四国でも茶畑を見たが、静岡はさすが桁違いの広さだ

12日(10日目) 日 15度 快晴強風 日坂(にっさか)宿 掛川宿 袋井宿 見付宿(磐田市)  
                     29,2粁(237,6粁)
                     BH磐田(5,100円)
金谷宿(大井川を渡ると遠江(とおとうみ)の国へ入る) 

 1階の食堂へ行く途中、廊下の壁に田舎芝居の役者の写真が壁に貼っているのを見て、劇場を兼ねていることが判った。大広間には多くのテーブルが並べられ、正面の舞台には派手な幕が掛っていた。昨日の宿泊客は10人ほどで土曜日にしては少なかった。料理は四国の民宿並みだった。仲居さんに、
「この旅館は今まで泊った中では最低の宿だと、社長に伝えておいて」
と伝えると、パートの感じの仲居さんは小さな声で、
「皆もそう思っているのだが、社長は中々聞く耳を持たないところがあって私達も困っている」
との返事が返ってきた。
 食事を終えて、昨日預けた財布を渡すよう仲居さんに伝えると、
「事務所の鍵は閉まったままで、担当の人は家に居るので、電話で伝えるので、少し時間を下さい」
とのこと。
 部屋に戻り荷物の整理をしていると、仲居さんは財布を持って現れ、平謝りに謝っていた。精算を終えて7時25分、漸く宿を出たが、昨日の空とは違い晴れていたが風は強かったので、ウインドブレーカーを着る。
 金谷駅の線路下を通り坂道を上がると、石畳が上に向かって敷き詰められていたのは、町民がボランティアで石を持ち寄って敷いた石畳で、箱根で見たような単に石を敷いたのとは違い、両側に溝があって水の流れやすい構造になっていた。上から夫婦連れが降りてきたので声を掛けると、
「ご苦労さんです、道中気を付けて下さい、この先の下り道にも石畳があります」と親切にも教えてくれた。高校生も上から降りてきて、石畳に就いて同じような話をしてくれた。
牧の台の茶畑から大井川鉄橋を、電柱の先端は霜除け用の扇風機 

 登り切ったところに、明治天皇が京都から東京に遷都の際、ここで休憩された碑があったので、何となく左折して歩くと、広大な茶畑が現れ、その向うに昨日渡った大井川鉄橋が見えた。茶畑には、水力発電用の風車が多く目に入り、強風に煽られて凄い勢いで回っていた。
 向うから強風のため自転車を引いた老人が見えたので、「この道は旧東海道ですか」
と尋ねると、
「この先は何もないが。旧東海道を歩くなら、反対方向に行くのが良い、序だがこの茶畑は明治維新で禄を失った幕臣や川人足たち等が開拓した牧の原台の茶畑で、元は荒地の上、風が強い土地で開拓するのに大変だったらしいが、今は金谷茶として有名だ」
 貴重な話を教えてくれたので礼を述べて、二人で元来た道を引き返し、明治天皇の碑を過ぎて、緩やかな下りになると老人は、「お先に」と言って自転車に乗って行ってしまった。暫く進むと彼の老人が分岐点で待っていてくれた。
「ここを下ると菊川に出て、急な坂道を登ると小夜の中山に出る。車に気を付けて」
と親切に教えてくれた。昨日の金谷の人も含めた親切に感謝、感謝だ。この付近にも広大な茶畑が広がっていた。
 下ると間もなく石畳が現れてきたが、これは後に敷かれた石畳で、その向うに元からの石畳があった。下ったところが菊川間(あいの)宿で、金谷宿とこの先の日坂宿との間に、急な坂道が多いのでその中間に位置した菊川に、簡単な宿場が必要だったらしい。
 偶々通り掛った農家の庭に、巾1,2米、長さ12米程度の茶の畝が10本ほどあったので、洗濯物を干していたお婆ちゃんに、
「この1本の畝でお茶がどれくらい収穫するのか」
と聞いたところ、傍に居た嫁さんらしき人と話しながら、
「大体20キロ位なものかな、家の場合は自家用程度しか作ってない」
自家用にしても単純に計算しても、200キロとは結構なものだ。
 村を抜けると間もなく急な坂道に差し掛かる。息せき切って登り切った辺りが小
この寺で山内一豊徳川家康を接待した

 小夜の中山で、昨年の大河ドラマにも登場した山内一豊徳川家康を接待した久延寺で、境内には接待した茶亭跡の石碑があった。
 また、夜泣石と言って、村のお石という女が菊川からの帰りに、丸い石の傍で赤子を身篭って倒れていたところに通り掛った、轟業右衛門が助けたが、お石の持っていたお金に目がくらみお石を殺す。生まれた赤子は久延寺の和尚が引き取ったが、母恋しさの泣き声が石に乗り移って、夜な夜な泣き声が聞こえ、後に嘘かまことか空海がその石に、「南無阿弥陀佛」の法号を刻んだと言う跡もある。この石は小夜の中山を下った辺りに有って、広重の絵にも描かれているが、明治天皇が東京に向かう際、ここ久延寺に運ばれたが、何処まで嘘か本当か知らないがその様な話が残っている。
 小夜の中山を有名にしたのは東京遷都の後、この夜泣石を東京博覧会に出品したところ、物珍しさも手伝い大評判になった。
 源平期の歌人西行で、二度目の奥州への旅の途中で詠んだ、
  年たけて 又越ゆべしと 思いきや 命なりけり さやの中山
 西行69歳の作で亡くなる4年前に詠んだ。昔はこの地を、「さや」と言ったようだ。
 ここから日坂へは下り道が続くが、途中広大な茶畑が左右に広がっていた。流石茶所静岡県だ。途中明治元年まで夜泣石があった場所を過ぎて、道を下ると国道1号線と高速道路が目に入った。
日坂宿(小夜の中山へ向かう急な坂は今も変わらない)

