念願のお礼参りも済ませ、これからは、タダ?の人になるか

2日(38日目) 木 晴れ 17℃ 29,5km(1135,5km) 約束通りのお礼参り
白鳥温泉―讃岐相生―大坂峠―三番金泉寺―一番霊山寺徳島市BH大崎 5500円
 明日のルートが気になって中々寝付かれず、又時折廊下を行き来する物音もするので、益々眠気を催すことが出来ないが、その内知らぬ間に眠りに入った。目覚めて時計を見ると4時を指していたので、蒲団から出るのはまだ早いので、地図を見ながら今日のルートを頭に叩き込む。6時起床、リュックサックの中身を出して、雨の心配が無いので合羽類を下にして荷物の整理を終えたので、昨夜貰った朝食用の握り飯をほお張る。6時半過ぎ荷物を持って玄関に出ると、丁度職員が居たので、大坂峠越えで一番霊山寺までの時間を聞くと、
「早い人で7時間から8時間の間で着くが、普通9時間を見た方が良い」
 6時45分、宿を出たがまだ薄暗く、杖を握る手も冷たく感じられたので軍手を着用、緩やかな下りの車道を快調に歩く。歩くペースを計測すると、1キロ10分で時速6キロと、日々のウォーキングに近いペースだった。間もなく県道40号線に出て、そのまま国道の信号を真っ直ぐ進むと溜池が右手に見えてきた。勾配の急な坂道を登り切ると、下から高校生が自転車で息せき切って登ってきたので、「ご苦労さん」とチョコレートを差し出すと、「有難う」の返事が返ってきた。
後は暫くこの県道を真っ直ぐ進むので、迷う心配はないようだ。間もなく高速道路の下を通り、川を渡ると、「光洋精工」の引田工場にぶつかったので、左に左折して工場の敷地を迂回する。海辺に出ると、小魚を干していたので、「何の魚ですか」と聞くと、「シラスを干しているところだ」
今なら虫も居ないので干すには良い時期かもしれない。
10時、讃岐相生駅前の国道11号線に出て、この先大坂峠を越えて暫く食堂が無いので、昼食にはまだ早いが近くのうどん屋に入る。セルフでうどんに卵と揚げを追加して食べたが、腹が空いていたので旨かった。
店を出るとローソンがあったので、アンマンとお茶を買う。初めて土佐市か何処かで食べたローソンの饅頭が旨かったので、ローソンを見るとアンマンを食べたくなるのも不思議な話だ。
線路をくぐると愈々大坂峠へ差し掛かる。そのまま遍路道を歩くが、この道は元々徳島と香川を結ぶ重要な道で、明治以降この道の整備に多額の費用を費やして作った道だが、今は車道も出来て上から見ると曲がりくねった道路で、二つの道は何れにしても難工事だったことが判る。緩やかな登りが続き、途中の休憩所からの瀬戸内の眺めを楽しみつつ坂を登り続ける。
峠への道は普通の登山道に変わり、急な坂道を登ると視界が開けて11時25分、標高380米の大坂峠に着いた。
義経は弁慶等と、一豊は愛妻から贈られた馬に乗って讃岐に攻め入った

前は瀬戸内の海が開けて島が点在しているのが見えたが、生憎の曇り空で今一つ眺めは冴えなかった。後ろに目を転じると、阿波の国、四国三郎の異名を持つ吉野川がほぼ一直線に見える。右方向の向うに八栗寺のある五剣山の向うに屋島が有る筈だ。源平合戦の折、義経一行は屋島を後ろから急襲するため、この大坂峠を越えて屋島に向かったことや、秀吉や家康に重用された山内一豊の軍勢も、長宗我部元親を破るためこの峠を越えた故事を思い出す。特に平成14年「奥の細道」車行脚の途次、平泉で義経等の最期の地、高館から見た衣川と北上川の流れと重ね合って、彼らの栄枯盛衰に胸が締め付けられるような感情に襲われた。この峠には二度と来る機会は無いと思われたので、ローソンで買った饅頭を食べ終えてから360度の視界をカメラに収める。
峠を下ると阿波の国、徳島に入る。ここからの下りは急な坂の連続で、膝を庇いながら下ると、昔の関所跡に着く。この辺りから、昔の道が部分的に残っているのが目に入るが、道幅が1米足らずで、良く馬が通って行ったものと、義経等のほか、一豊の軍勢や一般の領民の苦しみが判る。
この先は専ら農業道路を通り線路を渡り線路際の道を歩き、大塚製薬の系列会社が運営する大きな浴場のロビーで休憩する。徳島県大塚製薬の創業の地だけあって各地に工場がある。その後田園地帯の道を歩いて、高速道路をくぐり、金泉寺への道を人に尋ねたりして漸く山門が見えてきた。山門前で30代の夫婦連れに会ったので彼らと一緒に、霊山寺への道を歩く。リストラで職を失い2度目の区切りで野宿の旅を続けて居るが、何時までこの旅を続けられるか、と心配していた。見た目も善良そうな二人を見て、良いことがあることを心に念じつつ、少し遠回りしてしまったが県道12号線に出て二人と別れた。
二番極楽寺の山門で一礼して一番霊山寺に向かう。間もなく寺の堂塔が見えて来たので、安堵と再会で感慨を新たにした。
池の鯉と39日振りのご対面

