恐れていた足の指先がむくんで来た

31日(7日目) 日 曇り夕方雷雨 18℃ 34,9km(171,7km) 初めて30km台歩く
山茶花―二十二番平等寺―二十三番薬王寺牟岐町(むぎちょう)民宿あづま 7300円
 6時、朝食を三人で食べながらお互いを紹介し、二人とも奈良県出身で何処へ行くにも二人で出かける仲だそうで、こちらを北海道と知って、白髪交じりの66歳のお婆ちゃん?が言うには、利尻山を登る時、船から上がって海面に手を付けて、
「ここから海抜ゼロで約2千米登るのよ」
と利尻ならではの醍醐味を感じたようだ。その後大雪山の旭岳とトムラウシ山を登った話を聞きながら、顔を良く見るとしわも相当なもので、化粧気がない顔付きは山女の面目躍如足るものがあった。それにしても初めは50前後位に見えたが、我ながら女を見る目がないことを悟った。今一人はメガネを掛けたおばちゃんは如何にもスタミナが有るように感じられたが、納め札には年齢は書いてなかったが10歳位若い模様だ。食べ終わると彼女らは直ぐ宿を出て行った。
6時40分、雨の心配もないので半袖シャツに白衣を着て隣の平等寺に参詣した際、猫が近寄って何かをねだっている様なので、カンパンを投げ与えると、口に入れて噛みだしたのを見て余程腹が減ったものと思う。「猫にカンパン」は余り聞いたことはないが。朝の遍路道と言っても車道だが、平坦で歩きやすかった。分岐点で彼女らに追い付き、一緒に国道55号線を直進すると、彼女らは「随分速いのね」と、彼女らとの距離は益々広がった。国道の里程標を参考に平地でのタイムを計ると至って快調で、1キロ11分(時速5,45キロ)のペースだった。この国道は室戸岬に通じる幹線道路だが、この辺まで来ると車の流れも少なく、多少のアップダウンはあるが歩きやすかった。それにMKドクターの治療法が効いて、足裏のマメの痛みも治まったのが結果として速いペースとなったようだ。
下り坂に差し掛かると向こうから自転車を重そうに引いてくる、逆打ち風の老人と出会ったので、声を掛けると、
「自分は自動車で80回遍路の旅をしているが、その後自転車に切り替えて28回目の旅で、今回108回目で年齢は68歳、野宿専門で蒲団にくるまって寝たのは今年は1回だけだ」
彼から錦の納め札を頂戴し、裏を見ると高野山霊場巡拝は51回、写経は1000枚達成、写仏401枚目と書いてあった。真偽の程は別にしても凄い人が居るものだと、写真を撮らせてもらう。
暫くしてまた下り道の向こうから、荷台に荷物を積んだ自転車を引いて20代前半の若者の姿が見えたので声を掛けると、
「とにかく自転車の下りは楽だが、登りはきつく歩いた方が楽だ、おじさんは何処から来たの」
「北海道」と答えると、
「北海道は寒いところでしょう、今頃は雪が降っているのか」
 等と話していると、同じく自転車を引いた、山出しの猿のような黒い顔付の女の人が追い付いて来たので、
「貴方たちは夫婦か」と聞いたところ「夫婦ではない」との返事だったので、
「夫婦みたいなものだろう」と、冷やかすと「マーそれみたいなものだ」と笑いながら話してくれた。二人は適当な場所を探しては野宿しながら行けるところまで行く、と言っていたが二人とも殆ど風呂に入って居ないように見えた。色々な人生があるものだが、あの若さで何を求めて自転車行脚を続けているのか。
 今日は少し頑張り過ぎたのか、足の指先が痛み出したので、丁度自販機があったのでアクエリアスを買い、そこで靴を脱いで、裸足のまま空気に曝し、バンを貼り換えマッサージを繰り返す。前回の経験を参考に空気に足を曝し、マッサージすることの良さを覚えたが、今日もそれを実践する。
 間もなくドライブイン海賊船を通り越し国道55線を左折して、北河内川に沿って歩く。
厄除け橋から日和佐城を望む

