二つ目のマメは箱根越えには高い代償に付いた

7日(5日目) 火 18度 雨後曇り午後快晴強風 箱根宿 箱根峠 三島宿(伊豆国
     アモール・アテルノ・リオ(7,375円)24,8粁(112,9円)
 1時頃窓を打つ強風で目が覚めたが、間もなく眠ってしまった。6時起床窓を開けると、相変わらず風は強いが雨は小降りになって来たので、リュックに合羽と傘を何時でも出せるように、上に積んで置いた。玄関に警備員が居たので、元箱根の芦ノ湖までの時間を聞くと、4時間も見たら十分とのこと。
 7時35分、二階の大広間でバイキング形式の朝食を食べたが、泊り客は10人足らずだった。食べている時、急に強い雨が降り出してきた。8時10分、精算した後、外を見ると、小雨が降ったり止んだりしているので、合羽を止めてウインドブレーカーに傘を差して宿を出た。
 急な坂道を5分ほど歩くと、雨が上がって来たので傘を手に持って、何時でも差せる様にして歩く。旧東海道はこの辺は特に道幅が狭いので、上からの車に気を付けるため右側を歩く。湯本温泉街は急な谷間のようなところに建てられているのを右に見ながら一歩一歩坂道を登る。時折小雨が降るが傘を差すほどでもなかった。漸く湯本を過ぎ、箱根湯本一里塚跡のある道に出る。
石畳は箱根の上り下りの所々に敷き詰められ、この膨大な石を良く運んだものだ 

 この付近に箱根細工の工房や売店が点在していた。その先を登ると、問題の石畳が見えて来たので、通る前にカメラに収める。昨夜からの雨に濡れて石の表面が濡れているので、滑らないように慎重の歩くが、左足裏が痛むので負担にならないように、右足に重心を掛けて何とか登る。昔の旅人は勿論のこと、参勤交代の大名行列もこの石畳には泣かされたことだろう。一説によると、大名の輿を担ぐ人足が、足を滑らせて駕籠を転倒させたものなら即刻打ち首に処せられたと言われる。
 間もなくキンキラ金の寺が見えて来たが、何の寺か知らないが、良くここまで塗りたくったものだと、不快感を催すが、誰か知らぬがこれを見て極楽往生を願う人も居るから不思議だ。奈良の大仏もかってはキンキラ金だった事を思うと、有り難がる信者が居ても不思議でもないのか。雨は完全に上ったようなので傘をリュックに仕舞う。
 前方に赤い山門が見え、箱根天狗を祭る神社が見えてきた。どうもこの箱根は魑魅魍魎とまでは言わないが、昔から難所だけに盗賊の群れや浪人どもの格好の稼ぎ場所だけに、この様な可笑しな寺社が有るのかなを思いながら進む。
 接待茶屋跡を過ぎると畑宿の一里塚があり、その先から道幅が狭く登りも急になる。間もなく国道の箱根七曲りの難所に差し掛かるが、橿(かし)ノ木坂と言って、今は急な階段を登るが、当時はこの坂を登るのに、
  かしの木の 坂を上がると苦しくて どんぐりほどの 涙こぼるる 
と詠われたほどの難所中の難所だったらしい。詞をノートに書き込んで、再び階段を50段ほど登ったところで、帽子がないのに気が付き、慌てて下に降りると、その詞の立看板のある場所に帽子があった。また階段を登るが、汗が吹き出る感じで休み休み坂を登る。そこを登りきると、かっての茶屋跡がある。
 通称猿滑りの坂があったが、橿ノ木坂ほどではなかったがそれでも息切れが続いた坂道だった。正月大学駅伝でこの坂を制するかどうかが往路のポイントになる場所だ。国道に出ると下から車もやっと登って来るのでエンジンの音がうるさかった。
 やっと平坦な道に出て暫く歩くと、10時20分、古ぼけた甘酒茶屋に着く。かって4軒の茶屋は道路の向う側に有ったが、地震で倒壊し現在は1軒のみで、観光バスやマイカーの客で混んでいた。昔から旅人はここの甘酒を飲んで旅の疲れを癒したほど有名な茶屋だ。甘酒は米麹から作ったもので、昔お袋が作ってくれた味と同じで、お袋を思い出しながら茶碗を傾ける。つまみに紫蘇の実が付いていた。
 茶屋を出て裏の旧街道を通ると、また石畳の道が現れる。緩い坂道を歩いたが右足に軽い痛みが出てきたので、出来るだけ両足に均等な力で歩くことにした。最後の坂を登りきると下りに差し掛かり、芦ノ湖の湖面が木々の間に現れて来た。林を抜けると強烈な風が襲い掛かってきたのには驚いた。湖面は白波が立って湖岸に波が打寄せていた。
箱根宿(天下の険と唄われた箱根山は900米にも達しない) 

