水量を増すと越すに越されぬ大井川と歌にも詠まれた難所だった

11日(9日目) 土 16度 雨一時雷雨後曇り 藤枝宿 島田宿 金谷宿(遠江国
                        19,4粁(208,4粁)
                        百楽園(7,823円)
岡部宿(山間の風景は今も変わらず単調な登りが続く) 

 4時頃猛烈な雷の音と雨の音で目が覚める。予報では午後からの雨とのことだったが。その後蒲団の中でうとうとしながら6時起床。雨具を上にして荷物をまとめる。
 7時、朝食の際、1枚のCDを見せて、
「この中に2度の四国八十八ヶ所歩き遍路と奥の細道車行脚の1枚毎にコメント付写真が630枚と夫々の旅日記合わせてA4で200枚が入っている」
「この中にそんなに入っているの!幸松さんが作ったの!」の問いに頷くと、
「家に泊るお客さんに、夏蒲団のことと、このCDのことを話しても良いですか」
「どうぞ、私は構いませんよ」と言っておいた。余程感銘を与えたようだ。
 7時40分、何時もの様に両足の裏にテーピングして、雨は小降りになっていたので、半袖シャツ1枚の上にゴアテックス上着だけ着込んで、女将さんに送られて藤枝宿に向かった。土曜日の早朝で車も少なく、旧東海道は歩きやすかった。歩くペースを測定すると、毎分130歩と、何時ものウォーキング並みの早さで歩いていたので、少しペースを落とす。所々に旧東海道特有の松並木が点在していた。雨が上がったので合羽を脱いで、ウインドブレーカーを着る。
藤枝宿(大井川を渡る準備で忙しそうだ) 

 間もなく藤枝市に入ると、道の両側の商店街は長いアーケードが続いていた。突如雷が鳴り猛烈な雨が降り出したので、丁度タクシー会社の無人車庫があったので、リュックの中から合羽を取り出して上下を着たが、ズボンの裾部分のファスナーが締まらなくなったので紐で縛る。この歳になると格好は二の次だ。
 携帯で104番を呼び出し、日坂(にっさか)の観光協会の電話番号を聞き、呼び出したが応答が無かったところに、タクシーが戻って来たので、運転手に日坂の宿の事を尋ねると、
「日坂には宿が無く、掛川で泊るしか方法が無い」
とのこと。
 距離を調べるとこの雨の中では25粁は無理なので、再び104番で金谷の観光協会を探してもらったが、電話帳には出ていないと言われたので、運転手に相談すると、島田駅観光協会があるのでそこで聞いては如何とのこと。
 雨宿りの間運転手に、
「私は北海道の者だが、北海道ではタクシーの運転手の手取りは、17万円前後とか聞いたが、この辺りでは幾ら位になるのか」
「17万円は多い方で、大体16万円で、息子は高校に行っているが、実家で生活しているので家賃が掛らず何とか遣っている程度だ。45も過ぎると就職はままならず、今まで何十枚も履歴書を書いたが問題にされないのが現実だ」
「藤枝と言えばサッカーの町、息子さんはサッカーをしているのか」
「サッカーどころでは無いよ、ここに居ても金にならないので失礼だがお先に、貴方も道中気を付けて」
の言葉を残して雨の中を出て行った。
 雨も漸く小降りになってきたので、リュックにカバーを掛けて、こちらも雨の中9時50分、島田宿を目指す。
正定寺の見事な枝振りの松

 途中正定寺に年代物の松があると前から調べてあったので注意して歩くと、右手の寺の門から松の木が見えてきた。正しく年代物で、1730年に植えられたと看板に書いてあった。見事な枝振りで手入れも行き届き、幹周りは2米近くあった。
島田の松並木 

 東海道の松が5本から10本ほど所々目に入り、国道1号線を横切るとまとまった松並木が東海道を歩いている旅情を誘い、足の痛みも心なしか薄らいできた。今日は主に旧東海道を歩いたので、車の騒音に悩まされることも、飛沫を掛けられることも無く順調だ。
 松並木が途切れると1号線を暫く歩くが、相変わらず雨は途切れることもなく降り続いている。間もなく島田市に入る。ビルが見えて来たので左に曲がって島田駅に向かう。
島田宿(東海道を往来する旅人泣かせの大井川)

