大河ドラマ「義経」を見ながら源平争いの発端となった保元の乱を偲ぶ

28日(34日目) 日 快晴 17℃ 28,2km(1025,9km) 崇徳上皇憤死の地
山本屋本館―善通寺―七十六番金倉寺(こんぞうじ)―七十七番道隆寺(どうりゅうじ)―七十八番郷照寺―七十九番高照院―八十番国分寺国分寺町民宿あずさ 5500円
 朝、食事をしていると女将さんが、
「お遍路さんの下着の乾きが早いのでびっくりしたが、値段が高そうな品物だが幾らするのですか」
「登山専用の下着で、シャツは2500円するが、綿と違い洗っても朝には完全に乾いているし、汗をかいても乾きが早いので、冷え込んで寒くなる様なことも無い」
「家のお父さんに買ってやりたいが、この辺ではこの様な品物は売ってない」
 余程気に入ったのか、伸ばしたり触ったりして、綺麗にたたんでくれた。
善通寺境内の千数百年の楠の大木 

7時15分、女将さんに送られて宿を出て、一旦善通寺境内の巨大な楠や五重塔等をカメラに収め、本堂を参った後、山門を出て金倉寺に向かう。100米ほど先にYR氏の姿が目に入ったので、少しピッチを上げて跨線橋前で彼に追い付く。それとなく彼の近況を聞くと、
「独身で生活費は月10万円も有れば何とかなる。冬の暖房費は灯油4缶も有れば十分だ。二度目の四国の旅だが、結願したら暫く家で過ごし、気が向いたら沖縄にでも行ってみたいし、北海道にも前に行ったことがあるが、その内Kさんを訪ねてみるかな」
と笑いながら話していた。また何故この様な旅を続けているのか聞いてみると、
「以前建設機械の販売を手掛けていたが、ワルに、不渡手形を掴まされ倒産したので、切れてしまい、その後この様な生活を送ることになったが、慣れてしまえばこれもまた楽しいものだ、Kさんにも会えたしな」
 聞いて見なければ判らないが、これまた人生色々だ、等話ながら歩いているうちに、8時50分、金倉寺に着いた。納経を終えると、彼は別なルートを歩くので山門前で別れる。
 道隆寺への道は途中酒造会社金稜の裏手の道を通ることにしたが、この道は初めてなので遍路マークに注意しながら真っ直ぐ歩くと道隆寺があった。9時10分、山門をくぐると未だ彼は来ていなかった。納経を済ませて県道に出てそのまま真っ直ぐの道を、団扇で有名な丸亀市に向かう。
間もなく高台にある丸亀城が目に入ったので、城の方に足を向けると、お堀端周辺の公園では日曜市が開かれて大勢の客が買い物をしていた。再び大通りに出て駅前通りを過ぎて繁華街を抜ける橋の上から約400米の讃岐富士が見えたが、この山をMK氏が犬を連れて登って居るのかと思うと、横峰寺で別れた彼が懐かしくなった。
甘いものが食べたくなったので、その先のローソンでアンマンを買う。間もなく丘の上に立つ郷照寺に着いたのは11時10分だった。この寺は踊念仏として有名な一遍上人が布教に勤めた寺で、本堂横の暗い堂内には15センチほどの千体仏を奉っているが、実数は大分上回るようだ。そこを出て前浜を見ながら、かっての塩田は住宅や工場のほか高速道路に変わり果てたが、その向うの瀬戸内を眺めながらアンマンを食べた。
山門から真っ直ぐの道を進み、高速道路をくぐると坂出市に入る。坂出の商店街は札幌の狸小路の数倍もある長さで、日曜とあって人出が多かった。12時10分、商店街の外れの食堂で荷物を降ろし、和風ステーキ定食を注文する。店内は家族連れで賑わっていた。一人旅を続けていると、平和な家族の風景がかっての自分たちと重ね合わせて、兄弟やわが家族に思いを馳せる。食べながら調べ物をした後、1時、食堂を出て30分で高照院に着く。
ここにも遍路姿に身をやつした感じの初老の男が一人、秋の暖かい小春日和の陽を浴びて居
万世一系の流れの中にも骨肉の争いを象徴する馬の像

眠りをしていた傍に、馬の銅像があって胴に菊の御紋が輝いていた。保元の乱で京都を追われて、再び京都に帰ることも無くこの地で生涯を終えた、崇徳上皇の遺体がこの寺に暫く安置されたので、その後天皇寺の別名となった。
納経を終えて暫く線路沿いの道を歩くと鴨川駅に出る。その前を流れている川の橋を渡ると国道11号線に出る。今は立派な4車線の道が通り、車の流れは途切れることも無い、軽い登りの道を過ぎると、讃岐特有の形をした三角形の山が三つ連なって見える。カメラを構えていると地元の夫婦連れが見えたので、
香川県は高山が無いので雨が少ないと聞いているが」
「その通りで外の三県に比べて大きな山が無く、あの程度の山では雨の量も少ないので、溜池を作らざるを得なかった。左から万灯山、釈迦山、六ッ目山と言う」
 親切にも山の名前まで教えてくれたので手帳に記入する。
四国四番目の国分寺山門の五葉松の門構えは見事と言うほか無い 

国道を下ると間もなく3時10分、四国最後の四番目の国分寺に着いた。山門に掛る五葉松の門構えは見事なもので、カメラに収めてから境内に入る。両側には四国八十八ヶ所の本尊の石碑が自分を迎えてくれる。何時もの様に本堂と大師堂で焼香しているとYR氏がまた現れた。良く会うものだ。彼も民宿あずさに泊ると言っていた。創建当時の七重塔の礎石が境内に点在していたが、この規模から判断すると可なりの大きな塔だったことは間違いないようだ。彼と一緒に民宿あずさを探したが、1キロ先にプレハブ風な造りの建物だった。
4時、YR氏は一階に、私は二階の部屋を案内されたが、部屋は狭く、蒲団は敷きっ放しの状態で先が案じられた。洗濯機に洗物を放り込んでから風呂に入る。部屋は寒いので炬燵で暖を取っていると、主人が下から食事を部屋に運んでくれたが、料理も冴えず暗澹たる気持ちで腹に詰める。食べた後の食器等は言われた通り階段のところに置いた。
明日は高松に入るので現地で宿を取ることにしたが、久し振りの屋島が懐かしい。今日一日の日記を付けてから、何時もの様に歯を磨いてから、何となく湿っぽい蒲団に潜り込んだが、幸いに直ぐ眠りに就いてしまった。