春の遍路で旅の証に全ての山門を撮る積りだったが三箇所撮りそこねた

17日(23日目) 水 晴れ 17℃ 24,0km(661,4km) 龍光寺でMY氏と会う
金龍荘―四十一番龍光寺―四十二番佛木寺(ぶつもくじ)―愛媛県歴史文化博物館―四十三番明石寺(めいせきじ)―宇和町宇和パークホテル 7140円
 朝食後宿代を払う際、ビールを呑んでの5300円は安かった。7時20分、宿を出て三間街道に出ると車が引っ切り無しに通る。右手の川の向うに予讃線の線路が見える緩やかな登りが続く。手が冷えてきたのでリュックから手袋を取り出す。上から自転車に乗った高校生が手袋無しで来たのを見て、その若さに羨ましさを感じたが、学校からの帰途は、逆に登り道だけに大変だ等を考えながら登ること1時間10分ほどで切り通しに出る。急に視界が開け、道の両側には朝日を受けて金色の刈り取った後の稲穂が風に揺れて波打っていた。
この道は龍光寺の参道のような感じの道で、その先に鳥居が見えて来た。8時55分、階段を上がると目の前にMY氏(51名山男)が居た。彼の話によると宇和島を朝早く出たとのこと、足摺岬で別れて以来の再会だ。故KK(祖母)故KT(元室蘭カトリック教会神父)の供養を済ませて納経を終えた後、駐車場で遍路道の近道を教えてもらったので、墓地の脇を二人でその道を登る。確かに近道で程なく佛木寺が見えて来た。
9時55分、佛木寺に着いた。前回庫裏の石段に腰掛けて足の裏を揉んだ記憶が甦ったが、今回は民宿安宿の親父のアドバイスが効いたのか、足の痛みは減ってきたようだ。道を挟んでの売店は店を閉じていた。遍路も少なくなってきたので商売に成らないのか。
歯長峠はKKさんのメールによると遍路道より車道の方が良いと有ったが、遍路道を登り、途中道路工事をしていたが、そこを横断などして急な道の峠を目指す。51名山男は南米ボリビアのラパス(富士山並みの高所)に居たせいか、酸素を必要とする登りには滅法強いので付いて行くのも大変だ。車道に出るとトンネルは直ぐだった。高度400米のトンネルは涼風が吹き抜けて、今までの汗は一気に何処かに吹っ飛んでしまった。トンネルを出て直ぐ左側の遍路道を一気に下る。車道に出て歯長橋を渡り左折して明石寺に向かう道に出る。
民宿みやこ(食堂兼務)に着いたのは丁度12時だった。彼は握り飯を持ってきたので別れる。小上がりに荷物を置いて焼肉定食を注文する。昼飯時間で客はほぼ満席の状態で亭主も忙しそうだった。前回亭主から45番から44番に向う逆ルートを聞いて、それに従ったことを思い出しながら、焼肉定食を食べる。1時近くになると客は二人だけになった。明後日の予定を立てた後、1時10分、食堂を出て間もなく旧街道を進む。
館内に陳列された村上水軍の軍船模型

丘の上に巨大な愛媛県歴史文化博物館が見えた。前回見る時間が無かったので、先に博物館に向かう道を選択したが、車道は可なりきつく、見物者はここを登って来るのは大変なことと思いながら、何故こんな田舎に博物館を作ったのか疑問を感じながら汗を流す。駐車場には観光バスが1台と、マイカーが数台駐車していただけだった。受付に荷物を預けた際、65歳以上は無料とのこと早速恩恵に浴する。博物館の中はゆったり取った空間の中に、愛媛の夜明けから現代に至る歴史の変遷が展示物で一目瞭然判るように設置されて、我々のような地元以外の門外漢にも非常に勉強になった。村上水軍の模型の船が展示されていたが、実物の大きさは相当なものと思う。博物館を出て明石寺(H370米)に着いたのは2時40分だった。駐車場には遍路バスが数台駐車してあった。
前回撮りそこなった明石寺山門

本堂前では何時もの風景ながら、バスツアーの大勢の遍路が先達の読経に合わせて、般若心経を唱和している姿を見る。心の中で、KKさんの持論、「歩いてこそ遍路」の言葉を思い出す。売店で残り少なくなってきたローソクと線香を買い求め、左側の遍路道を下って卯之町の商店街を通ると、田舎にしては中々洒落た店が並び、和菓子屋で大きなドラ焼2個買って1個を店内で食べる。国道に沿った旧街道を歩き、一旦国道で合流すると、また旧街道を通ると間もなく、3時40分、今夜の宿宇和パークホテルに着いた。(今日中途半端な距離の理由は、この先17キロほど先の大洲市にしか宿が無い)
前金を払い部屋に案内されると、隣がMY氏の部屋だったので、5時半頃を食事に行くことにした。洗濯機にスイッチを入れて、一先ず風呂に入る。サウナが有ったが疲れるので止めて、細長い浴槽に身を委ねたが、湯がぬるいので湯を出しながら足でかみ混ぜながら身体を温める。今日は24キロと久しぶりにペースを落としたせいか、足の痛みは無かった。
彼と一緒に食堂でバイキング料理を食べたが、断酒の彼には悪いが大ジョッキーを片手に、何時もの民宿の料理とは比べ物にならない品数と味を堪能した。食堂を出るまで客は数人のみで、皿に盛られた料理のことを気にしながら食堂を出た。昭和一桁の人間には、ひもじい時期を過ごしただけに、余ったものの行方が気に成ってしょうがない。
部屋に戻り日記を書いていると、近所のTRさんからメールが届いたので、早速返信すると、折り返し電話が入り、19日には松山に入る予定を伝えると、奥さんが我が家でカミさんと5時過ぎまで雑談して来たと話していた。思えばこの数日我が家に電話してないので、近況を聞いたが別に問題はないとのこと。当然だ。明日は朝から雨模様との予報だった。