 10時、日坂宿に着く。道の両側はこじんまり家並みが続き、本陣跡は幼稚園になっていた。町ぐるみ保存に力を入れている様子が見て取れた。今日は日曜日とあって、旅籠の中をボランティアの説明を聞きながら見学することが出来、外に出ると高札場があって、当時の面影を色濃く残していた。再び1号線に出る。
 掛川宿に向かう途中、カメラを出そうと、ポシェットの中に手を入れると、百楽園の部屋の鍵が出てきたので、電話でその事を伝えると、後で送って欲しいとのこと。暫く歩くとヤマト運輸があったので送る手配をすると640円も取られた。序に荷物を測るとリュック6,24キロ、とポシェット1キロ合わせて7,24キロと、我が家を出る時より何故か1キロも増えていた。道理で荷物が重たい筈だ。
 旧東海道の狭い道を進むが人も車も少ない。西山口小学校を過ぎ、掛川農協西山口支所の傍に古い道標があった。掛川市内に入ると街道は防衛上作った曲がりくねった道を進む。
掛川宿(江戸と名古屋の中間に位置し幕府にとっても重要な城だった) 

 12時20分、市内の食堂で天丼を食べたが味は冴えなかった。食堂を出て旧東海道に出て間もなく右手に大手門とその先に、出来て間もない掛川城天守閣が快晴の空を背景にくっきりと見えた。風の強い中、観光客は城を目指して歩いていた。清水銀行掛川支店の民芸風な壁に、山内一豊と千代の像が見えた。
 掛川信金を右に曲がると、十九首塚の標識があった。平将門と家臣十八人を奉った首塚であるが、将門の首塚は東京にもあるが、と思いながら過ぎる。東名高速の下を通ると間もなく松並木が見えてきた。川の手前の地下道を通り袋井市に入る。
袋井宿(旅人に臨時の茶屋が描かれている)

東海道一の松並木が続く 

 大和ハウス袋井工場の前の松並木は立派で、今まで見た松並木としては、良く残されていて東海道の風情を楽しみながら歩くと、「東海道どまんなか茶屋」の暖簾が下がっている喫茶店があった。「どまんなか」と言っても、東京日本橋から数えても、京都三条大橋から数えても27番目の宿場で、距離的には浜松付近のはずだ。良く整備された袋井宿場を過ぎると、ほぼ一直線の単調な道が続くが、車が少ないのが何よりだ。三ヶ野橋を渡ると薄暗くなってきたので、1号線に出て坂道を登ると、大きなビルが現れた。磐田グランドホテルだった。4時半、突然電話が鳴り、磐田市のS氏の声で、
「貴方に電話を何回も掛けたが、こちらが番号を間違ったので通じなく、遅れて申し訳なかった。今居る場所を教えてくれれば、(磐田グランドホテル前に居る事を伝える)向いのラーメン屋で待っていて欲しい、15分ほどで家内が迎えに行く」
とのこと、丁度向かいに大きな家電販売店があったので、デジカメ用の512MBのコンパクト・フラッシュを買い、ラーメン屋の前で待っていると、奥さんが運転する車が来たので、彼の家に向かった頃は日が暮れていた。
 5時、彼とは6年半ぶりの再会だった。
 平成12年の春の四国八十八ヶ所歩き遍路の際、半月ほど行動を共にした間柄だったが、9,11世界貿易センター爆破の約2ヵ月後、自転車に乗ったまま側溝に転落し、意識不明の状態となり、首から下が半身不随の重傷を負ったことは以前から聞いていたが、その後もベッド生活を余儀なくされて、奥さん懸命の介護等で自宅療養していた。
 私が電話した際、彼はベッドの中に居たが、生憎奥さんが留守だったので受話器を取ることが出来なかったとのこと。彼に、二度の四国歩き遍路と奥の細道車行脚の写真集(630枚)とその旅日記(A4で200枚)の入ったCDを贈ると快く受け取ってくれた。
 今回の東海道の旅は、彼から旧東海道の旅の楽しさを、四国を歩きながら良く聞かされたので、何時か行って見たいものだと心の中にあった事を彼に話すと、そうだったのかと喜んでくれた。
 金谷や小夜の中山の茶畑で見た風車は随分小さなものだ、と話すと、あれは風車でなく霜除け用の扇風機とのこと、道理で小さいはずだ。
 夕食時だったので、鰻をご馳走になったが、彼は奥さんから食べ物を口に入れてもらう状態で、改めて事故の後遺症の怖さを目の当たりにした。
 彼に四国遍路の際、寺の朱印を押してもらった大きな掛軸を見せてもらい、記念に写真を撮ったりして2時間以上話しこんだ。
 遅くなったので申し訳ないが、奥さんの車でBH磐田まで送って貰った際、奥さんに彼の介護を重々お願いした。
 7時50分、ホテルに入り、早速大風呂に入り旅の垢を流したが、S氏の事を思い出すと、可愛そうでならなかったが、食事と言葉を話せることが不幸中の幸いだった。
 部屋に戻り今日の日記を付け終えたのは11時を過ぎていた。