晩秋の終日降り続いた雨は一番身体にこたえる

18日(24日目) 木 雨 17℃ 36,4km(697,8km) ノーベル賞大江健三郎生家
宇和パークホテル―大洲市十夜ヶ橋(とーやがばし)―内子町―大瀬村―内子町大瀬民宿来楽苦(きらく?) 5400円
 朝から雨模様、6時55分、MY氏と完全装備で裏口から出て、向かいのサンクスで握り飯とお茶を買う。序にビニール袋を貰い、靴紐の所から水が入るので、靴の上から袋が外れないように足首を縛った不様な恰好を見て、彼も笑い出したがこっちは真剣そのものだ。如何にも無様な恰好悪いこと甚だしいが、水が入る事を考えると恰好は二の次だ。国道56号線と並行した道を主に進むが、雨は止む気配は無かったが、風が無いのが何よりだった。道は段々登りに差し掛かる。国道に出ると大型トラックやバスが引っ切り無しに水飛沫を浴びせる中、左手で菅笠を押さえ右手に杖を持って先へ進む。
 登りも急になり、間もなく宇和町大洲市との境にある鳥坂峠下の鳥坂トンネル(H270米)を抜けると、大洲市に向けて下り道となる。間もなく、前回下から重そうに自転車を引いて上がって来る人が、全国県庁所在地を回る旅をしているUTさんで、その後夫々お互いの本を交換したことを思い出す。防水用のビニール袋も何時しかぼろぼろに成ったので両方共靴から外す。それにしても、たかがビニール袋が10キロ以上持ったのには驚いた。
 高速道路の下を通り、大洲市に入る手前の肱川堤防に沿って、10時30分、橋のたもとに着き、右折して肱川大橋を渡る途中から左手に大洲城が雨に煙って見えて来た。大洲と言えばNHK朝ドラの元祖「おはなはん」の舞台で、見たのは今から40年ほど前の話だが、主演の樫山文枝のお茶目で可憐な姿が頭から離れない。前回この橋のたもとで高校生二人に、
「当時の大洲の町はのんびりしているように思うが、貴方達は如何か」
「そう言えばのんびりしているな」
 あれから4年半、学生は今のんびりどころか世の中の厳しさを味わっているかもしれない、と思いながら橋を渡り切りそのまま真っ直ぐ国道を進む。暫く進むと両側にスーパーや大型電気店にショッピングセンターなどが出現しているのには驚いた。大洲ものんびりしていなかった。
十夜ヶ橋下の大師涅槃像には何時も花が供えられている
 
依然雨が降り続いている十夜ヶ橋に着いたのは11時10分。お大師様はこの橋の下で一夜を過ごしたが、余りの寒さに一夜が十夜に感じたことからこの名前が付けられた、と言われている。遍路では橋の上で杖を使わない暗黙のルールがあるのは、お大師様をゆっくり休ませようとの、この故事から来ている。今はこの橋を通る国道56号線の上に、更に高速道路が跨いで、杖の音どころか、車の騒音と排気ガス弘法大師もうかうか寝てなど居られない。彼も私の説明を聞きながらお大師様の涅槃像をビデオに収めていた。
 橋から歩いて直ぐのところにあった喫茶店に入り、雨に濡れたリュックや合羽を脱ぎ、濡れた靴下を脱いで裸足になって、モーニングセットを注文する。民宿の料理ばかり食べていると、コーヒーにトーストは何時も文化的?な雰囲気に浸れる貴重な食事だ。二人でコーヒーを追加(サービス)し、小一時間の時を過ごして、再び合羽を着込み、靴下を取り替えて内子町を目指す。
 これまで20キロほど歩いたが、今夜の宿までは未だ17キロを歩かなければ成らないので、先を急ぐ。前回工事中だった高速道路も既に完成して、五十崎(いかざき)IC先の高速道路の下を通り内子町に入る。
内子町も全国的な江戸情緒復活ムードで観光スポットになった
 