 11時、元箱根に着いた。湯本から約3時間弱で着いたことになる。朝方の曇空も風でどこかに行ってしまったのか、上空は快晴で右側の湖面に赤い鳥居が荒波を受けながら見えた。風が強いので帽子をズボンのポケットに入れて歩く。
 湖岸に沿った年代物の杉並木を通る。箱根関所は往時の面影を再現していたが、関所の大事な仕事は、「入り鉄砲に出女」を見張ることだが、特に幕府にとっては大事な人質の大名の家族が江戸を抜けて、上方に向かうのを監視するのが最大の任務だったようだ。関所の中は多くの観光客が物珍しくカメラに収めていた。
芦ノ湖は強風で白波が立ち、遊覧船は運航中止となった

背後の急な階段を登ると遠見小屋があって、そこから湖面の向うに富士山が、昨日八合目付近に降った雪を強烈な風が吹き飛ばしているのが目に入った。右手の駒ケ岳のロープウェイは多分休業していることだろう。山頂付近は時々雲が掛るので晴れるのを待ちながらカメラに収める。
 商店街で食堂を探し、湖岸近くの食堂に小上りがあったので、荷物を降ろして両足の靴下を脱いで足の裏を見ると、左足裏は何とか大丈夫のようだが、右足裏は赤く腫れていたので、一先ず上からバンを貼る。カレーライスを食べて食堂を出ると相変わらず風が強く吹いていた。
 12時、芦ノ湖を後に三島に向かう道を間違えた感じがしたので、向うから来た人に、旧東海道の道を尋ねると、大分違った道を歩いた様子で、礼を述べて引き返すと、右側を注意して歩くと確かに旧東街道の標識はあったが、小さい標識なので見過ごしてしまった様だ。大事な分岐点なので大きめの標識があっても良いと思う。
 国道下のトンネルを過ぎると、間もなく石畳が見えてきたが、箱根側と違って、少しは平たい石が敷き詰められていたので箱根側より歩きやすかったが、これだけの石を何処から持ってきたのかと考えながら歩いたが、右足裏は今までの痛みとは違い、土踏まずにパチンコの玉の少し多き目の玉が挟まっている感じで嫌な予感がした。標高846米の箱根峠に出て国道1号線旧東海道の道を確認し静岡県に入る。
 少し下ったところに芦ノ湖カントリークラブに入る道を進むと、旧東海道の標識があったので左に曲がる。豊臣秀吉が小田原の北条攻めの際、石に兜を置いたとされる兜石があった。また石畳が出てきたが、表面は割と平らで歩く易かった。石畳を抜けると竹薮のトンネルを、ノーエ節を歌いながら歩いていると、下から人が登ってきたので、「どちらから」と聞くと、「神戸から歩いてきたが、富士見平らから見た富士山は素晴らしかった」と話していた。暫く振りに土の上を歩いたので気持ちが良かった。
 旧東海道を歩く人は必ず通る民家の前で老人が畑の土を起こしていたので、「一日に何人の人が通るか」と聞くと、「今日は貴方で二人目だが多くて3人かな、休日には団体で通るが」先ほどの神戸の人と思われる。
 国道1号線に出て直ぐ旧道に入る。また石畳が出てきたが、これは最近作られたらしい。足の裏が痛くなって来たので国道に出たのを機会に2時10分、山中食堂に立ち寄り、トマトジュースを頼む。靴下を脱いで足の裏をマッサージすると幾らか痛みが和らいできた。女将さんに三島の宿のパンフレットを貰い、宿を探したが2軒とも夕食は出ないとのこと、セレモニー風のホテルで2食付の宿を決める。足の具合も大分良くなったので、女将さんに礼を述べて店を出る。
 向いに山中城跡があったが見る気も無いのでそのまま道を下ると、富士見平に着いた。
まさに富士見平の名に相応しい眺望だ 

