薩埵峠から見る広重の描いた画と現在の写真を見比べるのも興が

9日(7日目) 木 20度 快晴 蒲原(かんばら)宿 由比宿 興津宿 江尻宿(静岡市清水区
                 28,4粁(164,9粁)
                 旅館しのぶ(6,900円)
 ホテルの窓を開けると今朝も快晴だった。二階で朝食を食べた後、冷え込みがきついのでウインドブレーカーを着て、7時25分、ビジネスホテルを出る。静岡銀行角に吉原宿の案内板があり、方向的に疑問を持ちながら歩いたが、間違っているように思えたので、通り掛りの人に聞いたが、要領を得ないまま暫く先へ進むが、間違っているような感じがしたので、引き返しながら、通行人に聞いたところ、詳しく教えてもらう。
吉原宿(左側に富士山のような山容が見えるが実際は目の前に迫って見える)

 四軒橋と富安橋を渡ると右側の民家の塀に食い込まれるような形で「袂の塞神(たもとのさえのかみ)」と言われる道祖神に似た石像が現れ、良く見るとモアイ像の様な表情をして鎮座していた。 富士山は雲一つない青空に端麗な姿を見せていた。この地の人達にしては毎日のことゆえ、札幌の人が藻岩山を見るようなものだろうが、特に北海道の人には蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山があるが、「富士は日本一の山」と歌にあるとおり、不二とも書くように素晴らしい。
 大通りの交差点に花屋があったので、旧東海道の道を尋ねたところ、道路を挟んだ向い側に入る道を教えてもらうと、「富士川橋の手前に、水神の杜があり、そこの堤防から見る富士が一番素晴らしい」と教えてくれたので、礼を述べて向かい側の旧東海道の道を歩く。
 身延線柚木駅の高架をくぐり、道路工事をしていた付近に常夜灯があり、その先に、「水神の杜」が有った。富士川は元々暴れ川で多くの災害を齎したらしい。ウォーキングしている中年の人が親切にも案内してくれた。薄暗い木々の先の小さなお宮を曲がり堤防に出たのは9時15分だった。
富士川堤防からの富士山の宝永火口も随分右に見える

 「ここから見る富士は女性的で一番だ」と、おらが富士を自慢していたが、成るほど、少し山頂付近が右に流れている感じが女性的と言われればその通りだった。目も前に桜並木があり、右には松が枝を張っている。満開の桜の向うに見える富士は素晴らしい被写体に成るなと思いながら、晩秋の富士山にシャッターを切る。
 富士川の鉄橋も結構長かった。渡り切って直ぐ河原に降りて、河原からススキを1本入れて、富士川越しに富士山を写す。信号を渡ると土地の老人が居たので、岩淵宿の本陣の場所を聞くと、
「直ぐ横の坂道を登り道なりに歩くと本陣がある」と話してくれ、序に「昔この川を渡るのは大変だったのではないか」と尋ねると、「この川は全国で三番目に入る暴れ川だった」と話していた。
岩淵の堂々たる貫禄の榎の一里塚

 言われたとおり坂道を登ると、黒塀に囲まれた、本陣の建物が有ったが、今は建て替えられて住宅になっていた。間もなくカーブに差し掛かると岩淵の一里塚が見えてきた。道の両側にある一里塚は珍しく、特に右側の榎は樹齢400年物だった。
 富士川駅に出て旧東海道の入る立て看板を見て、坂道を登ると高速道路があったのでその下をくぐる。この辺りは秋葉山の銘が入った常夜灯が目に付いた。新幹線の下をくぐると、明治天皇が休憩した石碑の前を通り、高速道路の上の橋を渡ると下り坂になり日経金蒲原工場が正面にあった。蒲原工場の発電機に流す水圧鉄管が何本も目に入ったが、今でもアルミ精錬をしているのか。
蒲原宿(冬景色の画も珍しいがこの辺はこの様な雪が降るのかな) 

 11時蒲原宿に着く。元の蒲原宿はJRの線路の向うに有ったが、約300年前の地震で宿場は壊滅状態となり現在地に移ったので、宿場の形態を残す町並みが今でも色濃く残ったようだ。道路はカラフルな洒落たアスファルト舗装がしてあったが、道の両側には老人の屯しているのが目に付く。 
 本陣跡の傍に、NHK「テクテクの旅」に登場した150年前に立てられた志田邸(元和泉屋)があり中を見せてもらったが、柱も梁も立派な材料が使われ、階段の段差を利用した箱階段は見応えがあった。明治時代の磯部家の二階の窓ガラスは手作りで、下から見ると多少波打っているように見えた。大正時代の五十嵐歯科医院は当時としては外壁をペンキで塗った総二階の建物で、今は資料館として活用されていた。
 西木戸跡に出て東海道本線に沿った旧東海道を由比に向けて単調な道を歩くと、11時50分、蒲原駅に着く。お茶を買い椅子に座って休憩する。
由比宿(広重の描いた薩埵(さつた)峠からの富士が一番だ) 