内子町は江戸時代から続く町並み保存で成功した町で、今は既に少なくなった和ローソクの製造現場を見ることも出来る。生憎雨模様で観光客も少なく古い町並みも雨に濡れていた。彼は一度観光で来たので詳しかった。
 再び国道に出て小田、久万町方面に行く道を、前回間違って松山方面の道を歩いて10分ほどロスしたので今度は慎重に方向を確認する。頭上はるかな高速道路の下を通り小田川に沿った国道379号線を暫く歩くと、無料遍路宿があり中を覗くと、とても泊れるような状態ではなかった。
 道路標識の地名はまだ内子町に成っているのは、最近の市町村合併のためと判った。内子町大瀬に入りガソリンスタンドで今夜の宿までの時間を聞くと、30分ほどとのこと。二人俄然元気が湧いてきた。
山深い村から生まれたノーベル文学賞大江健三郎生家

村の中心部にノーベル賞作家の大江健三郎の生家があったのでカメラに収めたが、家の中には明かりが点いていた。辺りは大分暗くなってきたので、雑貨屋の人に宿までの時間を聞くと、「約1キロ先」の返事を聞いたが、雨で日暮れが一層早くなって気が焦る。間もなく千人宿大師堂が見えて来たので、後は僅かな筈だ。向うに集落の明かりが見えたので注意しながら宿を探すと表札の最後の「苦」の字が漸く読み取れたので宿と判ったほど辺りは暗かった。
 宇和パークホテルを出て約10時間後の5時15分、漸く宿に着いた。部屋の入ったが暖房が無いので、雨に濡れた合羽は窓の下にぶら下げ、靴には新聞紙を詰めて、荷物を部屋の中に広げる。それにしても雨中の36キロは長かった。
 風呂は冷えた身体には何よりのお接待だ。野宿する遍路はこのような贅沢は味わえないので、一人湯に漬かって申し訳ない気に成った。雨に濡れた足を丹念の揉みほごす。足の裏のマメは大分良くなってきたが、左足の人差し指と、右足人差し指、中指、薬指の4本の指先の爪は一部剥がれかかっていたが、夫々テーピングをしたので痛みは大分薄らいできた。
 風呂から上がると食事の準備が出来ていた。今晩は我々の外、43歳と38歳のリストラ組の二人で、豆腐を中心とした料理はあっさりしていたが何か物足りなかった。宿を申し込む際電話に出た奥さんの姿は全く見えず、宿の亭主一人で切り回している感じだった。亭主の話によると料理一切は自分がする事に成っていると話していたが、可笑しな夫婦も有るものだ。亭主と明日の大宝寺への道筋を相談した結果、MY氏と相談し健脚向きの鴇田(ひわた)峠(H790米)越えに決める。二人のリストラ組を交えて遍路の話が話題となり、最近大阪辺りからホームレスが四国、特に香川県に入って遍路姿でお接待をねだったり、托鉢姿に身をやつして門前でお金を恵んでくれるのを待つ姿が目立つと話していた。また我々のような遍路は、四国の一部の人から見ると、遍路貴族の別名で呼ばれているようだ。毎日宿に泊って風呂に入り、浴後ビールを呑み、温かいご飯を食べる姿を羨む人から見ると、そのように見られても仕方がない。
 部屋に戻り寒いので石油ストーブに火を点けようとしたが肝心の油が無かった。明日の宿を民宿和佐路に二人分申し込む。彼の部屋はストーブがあって温かかったので、彼からドライヤーを借りて一足分の靴下を乾かした後、寒い部屋で日記を付ける気も起きないので早々と蒲団にもぐりこんだ。雨の一日36キロは身にこたえる。阿瀬比町の遍路休憩所で寝ていた76歳の老婆は今頃何処で休んでいるのかと思いながら、遍路貴族の有り難さを実感しつつ何時しか寝込んでしまった。