天竜川もここまで来ると市丸の「天竜下れば」とは程遠い

13日(11日目) 月 16度 快晴 浜松宿 舞坂宿 
                   27,6粁(265,2粁)
                   旅館あみ住み(7,600円)
 ホテルの軽い朝食を食べた後、7時40分、支配人に送られてホテルを出た。昨日行きそびれた見付宿を目指す。学生やサラリーマンが磐田駅に向かう人たちとすれ違いながら、朝の快い空気を吸うと、S氏には申し訳ない気持ちになる。
見付宿(天竜川の渡し) 

新旧の天竜大橋、旧大橋は歩道の白線もない狭さだ

 8時見付宿に着く。本陣跡を写したりしていると、元見付小学校の校舎が見えた。日本で最古の洋風の小学校とかで、当時としてはモダンな洒落た造りで、快晴の空に白い建物が良いコントラストを見せていた。向い側の商家の前には菊の鉢植えが並んでいた。
 元来た道を引き返し、磐田駅手前の旧東海道を曲がったところで、汗が出てきたのでウインドブレーカーを脱いでリュックに入れ、序にS氏の奥さんに電話で昨夜のお礼と、彼の世話をよろしく、と伝え、本人には早く良くなるよう話すと、有難う、有難う、と何度も繰り返し、道中には気を付けて、また後でCDを見ると言っていた。帰り次第写真を送る事を約束して電話を切った。昨夜の再会は彼も嬉しかったことだろう。早く良くなればよいが。
 道はほぼ真っ直ぐに作られた道の片側にゴミ袋があったので、何時もの癖で袋を見ると、町内会と名前が書いてあるのを見て、丁度ゴミ袋を出しに来たお婆ちゃんに、
「町内会と自分の名前を書いているのは珍しい」と告げると、
「亡くなった主人が町内会の仕事に熱心で、袋に書き込むよう住民を説得した結果で、今では自発的に皆さんが書いてくれるので、お爺ちゃんも喜んでいると思う」
と嬉しくなるような話を聞いたが、説得させるには大変な時間と努力があってのことだろう。中には日にちを書いている袋もあった。
 間もなく磐田化学工業で261号線と合流する。近くの公衆電話から浜名湖弁天島の旅館あみ住を7千円で予約する。
 道中所々にある松並木が見えると、東海道を歩いているのを実感するから不思議だ。
遅く宿場に着いた旅人はこの常夜灯を見て安心したことだろう

 火伏(ひぶせ)の神を祈る秋葉山神社の常夜灯があったので、良く見ると見事な透かしが彫られてあった。文政11年(1828)建立とあった。昔は火事が良く発生したので、火に対する信仰と夜の道案内を兼ねて、火が灯されていたらしい。途中には石造の常夜灯が所々目に入る。
 高砂香料の工場が見えてきた。構内には大きなタンクから沢山のパイプが張り巡らされ如何にも化学工場らしい佇まいを見せていた。
 豊田町を過ぎると直角に曲がる道の先に、並行して新旧二本の天竜川橋が見えてきた。旧道の橋は歩道も無い狭い橋で、今まで良くこんな狭い橋を渡っていたものだと感心しながら見ると、人っ子一人歩いていなかった
 10時10分、はじめ昭和初期に作られた旧道を渡ると旧東海道に繋がると聞いていたが、両側に白線もない狭い橋を渡る気もしなかったので、ほぼ完成した新道の橋を渡ったが、歩道の巾も5米近く、丁度脇を1台の自転車とすれ違っても狭さは全く感じられなかった。
 橋を渡る間、この自転車1台だけで、新旧とも橋を歩いているのは私一人で、昭和初期に流行った芸者市丸の、「天竜下れば」を心の中で口ずさむ。
東海道の中間を示す里程標識 

 浜松側の堤防手前20米ほどのところに、日本橋から250粁の里程標があったので、半分来たことを知る。漸く半分か、それとも後半分かと心に問いかけながら、袋井宿で見た「東海道どまんなか」の暖簾と同じく東海道の長さを肌で感じた。
 新天竜大橋を渡ったところで東京のK氏に東海道を半分渡った事を告げると、身体に気を付けて、と励ましの言葉を頂く。
 新道から旧道を通るには大きく迂回しなければならないので、ルール違反を承知で、一旦土手に下りてから旧道を横断し、車が少なくなった時を見て片手を挙げて横切って旧道に出ると、交通事故で救急車やパトカーが数台あった。近くの人に旧東海道の道を教えてもらい、励ましの言葉を背に狭い道を歩くが、所々に松並木が見えると、東海道を歩いていることを実感する。
浜松のランドマーク「アクトタワー」 

