吉原付近から見る富士は東海道で一番の眺めだ

8日(6日目) 水 20度 快晴 沼津宿(相模国) 原宿 吉原宿
                 23,6粁(136,5粁)
                 BHつるや(7,300円)
三島宿(三島大社の鳥居が見える) 

 朝食を食べた後精算し、7時25分、宿を出たが、朝の冷え込みがきついので、ウインドブレーカーを着込む。間もなく道路に面した大鳥居をくぐり三島大社に着く。
 この神社は源頼朝が源氏再興を祈願するため、100日蛭ヶ小島から日参したと伝えられる。境内には樹齢1200年のキンモクセイの巨木が右側にあったが、植えられる時代から判断すると、空海最澄が活躍していた頃の話だ。道中の安全を祈願し大鳥居から右に曲がると旧東海道に出る。
 旧東街道の両側は繁華街になって、早朝とあってゴミが歩道から溢れるように出ていた。かっての東海道の面影は全く見ることが出来ないが、世古本陣跡の石柱は残っていた。ビルの合間に快晴の空をバックに富士山が雪を被った秀麗な姿を見せていた。
 家は相変わらず途切れることも無く続いていた。足の痛みは段々酷くなる感じで、果たして吉原まで持つのか心配になってきた。間もなく復元された伏見一里塚が見える。国道1号線を横断し直進すると、間もなく広い道路に出る。大きなメガネの看板のある道を左に入ると、旧街道に出る。ふと右側を見ると、アスリートケア「のり整骨院」の看板が目に入った。一旦通り過ぎたが、「地獄に仏」とはこの事と、戻って整骨院に入った。
 9時、一人先客がいたが電気を掛けていたので、先生に健康保険証と免許証のコピーを見せると、「よろしいです」とのこと。先ず靴下を脱いで左足を見せると、治って来ているので問題は無いが、右足は可なり腫れているので治療すると言って、ゼリー状のシートを患部に貼り、その上から大き目のバンを貼ってくれた。心なしか痛みが和らいできた。料金は400円だった。シートとバンを貰って整骨院を出て直ぐ沼津警察署の裏口が見えた。
 県道380号線を歩いたが、今までの痛みが嘘のように消えているのに気が付き、これで東海道を歩き切れると思った。現金なもので歩くピッチも早くなり、県道を曲がって沼津市内の狩野川の脇に出て、本陣が有る筈の道を曲がり、商店街の人に、本陣の場所を聞いたがさっぱり要領が得ない。小田原同様本陣跡が無く、市でも確認出来ないようだ。
沼津宿(黄昏時の用心に天狗の面かな) 

 旧東海道に面して右側に鰻屋があったので、静岡に来て鰻を食べない訳には行かないので、「昼飯用の弁当を作って欲しい」と言うと、「焼き上がるのに5分ほど待って欲しい」とのこと。店のおばちゃん3人と雑談、「どちらから」の問いに、「日本橋から京都に行く途中だ」と伝えると、3人驚いて、「歩いているの?」と言うから、
「この通りリュックを背負っての旅で、今日で6日目だ。沼津は北海道から新婚旅行に来て以来だが、翌朝目覚めると千本松原の松並木があったのを覚えている思い出の土地だ」
「何時頃の話ですか」「昭和37年の話で今から45年前の話だ」「貴方の歳は」「74歳」と免許証のコピーを見せ、
「序に言うと四国八十八ヶ所歩き遍路を2度歩いているので、東海道の500粁は四国に較べると半分以下の距離だ」
 3人はコピーを見ながら信じられないようだった。「奥さんは元気ですか」の問いに、
「元気も元気、旦那は留守が良いと張り切っているのではないか」と大笑いして焼き上がった鰻弁当を手に店を出る際、「貴方は素晴らしい時を過ごしている」と手を振って送ってくれた。
 そこから原宿に向かう旧東海道はほぼ真っ直ぐな道で、松並木こそ無いが両側の民家はこじんまりして街道の風情が感じられた。足も順調で余り痛みは感じなくなっていた。
 12時15分、途中、原町のコンビニの前を通り掛ると、女性がテーブルの上で何かを食べているのが目に入ったので、ドアを開けて、「ここで食事しても構いませんか」と聞くと、「どうぞ」と思わぬ答えが返ってきた。何故なら四国遍路の際、コンビニ内での食事は断られ、外の駐車場で食べた経験があったから。熱いお茶を買って、テーブルに先ほどの鰻弁当を広げる。鰻の何とも言えない匂いが漂い、こちらに来て初めての鰻を堪能した。
原宿(この辺りから吉原に掛けての富士の眺めは素晴らしい)