2時25分、10月25日ここからスタートした山門前で一礼し境内に入る。池の鯉が、「お礼参りおめでとう」と迎えてくれているようだ。
本堂で焼香と読経、今日二度目の命日の故H婆さん、故弟N、故H叔父さん等の供養と、その他これまで供養した方々に無事着いたお礼の言葉を般若心経に託した。
本堂内にある納経所に上がり、
「約束通り今戻ったよ」
 幸い覚えてくれ、お茶と菓子の接待を受けた後、早速、10月25日出発する際、記入した寺の遍路ノートにお礼参りした今日、12月2日と赤のボールペンで書き込んだ。
これで全てが終わった。後は京都の東寺へのお礼参りが残っているだけだ。
今回は出来るだけ杖を手に持って歩くことに心掛けたが、それでも杖の減り具合を測ると10センチ以上短くなっていた。寺の人たちとお礼の握手を交わし、菅笠はリュックに縛りつけ杖を手にして納経所を出て、本堂で軽く手を合わせた後、山門前で掃除していた女性に写真を撮ってもらいJR板東駅に向かう。
 駅で徳島行きの電車が数分後来るのを確かめて、無人駅のホームに上がる。間もなく電車が入り、久し振りに交通機関の椅子に座る。一段落した後、車内から徳島のBH大崎に予約すると、泊るのは良いが今夜の食事は出来ないとのこと。神戸の従兄妹のUN宅に電話で3日京都の東寺を参った後、夕方お宅に向かう旨伝える。
39日振りの電車の中から晩秋の佇まいが目に飛び込んで、先ほどまで歩いて来た日々を思い起こすと同時に、徳島に近付くに連れ庶民の生活を垣間見ることで否応無しに現実に引き戻される。
徳島駅で下車し、BH大崎を訪ねると、
「お帰りなさい。ご苦労さんだったね」
 元気な奥さんの声が返ってきた。部屋に案内されて荷物を解いてから、浴衣に着替えて洗物を屋上の洗濯機に放り込み、風呂に湯を注いだ後、狭い湯壷に39日間の疲れた身体をゆだねて一人遍路の旅の感慨に耽る。
風呂から上がって部屋に戻り、夕食を食べに出ようとズボンを探したが無いので、洗濯機に放り込んでしまったことに気が付き、階下に下りて、奥さんに事情を話して替えズボンを頼んだところ、旦那さんは6尺を越す長身で合わないので、奥さんの幾つかのズボンの中から赤系統のトレパンは胴回りがきつかったのを、何とか身にまとい、洗濯物を部屋に干してから、奥さんと親しい居酒屋の場所を聞いて出かけたが、夜だから良かったものの、真昼間だったら恰好の悪い事になった。
先ずジョッキーを注文し、これで全てが終わった事を感謝して一人乾杯する。おでんと刺身の盛り合わせを頼む。店内には客が数人居て夫々一人で酒を呑んでいた。お互い無口でテレビの画面を見ながら呑んでいたが、その内主人が、「どちらから」の声に「BH大崎さんの紹介で来た」と話すと、「それはそれは」と場が和らぎ、銚子を2本追加する羽目になった。茶付けを食べた後、店を出て駅周辺をぶらついて、娑婆の空気を目にした後、ホテルに戻ると、奥さんはトレパンを着た恰好を見て噴出していた。
TK氏に電話すると、彼はMY氏と大阪に来て、明日は高野山にお礼参りすると話していた。
四国の最後の今日一日の出来事をノートに書いて、蒲団にもぐり込んだが、明日四国を離れる事を思うと、この地で出会った人々の顔が頭に浮かんで中々寝付けなかった。