日本橋から箱根入り口まで、東海道の家並みが途切れなかっ

6日(4日目) 月 快晴後薄曇夜雷雨 20度 小田原宿 箱根湯本
                    春光荘(14,230円)
                      22,3粁(88,1粁)
大磯宿(昨日の宿場祭りから想像できない佇まいだ)

 夜中2時頃目が覚めるとその後中々寝付かれず、6時にセットした時計が鳴ったので起きる。朝食は部屋まで運んでくれたので久しぶりに部屋で食べた。昨夜のコンビニの話が効いたのかな。
 食後、何時もの様に両足裏をテーピングする。精算の際、
「洗濯代はサービスするので5千円でお願いします」と言うので5千円を払い、7時15分、宿を出た。
 今朝も快晴のせいか冷え込みが強かったが、国道1号線を歩いているうち徐々に体が温まってきた。所々松並木が点在して、街道の情緒が感じられる。中には幹周りが2米近くある巨木が歴史の重みを実感させる。
 間もなく左手に明治の元勲伊藤博文の別荘「滄浪閣」が見えたが、現在は大磯プリンスホテルがレストランや宴会場等に利用しているらしい。
 左手に自転車専用道路の案内があったので、少しでも車が少ない道を歩こうと、200米程海寄りの道を進むと、確かに専用道路はあったが終点で逆方向の道路だったので、ガッカリして国道に戻り先へ進むが、時間の経過と共に車の往来が激しく、道を横断するのに緊張を強いられる。
 二宮町に入ると国道も2車線となり、狭い歩道の脇に庭木を適当に縛ったものと、ゴミ袋が雑然と並べられているのを良く見ると、ゴミは有料袋の外、普通のビニール袋も使っているので、お婆ちゃんに聞くと、「生ゴミや燃えやすいゴミは有料袋に、その他のゴミは普通の袋を使い、今日は収集日だ」との話を聞いて、我が町江別市と違い、中途半端な収集の仕方をしているものだと思った。
 また狭い歩道を前後に大きなビニール袋の中にアルミ缶を詰めて、自転車を引いて来る人がいたので、「この町では資源を回収して無いのか」と聞くと、返事もせず通り過ぎて行った。痛いところを突かれて、早く立ち去りたかったものと思う。 変なところに、町内会の環境担当のお節介が出るものだと、我ながら困った男だ。
 間もなく小田原市の標識が目に入る。国道の里程標で確認したところ、1粁当り11分30秒で歩いているので、1時間5粁強のペースで歩いていることになる。我ながら立派なものだ。
小田原宿(酒匂川の向うに急峻な箱根の山が描かれている) 

