡り、道なりに右に曲がり戸塚方面に真っ直ぐ1粁ほど進むと、大きな道路に出る。そこを左に曲がり、二つ目の交差点が国道1号線で、左に曲がると藤沢に出る」
 お礼を述べて食堂を出る。部屋に戻り荷物を背にホテルを出たのは7時35分だった。
 ホテルの横から高架橋をわたり、言われた通りの道を戸塚方面に逆戻りする。左手に川が、右手に日立の情報処理工場を見ながら進むが、随分大きな工場だ。前方に車が走っている道に出たので左に曲がり、二つ目の信号が国道1号線だった。緩やかな坂道を登ると、戸塚宿の上方見付があったのでカメラに収める。この坂を登り切ったところに、人形浄瑠璃や歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に登場する、お軽勘平道行戸塚山中の場に出るが、真偽の程は別にしても数百年演じられた名場面だ。今はマンションが立ち並び、山中とは程遠い環境になっていた。
藤沢宿(遠くに遊行寺が見える) 

 9時10分、藤沢市に入る。僅かな松並木を見ながら切り通しの坂を下る途中に、一遍上人を宗祖とする時宗の総本山遊行寺が右手に見えたので境内に入ると、丁度骨董市が開かれていた。月に二度開かれるそうだが、見た目にはガラクタから本物っぽい物まで雑然と並べられ、客と商談している人もいた。「値段はどのように決まるのか」との問いに、「それなりの相場があるので、決まるところに決まるものだ」と訳が判らない話しをしていたが、見る人が見るとそれなりの評価が出るのだろう。
 一遍上人は伊予の人で鎌倉時代に、寺を持たず踊念仏を唱えて全国を行脚した聖(ひじり)で、庶民に愛された僧侶の一人だ。境内の大イチョウは幹回り7米と、鎌倉の鶴岡八幡宮に匹敵する威容を見せていた。
 藤沢橋を渡り右折して弓なりの道を進む。観光客も目に入る。交番で義経の首洗い井戸の場所を聞いたところ、偶然にも交番の裏が井戸のある場所だった。平泉で義経藤原泰衡の軍勢に殺された後、首を鎌倉に運び、腰越で首実験を終えて放置されたのが、藤沢の浜辺に流れ着いたのを地元の人に拾われ、この井戸で首を洗ったと言い伝えられた。真偽は別にしても、栄枯盛衰世の習いとは言うものの、ものの哀れを感じないわけにはいかない。
 前方の丘の上に白い展望台のような塔が見えて来たので、通り掛った人に尋ねると、「ごみ焼却場の煙突」とのこと、それにしても高台に焼却場を設けるなど、環境に配慮した湘南の地と感心した。
 坂を登ると、メルシャンのワイン醸造所が見え、大きなタンクが並んで、可なり大きな工場だった。
 向うからリュックを背負い、首にカメラを下げた中年の人と会ったので、「東海道を歩いているのですか、今日で何日目ですか」と聞くと、
「京都を出て22日目で8日には日本橋に着く予定だ、このカメラで風景等写しながらの旅なのでゆっくりペースで歩いている」とのこと、お互いの無事を祈って左右に別れたが、初めて、東海道を歩いている人に出会った。本当に少ないものだ。四国の経験から考えると、年間何千人の人がこの街道を往来しているものとばかり思っていたが。
東海道で初めて目にした松並木らしい松並木 