 島田市は大井川を挟んで金谷町と合併した。昔は日本刀造りの名工が輩出し、大井川の川越の町として有名だ。
 12時、駅の左側に観光案内所があったので中に入り、金谷の宿を聞くと3軒有るとのこと。1軒は満杯で断られ、2軒目も断られ、頼みの3軒目で漸く百楽園の宿を確保した。観光案内所の女性に、
「聞くところによれば、金谷の方が町としては大きいと聞いたが、それにしても3軒しかないとは」
と問うと、
「とんでもない、島田の人口7万に対して、金谷は2万足らずで、島田が吸収したようなものです」
とわが町を過小評価され、憤懣遣るかたない模様だった。
 かっては大井川を挟んでお互い持ちつ持たれつの関係があった筈だが。平成の大合併で、金谷を助けて遣ったような言い方を聞いて、官民を問わず縄張り意識は何処にもあるようで面白かった。大井川手前にある川越の島田宿への道順を聞いて案内所を出る。
 間もなく東海パルプ工場の煙突が見えて来たので左に曲がると、暫くして大井川堤防手前の宿場に川越人足達の建物が観光用に並んでいた。
見るからに凄い顔付きだ、男でも恐れを為す 

 中には煙管を手に客待ちしている川越人足の模型は凄みがあり、こんな連中に担がされた女性は、時にはわざと架台を揺さぶられたりして、恐怖におののいたことだろう。
 土曜日と雨のせいか客は少なく、1時45分、食堂に入ったが誰も居なかった。新そばを注文し食べたが手打ちらしく美味かった。食べ終えて堤防に出ると両側の桜並木が年月を感じさせる。
 県道の大井川鉄橋(1026米)は5年越しの大工事だった様に、往時は川が増水すると足止めを食い、足元を見られて宿泊代が嵩み、水が引くと先ず大名行列が優先的に、次いで武士や商人達は駕籠に、一般の町民や子女は架台や肩車で川を渡ったものだ。
 唄にもある様に、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」は昔の旅人にとっては難所の一つだったが、私は10分ほどで渡ってしまったが、朝方の大雨にも拘らず川の水は少ないのは、多分上流のダムのせいかも知れない。便利になったものだ。
 金谷宿に入り、タクシーの運転手に百楽園の場所を聞いて、途中から急な坂道を登ったが、雰囲気が違うので少し戻り、途中の民家のベルを押して出てきた奥さんに場所を聞くと、大分上に来た模様で、主人が出てきて地図を片手の教えてくれたので、礼を述べて道を下ったところの信号を右に回る。
 暫く進むと、教えてくれた道が判らなくなり地図を見ていると、先ほどの主人が追い掛けてきたのか、別な地図を持って、百楽園への近道を教えてくれた。有り難いもので、主人の名前を聞くと、「とんでもない、元気で気を付けて」と手を振って戻っていった。四国の心のお接待を思い出し、琴線に触れたひと時だった。巾が1米ほどの道を登ると、百楽園の裏口に出た。
 3時20分、廊下伝いに正面玄関に出て部屋に案内された。ドアと言っても襖だが、今時珍しい錠前が付いていた。部屋に入るとお粗末な造りで、畳にタバコの焼け跡が何ヶ所もあり、電話もなく、テレビはリモコンがなく、画面はだぶ付いて見れるような代物ではなかった。取り得は窓越しに、先ほど渡った大井川と鉄橋が見えることだ。
 事務所に貴重品を預かり風呂に向かう。雨に冷えた身体には上々の風呂だった。今日は歩いた距離が20粁と少なく、寒かったせいもあって、足の痛みはそれ程感じなかった。
 部屋での食事は品数は6品ほどで味は冴えなかった。寒いこともあって、早々に食べ終えて、仲居さんがお膳を取りに来たので、朝食は7時に頼む。
 平成12年春の四国遍路で半月ほど一緒に歩いた、磐田市に住むS氏に電話を掛けたが出なかったので、留守電に、帰り次第電話を呉れるよう、携帯電話の番号を教えた。
 今日は合羽を着ながら蒸し暑さは感じなかったのは、昨日との温度差は6度も低く、振り返ってみると、雨らしい雨は今日が初めてだった。明日は快晴の予報だった。
 日記を付けながら、金谷で道を教えてくれたが、私が理解してないと思い、後を追って改めて別の地図で教えて頂いた人を思い出し、胸が熱くなりながら続きの日記を書き終えたのは10時近かった。