 酒匂(さかわ)川を渡り、新田義貞首塚をガソリンスタンドで聞いて左折する。暫く周辺を歩いても首塚が無いので近所の人に聞いて、私有地の奥まったところにあった。小学生の頃、建武の中興で楠正成と新田義貞等が足利尊氏から後醍醐天皇の親政に取り戻すため戦ったが、武運拙く殺されてしまったが、忠君の士として教科書に書かれてあったのを良く覚えている。
 小田原市内の入ると、auのアンテナショップがあったので、試しにソフトバンクのメールの出し方を聞いたが、会社が違うので、小田原駅付近のソフトバンクの店を教えてもらう。
 11時20分、漸く旧東海道に入り、本陣を探したが中々見当たらなかったが、明治天皇の休憩場所付近とのことで捜したが無かったので、近くに洋服屋に本陣の場所を聞いたところ、偶然にもこの店が元本陣の有った場所で、以前に文化庁の係官が来て、標識を立てるかどうかと聞いてきたが、今更と断ったとのこと。然し、小田原市小田原城を売り込むため、旧町名の標識を所々に建ててあった。また小田原と言えば、先ず蒲鉾と提灯を思い出すが、確かに蒲鉾屋は目に付いたが、提灯屋の店は目に付かなかった。
 横断歩道を渡り駅に向かう道は、昼時とあって多くの人で混雑していた。目指すソフトバンクは有ったが、客が多かったので聞くのを止めて、近くの食堂に入り、車えびのカレーライスを注文する。左足裏が痛むので靴下を脱ぎ、テーピングを剥がすと新しいマメが出来ていた。何時まで待っても来ないので確認したところ、「聞いていない」とのこと。急いで作ってもらったが、時間を可なりロスしてしまった。
 国道に出て暫く歩くとJRと箱根鉄道と新幹線の高架をくぐり、間もなく箱根鉄道の高架をくぐると、右手の山裾に沿って箱根鉄道のロマンスカーが見えてきた。この付近から徐々に緩いながら坂道に成って来たので箱根に入って来つつある事を感じる。
 日本橋から延々と続いていた家並みも85粁近くで漸く途切れてしまったが、それにしても東海道の大動脈は想像した以上にダイナミックだった。
 1時20分、箱根町の標識が見えた。蒲鉾の店が軒を並べ、観光バスが数台駐車していた。大手の蒲鉾の工場か何かが建設中だった。右手の山際の絶壁にへばりつく様に別荘らしい建物が建っていたが、良くあのような場所に家を建てたものと感心したが、近くの人の話では最近人の出入りが無いと言っていた。
 旧街道を通ったり国道に出たりしているうち、三枚橋が見えてきた。そのまま真っ直ぐ登る坂道が、正月恒例の大学箱根駅伝のコースだ。確かにこの登りが往路の勝敗を決めるのかと思いながら、左に曲がって三枚橋を渡る。
 朝方の快晴が嘘のように厚い雲が上空を覆ってきた。前方の箱根の山はガスが掛って全く見えなかった。橋を渡ると間もなく急な坂道が目の前に見えてきた。ここからが旧東海道の箱根湯本で、今夜の宿春光荘に電話で場所を聞くと、「1,2粁程登ると看板が出ている」と素っ気無い返事が返ってきた。
 それにしても急な坂道で一歩一歩坂を登る途中に、北条一族の菩提寺「早雲禅寺」があったので、時間があるので中に入る。
 入場料を払い、玄関で荷物を降ろす際、よろめいたのを見て係りの人が、「どちらからお出でですか」の問いに、「大磯から来た」と言うと外の3人とも信じられない顔をして、その内の一人が荷物を持ってくれたが、「これは重い」(約7キロ)と彼もよろめいたので皆で大笑い。先週から特別な展示内容で、襖絵や掛け軸等の重要文化財が展示されていた。
 枯山水の庭に下りるとその向うに一般の墓地があり、その先の奥まった薄暗いところに北条早雲をはじめとする5代の墓が横並びになっていた。  
後に北条早雲を始めとする五代の墓が一ヶ所に奉られた 

 この寺は、北条早雲が息子氏綱に命じて造らせた禅寺で、秀吉が最後まで抵抗した小田原北条攻めの本陣を構えたところで、三ヵ月後落城の際焼き払われたが、その後寺の再興が許され、北条早雲を始め切腹した城主の墓共々ここに移された。
 3時10分、春光荘に着くと、玄関脇の楽庵で抹茶と金平糖の接待を受けたが、金平糖は暫くも良いところで、何十年振りで食べたようだ。急な階段を何度も上がり、部屋に通されて窓を開けると目の前に崖が迫って、如何にも天下の険箱根に来た実感がした。
二つ目のマメに前途多難を感じる 

 荷物を解いてから、両足のテーピングを剥がして風呂に入ったが、定山渓温泉の様な透明な湯で、疲れた身体には何よりだった。
 左足裏のマメが10円銅貨ほどの大きさに成っていたのを見て、この足で明日の箱根の石畳を歩けるのかと、暗然たる気持ちのなった。風呂から上がって体重を量ると57キロと2キロ減っていた。
 風呂から上がり部屋に戻って、電話帳で三島の宿をアモール・ホテル・リオに電話して二食付き6,600円で決めた。
 早速マメの治療をしたが、古いのは大分良くなって来ているので安心したが、新しいマメは赤く腫れ上がっていたので、参考までにカメラに撮り、何時もの様にマッチの火で針先を消毒したあと、穴を開けて水分を搾り出したが、痛みに堪えながら完全に水気が無くなるまで随分時間が掛った。その上にバンを貼って漸く治療を終えた。
 夕食まで時間があるので、今日の日記を付けていると、6時夕食の膳が運ばれてきたが、この階段を上り下りする仲居さんは大変だと思った。
 この事もあって予めビールと銚子1本を注文していたので、コップに注いで一人で乾杯。初めての旅館料理の8品を上からカメラに写した。品数と内容から見て値段相応だと思った。仲居さんがお膳を下げた後、残りの日記を付けたが、雨の音がしたので窓を開けると風を伴って可なり強く降っていた。テレビの天気予報によると、明日午前中に掛けて雷雨と伝えていた。明日の箱根越えが案じられる。
 新しいカバーが掛けられた蒲団に入り、雨の音を耳にしながら間もなく深い眠りに就いた。