 間もなく国道1号線と合流する。11時15分、茅ヶ崎に入り前方に松並木が目に入ってきた。茅ヶ崎高校付近の黒松の並木で、東海道らしく趣があった。古いのは400年とかで、幹周りは2米ほどあり、道の両側に100米ほど植えられていた。この付近は裕福な家が目に付き、門構えから庭木に至るまで、手の掛った造りが家屋との調和を見せていた。湘南族の住む家か。
 12時、SATYに着き中に入ると、人々で溢れかえっていた。ご飯物の食堂を探したが無いので、ラーメン屋に入り、塩ラーメンの食券を買うと暫く待たされる。リュックを背負っているので、家族用のテーブルの椅子に荷物を降ろすと、子供たちは珍しそうに見ていた。こちらで食べたラーメンとして味は先ず先ずだった。SATYを出た先の交差点に、茅ヶ崎一里塚があった。
 間もなく相模川に架かる馬入橋は、かって源頼朝が妻政子の弟が馬入橋の修復完成したのに駆けつけた際、馬から転落し間もなく死亡したと伝えられ、それが名前となった因縁の川で、それらの故事を思い出しながら渡るが、この広い川幅に橋を架けるのは当時としては大変な仕事だったに違いない。10分ほどでこの橋を渡ると平塚宿は直ぐだ。
 平塚市に入って国道と旧街道の交差点付近の公衆電話で、電話帳から大磯の、つるや旅館に電話し、夕食抜き5千円で予約する。大磯にはビジネスホテルはあるが、旅館は2軒しかなく、1軒の宿は休業していた。
平塚宿(高麗山から富士を望む) 

花水橋から高麗山越しの富士山は夕暮れ時で見えなかった

 市内に入り本陣跡を探してカメラに収めて先を進むと、国道1号線に合流し、広重が平塚宿を画いた、高麗山が見えてきたので、花水橋からカメラに収める。広重が描いた場所を探すのも大変で、浮世絵は特に誇張して画いているので、同じ視点で写真に撮るのは難しい。橋を渡ると大磯だ。
 大磯の町に差し掛かると、旧街道祭りの幟は道の両側の商店街に所狭しと、はためいていた。宿は学校の傍を通った先にあった。4時前見かけは普通の家に似た感じの宿に着いた。二階の部屋に通されて、先ずは荷物をリュックから取り出し、風呂に入ったが今夜は貸切のようだ。
 箱根旅館組合に明日の宿を頼むと、廉い宿でも1万5千円前後とのこと、春光荘旅館を紹介してくれたので電話で春光荘を予約した。
 女将さんが洗うものが有るなら一緒に洗濯するので洗濯機に入れて欲しい、と願っても無い話で下着を取り替え、序に町の食堂の名前を聞いて宿を出ると、真ん丸い月が煌煌と光り輝いていたが、北海道も同じ月が見れたかなと感慨に耽る。
 店は何処も昼間の祭りの仕事を終え休業状態だったので、止む無くJR大磯駅に向かう坂を登って行ったが、駅前に商店街は無く、ひっそりとしていたので再び坂を下り、食堂を探すのを諦め、コンビニで缶ビールとつまみに握り飯2個を買って宿に帰る。
 女将さんに、「食堂は何処も休みで、止む無くコンビニの物で済ませる」と言うと、「ご免なさい、休みとは思わなかった」と済まなそうに話していた。
 部屋に戻り一人寂しくコンビニで買った缶ビールで喉を潤し、握り飯の包装は上手く剥れたが、良く見ると上手く考えたものだと感心しながら食べた。昨日のホテル代と焼肉の払いは上手い具合に調整されたと一人苦笑い。
 そこへ、横浜のT氏から電話が入り、その後の様子を聞いてきたので、今のところ順調で、今夜は大磯に泊って、明日は愈々箱根に向かうが、日本橋から今日まで東海道の家並みは途切れることもと無く、延々と続いている事を伝えると彼も驚いていた。今後の旅の無事を祈っているとのこと。
 川崎のK君に電話すると、O君の病状は思わしくないと話していた。
 机に向かい今日一日の出来事を記すが、色々と有るものだ。これが旅の喜びでもあるが。左足裏のマメは何とか治りそうだ。
 掛け蒲団の下に毛布があったので毛布を取り、蒲団に入ったのは10時を過ぎていた。先だって腕時計を目覚ましセットにして、手首に付けたまま寝たので音に気が付かなかったと思い、腕時計をセットした後、枕元に置いて寝る。明日は箱根に差し掛かる。