田井ノ浜との交差点を進むと日和佐の町に入る。橋の上から左側の日和佐城を、右側には薬王寺を写す。
薬王寺から室戸岬までは75キロ

薬王寺の門前通りでは活きの良い魚が売られていたが、偶には活きの良い刺身を食べたいものだと、横目で見ながら信号を渡る。
 11時10分、薬王寺に着く。平等寺から約20キロ、自販機の傍で休んだ程度だったので、読経と納経を終えて、会館風の建物の二階に食堂があったので小上りに荷物を卸して天丼を注文する。ここは団体客が多く来るような雰囲気だが、幸い今日は貸切みたいなもので、テーブルに地図等を載せて天丼を食べる。後、15キロほど歩くと牟岐町に行けるとの読みから、前回泊った民宿あづまに電話し、
「北海道のKです」と言うと女将さんが「今何処に居るの」と、
「今薬王寺に居るが、ここから15キロほどあるが何とか夕方近くになると思うが部屋を頼む」
 と伝える。前回泊った際、義父と女将の夫の供養をして、後に小誌「四国八十八ヶ所歩き遍路の旅日記」を贈ったところ、折り返しの電話で涙交じりにお礼の言葉を聞いたこともあって、久しぶりの邂逅が楽しみだ。今回も27日藤井寺で供養してきたので喜ぶことだろう。
 MY氏に電話すると、ここから10キロ手前の食堂で昼飯を食べているとのこと、彼も頑張っているようだが、足の爪はどうなったのか。
 12時10分、この先室戸岬最御崎寺(ほつみさきじ)までの75キロは寺もなく、只ひたすら歩くのみの単調な旅が続く。荷物を背負って食堂を出て間もなく、国道55号線の牟岐線跨線橋を渡ると国道と線路が平行して歩く形になる。平等寺から薬王寺の間、頑張り過ぎたツケが左足に来たのか、新しいマメが出来たようなので、道端に座り込んで左足裏のマメの上に、一時しのぎだが暫くマッサージをしながら空気に曝しバンを貼る。前回もこの道で足の裏が傷み、一時足の五本指を立てるような形で、傷口の負担を少なくしながら歩いた記憶がよみがえる。痛みが治まるまで半月以上掛るものと諦めながら牟岐町目指して南下する。薬王寺までのペースと違って、30キロ近くなると遅くなっているのが自分でも判るが、何とか足の裏の痛みをカバーしながら歩く。4時前と言うのに空は段々暗さを増して一雨が来そうな気配が漂ってきた。牟岐大橋を渡り牟岐町に入ったが、簡単には35キロを歩かせてくれないことを思い知った。薬局でバンを買って、民宿と言っても夕方からは居酒屋に変身するが、あづまの50米ほど手前から突如猛烈な夕立に見舞われたので、足の痛みも忘れて夢中で店に飛び込んだ。
 4時、女将は待っていたらしくドアを開けると、「Kさん」と手を握り再会を喜んだ。先客はMK氏と判り二階に上がると隣の部屋で、何度目かの再会だった。早速洗濯機にシャツ類を入れて風呂に入り、今日一日の疲れをほごす。足の裏を見るとマメが出来て水ぶくれの状態だったので、周囲を丹念に揉みながら35キロ歩いた足を労わる。
 風呂から上がり一階の居酒屋の小上りでMK氏と二人でビールで乾杯、昨日から今日に掛けた一日の動きの話をする。その内女将も加わり、4年前と今回の記入した義父と旦那の納経帖を見せたりしていると、突然雷が鳴り停電で真っ暗になった。居合わせた三人の客が、
「ママろーそくが無いか」と言っているうちに電気が点いたので、女将は客のところに行った。MK氏と二人で話しているところに、酒を差し入れてくれた客の一人が、声で判ったが婆さんで、80歳で見た目は男同然で、風呂屋で女風呂に入ると、番台に男風呂に入るよう注意された、など、面白い話が出て大笑いした。24歳で二人の子供を引き取って主人と別れ、飯場などを点々とした生活で、かっては毎日5合から一升酒を呑んでいたが、子供たちも良く耐えてくれ、今は孫も居て、一緒に暮らすよう話があるが、出来るだけ一人の生活を続ける積りと話していた。男客の一人は亡くなった女将の旦那の友達で、一人はその友達の友達で、女将に対して二人は不可侵条約?を結んでいるとかで、時にはママと徳島寄りの日和佐まで電車で酒を呑みに行くが、必ず二人が同行するとかで良い意味の緊張関係を保っているようだ。女将も見た目は50代だが実際は67歳ながら肌も艶々していたので、若さの秘訣を聞くと、
「松下何とか?ルーティンと言うサプリメントを常用しているせいで、市販されておらず、講のような組織に入会を認められて初めて買えるので、誰でも買える訳ではない」
 と話していた。その後3人の客も夫々店を出て行ったので、我々も二階に上がる際、ママから明日の宿のことを聞かれたので、「手配していない」と答えると、
東洋大師の住職から頼まれているが、三千円で食事はないが風呂はある」
と聞いたので二人分手配してもらうことにした。
部屋でMK氏に足の裏を見せたところ、
「良く水分を絞っていないので再発したが、痛いのを我慢し徹底的に水分を絞らないと駄目だ」
と言われたので早速言われた通り、痛いのを我慢し徹底的に水分を搾り出してから、今日買った大き目のバンを貼る。今日はさすが疲れたのと酒の酔いもあって日記は明日に持ち越した。蒲団に入って明日の宿はどんな寺なのだろうかと、半ば不安な気も感じながら何時の間にか寝入ってしまった。