久万町は四国で一番の山林に恵まれた山また山の中だ

19日(25日目) 金 曇り 18℃ 30,2km(728,0km) 鴇田峠越えは価千金
来楽苦―鴇田峠(ひわたとうげ)―久万(くま)町―四十四番大宝寺(だいほうじ)―久万高原町民宿和佐路(わさじ) 6500円
 昨日終日降り続いた雨は上がったので、合羽をリュックに詰める。亭主の話によると、鴇田峠越えは健脚で5時間で久万町に着くと言っていた。宿代5400円は安かったが、寒い上、料理も良くないので先ず先ずと言ったところか。
7時5分、MY氏と二人で宿を出たが、女将さんは遂に出てこなかった。如何なっているのか。
 宿を出て直ぐの突合を左に曲がるコースを取る。前回は45番から44番への逆打ちをしたので右に回った。吉野川に沿った松山に通じる国道379号線は緩やかな登りで、山中にしては立派な道だった。両側には杉が植林されていた。途中、正月用の門松が大量に作られ、束になって積み重ねてあったが、ここの門松は品質も良く売れ残ることは無い、と作業員は自慢げに話していた。
国道から県道42号線に入った途端、道幅は狭く勾配はきつくアスファルトも荒れて、間違いなく過疎に入ったことを痛感させられる。途中散見される家も古く、今にも壊れそうな建物で暮らしているのを見て、ここを出るにも出られない事情を考えると暗澹たる気持ちになる。それでもこの山中に相応しくない神社などがあって、神頼みの生活を垣間見ることが出来る。道は益々狭まり急勾配と急カーブが続く。県道から遍路道に入ると急な坂が頭上に被さって来るような錯覚を覚える。左足首に軽い痛みが走ったので、リュックを下ろしてサロンパスを吹き付けると痛みが引いていくのが判った。一旦県道に出て直ぐ遍路道に入る。ここから鴇田峠までの高さで290米を登る道は、流石の51名山男共々息を弾ませては休みの連続だった。11時25分、標高790米の鴇田峠に着く。二人でお茶を飲んで喉の渇きと疲れを癒しながら、峠の由来を書いた看板を見る。
登った者だけが知る峠越えの辛さだったが、昔の人の労苦を思い知らされた

昔は小田町から久万町に抜けるにはこの峠を越えなければ成らなかったのを考えるに、恵まれた現代に生まれて良かったと両方の町の人は思っているに違いない。ここからは久万町へは一気に急な坂道を下るだけに、先程までのきつい登りが嘘のように足取りも軽く、11時55分、久万町に着いたが、亭主の言ったより少し早く5時間を切って、健脚の仲間入りを果たすことが出来た。昼時とあって何軒も無い食堂はどこも満員で、止む無く町内を行ったり来たりしながら、空いている食堂を探す。漸く見付けた食堂は中華料理店だったが、何でも屋といった感じだった。ラーメンを注文すると、彼は何故か宿の亭主が握り飯を作ってくれたので、うどんを注文する。
前回泊ったこの町の民宿の婆さんが、「息子は肝臓で入院中、その嫁はクモ膜下出血で話すこともままならず、爺さんは何とか頑張っているが歳が歳だし、私は7年前から松山の病院まで(国道で片道約50キロ)人工透析を受けるのでこれから甥の車で出かける」と話していた事を思い出し、不幸の塊のような家族は今頃如何しているのか。
MY氏は食べると出て行ったので一人で時間調整を兼ねて、2時間ほど休む。
食堂を出て歩き出すと、また左足首が痛むので、町役場前で裸足になってサロンパスを吹き付けたが、先程のように痛みは引かなかった。矢張りあの峠越えが響いたのか。
左足首を庇いながらの大宝寺への道は意外に遠かったが、鬱蒼とした杉木立の中に寺はあった。2時半、本堂で故OS(級友)故ZH(元神鋼社員)故AY(級友の姪)の供養をする。境内でMY氏と会ったので納経を終えて、二人で寺の横の遍路道を登ったが、峠に出るまでの登りは予想以上にきつく、トンネルに出るまでの下りもまた急で、左足首に気を使いながら、何とかトンネル脇の県道に出る。住吉神社角の信号を通り、橋を渡ると間もなく今夜の宿、民宿和佐路があった。
3時40分、女将さんに迎えられてリュックを下ろす。建物の造りは民宿にしては垢抜けして良かった。二階の部屋に案内されたが、石油ストーブとアンカがあった。洗濯物は宿が洗ってくれると言うので早速便乗することにした。風呂に入り冷えた体を湯船に沈め、今日痛めた左足首を丹念にマッサージする。昨日髭を剃るような気分にもなれなかったので、二日分の髭を剃る。部屋に戻ると洗濯物が届けられていたのでハンガーに吊るす。
食堂では青龍寺以来の札幌のTK氏を交え、三人でその後の遍路の話をしながら、旨い料理とビールを呑みながら話が弾み、明日三人で岩屋寺に向うことが決まった。
 部屋に戻りアンカに入り携帯電話を使ったが圏外と表示され、今まさに山の中に居ることを思い知らされた。供養した家族に葉書2枚を書き、昨日と合わせて二日分の日記を書いたが、二日分を書くとなると、790米の峠越えの身にはしんどいながら何とか書き終え、蒲団に入ったのは10時を過ぎていた。明日は松山に入る。