 コンビニを出て間もなくJR東海道本線の踏切を渡ると、白隠禅師誕生の地があり、白隠が産湯に使った井戸が残されていた。この裏側に松陰寺があって、白隠が京都妙心寺の住職を辞め、この寺に戻った際は、諸国の大名は必ず訪ねたと言われるほどの名僧だった。我々には達磨大師を画いた僧として記憶にある。昔から駿河の人は、
  「駿河には過ぎたるものが二つある、一つは富士のお山に原の白隠
と自慢気に語ると言われる。
 近くに渡邉本陣の標識と渡邉家があったが、明治の中頃までは、山林を含む6600坪の土地と235坪の本陣の建物があったが、今は子孫が住んでいるのか同じ渡邉の表札があった。
 相変わらず一本道の旧東街道を進み、愛鷹浅間神社を通り過ぎ、JR東海道本線の踏切を渡る。間もなく松原が見えて来たので、左に曲がって松原を過ぎると海岸に出る手前の防潮堤を上ると、長大なコンクリートの防潮堤が延々と続き先がかすんでいた。
 左に伊豆半島から右に御前崎までの駿河湾を一望に見渡せ、海は晩秋の太陽を浴びて光り輝いていた。防潮堤の上にはサイクリングやウォーキングする人たちが夫々のスタイルで身体を動かしていた。
 これが11月の海か。この陽気と景色を出来ることなら北海道に持って行きたいものだ。吉原方面に大昭和製紙等の工場の煙突から煙が立ち昇っているのが見えた。松原越しの富士山は宝永火口をほぼ正面に見せ、完璧な稜線を雲一つない紺碧の空を背景に際立たせていた。久しぶりにカメラのシャッターを押し続ける。
松原と防潮堤は延々と遥か先まで続く 

 東海道本線越しに富士を右に見ながら歩いたが、この辺から見る富士が一番大きく、存在感を見せ付けているようだ。写真を撮るには線路の電線が入るので中々良い構図が少なく、この付近からの富士は撮らなかった。
 新幹線から見る吉原近くの富士が一番迫って見える。水といい景色といい、この付近の工場や人は富士山の天然の恵みの恩恵なしには語れないが、大昭和製紙の煙突の煙が無風のせいか富士の五合目辺りまで漂っていた。
 吉原駅手前の踏切を渡り線路に沿って歩き、橋を渡ると間もなく広い通りに出て、国道1号線と新幹線の高架をくぐり、大きな店が立ち並ぶ道をそのまま15分ほど真っ直ぐ進んだが、道を間違えたような気がしたので、カメラ店の人に聞くと、可なり遠回りしたようで、引き返すしか方法が無いとのこと。左富士を目指して、道を暫く戻って途中の信号を左に曲がる。
 尋ね尋ねて漸く、左富士に着いた。
 今までは常に富士を右に見てきたが、この左富士は広重の絵にもあるとおり、この地点からは富士が左側に見えるので、左富士と言われているが、現在は工場の建物に遮られて見ることは出来なかった。
昔は水量に応じて川筋も変わったので、果たしてこの場所かどうか・・・ 

 小さな川に、「平家越え」の標識のある橋に着く。かって、この付近で源平の軍勢が対峙している時、平家の軍勢が水鳥の羽音に驚いて、源氏が攻めて来たと勘違いして敗走したと伝えられる場所だ。橋を渡り真っ直ぐ進むと、吉原本町駅の踏切を渡ると商店街があり、4時半、今夜の宿、BHつるやに着いた。
 ビジネスホテルながら、二階は居酒屋で夕食も出し、部屋に風呂は有るが、大風呂を使えるので便利だ。早速荷物を解いて、一階にある洗濯機に洗濯物を入れてから大風呂に入る。右足裏の痛みは大分取れたが、腫れた状態のままだったので、何れは痛みが再発する予感がしたので、丹念に足の裏を揉む。
 洗濯物を乾燥機に入れて部屋に戻る。足の裏は皮が破れた状態なのでその上から整骨院で貰ったシールを貼る。
 浴衣に着替えて二階で夕食を食べたが居酒屋だけに、おでんの盛り合わせと鯵の刺身を貰い、ジョッキーを呑んだ後、一先ず足の心配が薄れたので銚子を1本追加し、野菜不足なのでサラダを貰う。テレビを見ていると、米国下院の選挙で与党の共和党民主党に敗れ、国民にイラク問題に就いて、ノーを突きつけられた結果となった。
 精算してから洗濯物を持って部屋に戻る。
 今日の日記も内容が濃く10時近くまで掛った。明日も快晴のようだ。