 神戸の人が言ったように、富士山が紺碧の空に長く尾を引いて、正面に聳え立つその姿に圧倒された。山頂の雪は芦ノ湖で見たように強風が吹いて雪が舞い上がっていた。傍に芭蕉の碑が立っていたが、当日芭蕉は折角の富士を見ることが出来なかったらしい。
 旧東街道に出ると、又石畳が出てきたが、古いのと新しいのが混在していた。表面が平らだが、右足裏の痛みは治りそうも無く、我慢しながら下りの道を三島に向けて歩いたが、三島とくれば、「ノーエ節」。誰も通る人が居ない事を良いことに大きな声で、
 富士の白雪ゃノーエ、富士の白雪ゃノーエ、富士のさいさい白雪ゃ朝日に解けて、解けて流れてノーエ、解けて流れてノーエ、解けてさいさい、流れて三島に注ぐ、三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ、三島さいさい女郎衆はお化粧が長い、お化粧長けりゃノーエ、お化粧長けりゃノーエ、お化粧さいさい長けりゃ、娘島田、・・・カラス止まればノーエ・・
 少しでも足の痛みを和らげようと、終ることも無く、また富士の白雪ゃノーエに戻っては歌いながら、途中からアスファルトの道に出る。時折子供たちと会う程度で、車も滅多に通らない旧東海道の一本道を三島に向かって道を下る。
 間もなく国道1号線と合流したが、片側二車線は旧東海道を活かして作られ、所々松並木が見える。間もなく石畳が現れるが、これは市民のボランティアにより最近敷いた石畳だった。日本橋から117,8粁の標識を右折して間もなく、今夜の宿はアモーレ・アテルノ・リオと言う名の、見た目はセレモニーホールのような形式の建物だった。
 4時半、部屋に案内されたが、大きな部屋で、多分控え室のような造りだった。荷物をリュックから出した後、風呂に入ったが浴槽は大きくゆったりしていた。丹念に右足裏を揉んだが、痛みと痺れは相変わらず、明日が案じられる。
 風呂の戸が開いて、マネジャーが、「近所の人がイチョウの実を採りたい、と言っているが、庭に入れても差し支えないか」と聞いてきたので、「どうぞ」と言っておいた。
 湯船から上がって身体を洗いながら何気なく、鏡の向うに二人の男女が写っていたので、見るとも無く見ていると、二人は下を見ながら実を採っている様だが、時折、こちらの方を見るのには参った。それにしても、図々しいというか、何と言うか。実を採り終わるまで、風呂に入る訳には行かず、痛い足の裏を揉みながら二人が出て行くまでさすっていた。話の種には成ったが。
 風呂から上がり部屋で右足裏のマメは何時もの様に治療にしたが、どうもこの痛みは、四国遍路の際の痛みとは違う別な原因が有りそうだ。
 1階に降りて食堂で夕食を食べている時、10人ほどの作業員が見えたので女将さんに、「商売繁盛だね」と言うと、「さっぱりよ」とそっけなかったが、今日の料理も儲けが無いのか、既製品風な中身だった。
 部屋に戻りテレビのスイッチを入れると、佐呂間町の竜巻事故で9人が死亡し28人が負傷したことと、その他町内の多くの建物の損壊状況がテレビに写っていた。これから本格的な冬を迎えるのに大変だと思いながら、日記を付けるが足の痺れは中々取れず、足を揉んでは日記を付ける状況で、こんな時に限って今日の出来事は沢山あった。こちらも大変だ。
 寝る前に何時もの様に歯を磨いたが、肝心の洗面所が見当たらず、1階に降りても無いので、止むを得ず調理場の水道を使ったが、夕食の皿や茶碗はそのままの状態に成っていたのには参った。