 駅を出て間もなく高速道路をくぐり、左の道を進むと由比一里塚があり、その先の由比本陣跡は広重博物館になっていた。
 12時25分中に入ると広重の浮世絵は勿論のこと、浮世絵の作り方や旧東海道の歴史が一目で判るように展示されていた。由比正雪の事件に関する資料が無かったのが不思議だ。ロビーに簡易食堂があったので、中華そばを頼むと中身に小さな海老が入っていた。食事を終えて外に出ると、向いが軍学者由比正雪の生家で、正雪紺屋の暖簾が下がっていた。
 由比の町に入る前から、桜海老の幟や看板が立ち並んでいた。市内に入ると桜海老を売っている店が多く目に入った。3センチほどの小さな海老で、先ほど広重博物館で食べた中華そばの海老がこの桜海老と判った。
 薩埵峠への道は段々急な坂道となり、四十番目の一里塚を過ぎて、途中山側にミカンが植えられていたのを見て、たわわに実った中の一つを失敬して口に入れたところ、完熟のミカンの味が口一杯に広がってきた。この味が四国でも食べたミカンの味だった。
現在の薩埵峠、富士山こそ変わらないが、東海道線国道1号線等には広重もビックリ

 12時10分薩埵峠に着いた。正面に由比市内の町並みの彼方に、富士山は山頂がやや丸みをおびた形を見せていた。早速カメラのシャッターを切っていると向うから人が来たので、「ここが薩埵峠ですか」と聞くと、「ここ全体が峠だが、駐車場の向うに良い場所がある」と教えてくれた。道理で景色が今一つ冴えないと思ったのは写す場所が違っていたようだ。
 駐車場を越えると三脚を立ててカメラを構えている人が三人居た。確かに広重が画いた場所そのもので、下を見ると東海道本線と国道1号線に東名高速が走っていたのを見て、観光用のポスターで見た風景がここだったのかと納得した。まさにベストポジションだった。広重が現在のこの情景を見たら何と思うかと、勝手に思いながらシャッターを切る。朝方見た富士はすっきりしていたが、距離も大分離れていることや、陽射しがやや翳って来たせいもあって、コントラストは薄れてきた。 三人の内の一人は、
「自分は東京で富士の見えるところに住んでいるが、昨日の富士を見て今日車で来たが、昨日来ていると凄い写真が出来たのに」
と残念がっていた。
 薩埵峠を下り興津宿に向ったが、麓の道が作り変えられていたので、一時道に迷ったが何とか興津の町に着いた。街の中程にお焼屋があったので2個注文し食べているところに、「ここのお焼は名物だから」と言って、10個買っていった客がいた。たかがお焼、されどお焼か。
興津宿(沖の帆は魚を獲っているのかな) 

 本陣跡の標識を写し、家康が幼少の頃生活していた、古刹清見寺を見たかったが、夕方近くだったので見るのを諦め、西園寺公望(明治の元老で時の天皇に総理を12人推薦した)の元別荘坐漁荘を写して、江尻宿(現在静岡市清水区)に向かう。
 高架の下をくぐり清水区に入って間もなく携帯電話が鳴り、宿の女将から、「今何処にいるの」の問いに、「後10分ほどで着く」と伝えると間もなく、「清水区まで2km」の標識があった。平成の大合併静岡市清水区と成った。
 暗くなってきたので時計を見ると5時を過ぎていた。西友のネオンが見えたので、清水駅に向かい、駅前の商店街を歩いている人に、今夜の宿「しのぶ旅館」の場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。宿に着いたのは5時半を回っていた。
 二階の部屋に通され、荷物を解いてから、風呂に入り右足裏を丹念に揉んだが、今のところ三島から沼津に掛けての痛みは無いので安心だ。
 一階の居間で夕食を食べたが、客は一人で常連の様だった。女将から東海道の話が出たので、
「3日、日本橋を出て今日で7日目だが、今日は吉原から来たので約30粁近く歩いた」
と話すと、客も女将も驚いていた。客が、「失礼ですがお歳は幾つですか」「74歳です」と返事するとまたまた驚き、「私より6歳も上だ。実は私より下と思った」何時もの様な話が出たが、悪い気はしないので、「健康だけが取得で」と言うと、
「健康で自分の好きなことが出来る貴方は素晴らしい人生を送っている、話の種にさせて貰います」と穴があったら入りたい位の誉め言葉だったが、女将も同感の気持ちを持っていたようだ。
 部屋に戻りエアコンを20度に設定して、日記を書いていると、女将が蒲団を敷きに来たので、夏蒲団を頼むと、「エッ、夏蒲団」と驚いているので、
「我が家ではこちらに来るまで夏蒲団で寝ていた」と話すと、別な部屋から新しいカバーの夏蒲団を持って来てくれ、
「1日30粁も歩く人は違いますね、主人は普通の蒲団に毛布を掛けて寝ているが」
と感心していた。女将さんに、
「清水と言えば次郎長、次郎長の生家が有ると聞いたので教えて欲しい」と伝えると、「明日朝、主人に教えてもらいなさい」と言ってくれた。今日は少し歩きすぎたので明日の宿を24粁先の岡部宿の宿を女将さんに頼むと、三軒の宿を教えてくれた。
 日記を書いている内に眠気を催したので、日記は途中で止め、エアコンを12度に設定し、歯を磨いて蒲団に潜り込んだが、新しい蒲団は軽く気持ちよかった。