 浜松市内に入ると前方に巨大なビルが見えてくる。歳の頃60台の三人連れの婆さん?達に会う。毎年のように少しずつ東海道を歩いているらしく、仲良しながら時には喧嘩して、途中で別れ別れになった時もあったが、何時かは元の鞘に納まって、「姦し三人婆さん」になると言っていた。
 前方に見えるビルの事を尋ねると、「アクトタワー」とのこと。歳の事を聞かれたので、免許証を見せると、「60前後と思っていた」とは。
 12時過ぎ浜松駅に近付くと新しい大きなビルが立ち並び、駅周辺の大改造が進んでいた。右手にカンパンで有名な三立製菓のビルがあった。駅を中心にしてアクトタワーが聳え、環状にバスターミナルがあって、さすがヤマハ、ホンダ、スズキと世界企業を生んだ町だけあって活気が感じられた。
 駅に入るには一旦下に降りないと行けない構造になっていたのには、よそ者には参った。エスカレーターは少ないだけに足の不自由な人には大変だ。
 地上に出て食堂を探したが、市街地改造計画でシャッターを下ろしている店がこの周辺には多く、中通りでやっと和風の小料理屋があったので中に入ると、洒落た造りで落ち着いた気持ちになった。  
 寒ブリ定食が思ったより安かったので頼む。ブリの刺身はアブラが乗って美味かったが、八丁味噌のお汁も今回の旅で初めてで美味しかった。食後、コーヒーも出たので、思わず心の中でガッツポーズ。締めて840円也。夜は酒食を供するとのこと。名産の鰻を食べながらの酒も美味かろうと想像逞しゅうする。
浜松宿(遠くに浜松城が見える) 

 1時10分、店を出て浜松の佐藤本陣跡等を写した後、その257号線を進み東海道本線と、新幹線の高架をくぐると松並木が見えたところで、先ほどの「姦し三人組」と会う。
 1号線を左に見ながら単調な道を歩く両側は海が近いのか砂地で、長ネギの単作が殆どで、時たま里芋がある程度だった。通り掛った農家のお婆ちゃんに、「外の野菜が目に入らないが」と聞くと、
「こんな土地では外に植えるものなんかあるものか」
と、投げやりな言葉が返ってきた。確かにこの砂地では雨が降っても直ぐ乾くので、外の野菜が作れないのかも知れない。行けども行けども長ネギの畑が続くのを見て、北海道の農家は土に恵まれていると思った。
 右手に和菓子の店があったので立ち寄り、和菓子を頼み、小上がりに座って食べると、主人が茶を出してくれたので、一息付きながら、今東海道を歩いている途中、と話をすると、主人も、
東海道には興味を持っているが、店を持っているので中々行く機会がないが、何時かは家内と歩いてみたい」
と話していた。
 店を出て間もなく東西の本願寺が見えて来たので、この様な場所に和菓子の店が有る理由が判った。電話で宿に5時過ぎに着く予定と伝える。
 前方に舞坂の松並木が見えてきた。松の木の高さはそれ程ではないが、切れ目なく植えられていた。
 800米の道の両側には、日本橋から三条大橋までの東海道各宿場の、広重の浮世絵が入った銘盤の石碑が並んで、町ぐるみで保存に力を入れている様子が感じられた。舞坂の宿に入る頃は日も大分傾いて薄暗くなってきた。
舞坂宿(浜名湖は船で往来したようだ) 

 16時50分、宿場の目玉の一つ、脇本陣天保9年に建てられたもので、近年解体復元されたものだが、遅かったので中を見ることが出来なかった。
 暗くなり掛けた5時過ぎ、弁天島への橋を渡って旅館「あみ住」に着いた。女将さんの案内で2階の部屋に通される。窓越しに暮れなずむ浜名湖がかすかに見えた。欄間に飾ってあった写真の説明を聞くと、
「お爺ちゃんが湖で網を打っているところで、宿の名前もそこから来ている」
と誇らしげに話していた。
 机の上には浜名湖の写真があり、その中にも、尻をからげて網を打っているお爺ちゃんの写真があった。洗濯物を出すように言われたので、待ってましたとばかり、まとめて肌着類を出した。今日は貸切のようだ。
 今日も湯船に漬かりながら右足裏を揉むが中々治りそうもない。今晩の料理は旅館にしては今一つ冴えなかったのは、7千円と指定したせいかと思いながら食べたが、
「姦し三人組」のお婆ちゃんは今日は喧嘩せず、今頃仲良くご飯を食べていることだろう。
 日記を付けながら、後半分かと思うと何となく心が弾んできた。明日は快晴との予報だ。日記も半分ほど書くうち眠気を催したので蒲団にもぐりこんだ。