桶狭間に立ち歴史の流れが胸をよぎる貴重な一時を過ごす

16日(14日目) 木 16度 快晴後晴れ 池鯉鮒(ちりゅう)宿 鳴海宿(尾張国) 宮宿(名古屋市
                      32,7粁(349,7粁) 
                     旅館翆明(7,500円)
7時25分、ホテルを出て快晴の橋の上から乙川越しに岡崎城が見えた。1号線に出ると直ぐ、最近作られたような大手門があった。旧東海道に入ると間もなく八丁味噌の蔵が見えた。朝ドラ、「純情きらり」の舞台となったところで、カク久のマークの入ったナマコ壁の蔵は資料館になっていたが、朝早いので観光客は居なかった。
八丁味噌蔵の資料館

 その先が矢矧(やはぎ)川で、豊臣秀吉が日吉丸と言っていた当時、この矢矧橋の下に寝ていたところを、野武士の蜂須賀小六に拾われ、その後織田信長に使え木下藤吉郎と名乗り、後に関白の位にまで上り詰めた。蜂須賀小六は後に阿波(徳島)城主となり、その子孫は現存している。二人の出世の端緒になった橋の袂にあった銅像は、現在橋の改修工事で他所に移されていた。実際は当時未だ橋は無かったようだが、ここが出会いの場所だったことは事実のようだ。
橋を渡り終えて直ぐ右に曲がると旧東海道に出る。新しく舗装されていたが、狭さは変わらず、丁度通学時間帯で、白線が引かれた狭い通学路を車に気を使いながら歩いていた。程なく1号線に出た途端、名古屋に向かう車と岡崎に入る車の洪水に見舞われた。
永安寺の松は藤枝の松同様300年物

 尾崎東交差点から旧東海道に入ると松並木が見え、岡崎海軍航空隊跡の碑と熊野神社宇頭一里塚跡があった。間もなく古びた永安寺に樹齢300年の松は襖絵に画かれた龍の様に見事な出来映えを見せていた。この辺りは工場が立ち並んでいるが、松並木は地元の方が保存に力を入れているのが良く判る。
9時45分、来迎寺一里塚を過ぎると松並木が見えてきた。1号線と交差するところに、聖マリア大聖堂が紺碧の青空を背景に、真っ白な壁に丸みを帯びた聖堂の上に十字架の尖塔が、天に向かって突き刺すように建っていた。
地下道をくぐって高速道路の下を通ると池鯉鮒(知立とも書く)の町に入る。広重が画いた、池鯉鮒の馬市があった場所で、当時この辺りが馬市として大いに賑わったところらしい。
知鯉鮒宿(のどかな馬市の風景)

踏切を渡ると、10時25分、知立の町に入る。本陣跡を探すのに手間取ったが、明治天皇の休憩場所の傍にあった。
 逢妻川に架かる逢妻橋と言う気になる名前の橋を渡ると、1号線に出るがこの辺は刈谷市トヨタの系列の会社や下請け会社が多く目に付く。また、刈谷市が本社のアイシン精機が苫小牧に進出することが決まったこともあって、アイシン精機の工場を探したが見当たらなかった。相変わらずトラックが唸りをあげて走っている。再び旧東海道に入るが、1号線とは一丁ほどしか離れていないが他所の町に来た感じがするほど静かだ。
 12時半過ぎ豊明市に入り、前後駅付近の1号線沿いに、「吉野家」があったので、珍しさもあって入ったが、肝心の牛丼は無かったので焼肉丼を食べる。
 店を出て暫く歩くと阿野一里塚が見えた。この一里塚は道の両側にあり、国の指定文化財となっている。直ぐ傍にメッキ工場があった。
 近くのスーパーで、ミレーのビスケットを買う。四国では良く食べたが、思えばこのビスケットの工場は愛知県に有る事を思い出した。そのまま直進し踏み切りを渡ると桶狭間の古戦場跡があった。
歴史の転換点、桶狭間古戦場跡 

 1時5分、桶狭間合戦場に着く。永禄3年5月19日(1560)東海一の大大名、今川義元は2万5千人の大軍を従え、時の足利幕府の将軍を補佐し、実質的に天下に号令を掛けるべく上洛の途上、桶狭間で休憩した際、豪雨の中、織田信長の率いる3千人の襲撃を受け、あっけない最後を遂げた地がこの桶狭間である。
 良く言われるように、歴史に、「若し」が有るとすれば、若しこの合戦が無かったら、または信長が殺されていれば、その後の信長、秀吉、家康の時代が無かったことは間違いのないところで、その後の日本歴史は別な方向に向かって、西洋列強の植民地と化していた可能性は無きにしも非ずで、その観点からも、歴史の大きな転換期となった一戦だった。この様な感慨に耽りながら、義元の墓に手を合わせる。
 間もなく有松絞りで有名な有松の町に入る。道の両側には有松絞りの店が並び、家並みも東海道に相応しい佇まいを見せていた。道は下り坂になり祇園寺を過ぎ踏切を渡る。
鳴海宿(有松絞りの暖簾が見える)

 何時の間にか名古屋市に入っていた。中島橋を渡ると、2時10分、鳴海宿に入る。本陣跡や問屋場跡を過ぎ、作町交差点を右折し天白橋を渡ると、笠寺の一里塚が見えた。
笠寺一里塚は街中にあるだけに貴重だ 

 この一里塚は片側だけだが、榎は巨大な根を張って如何にも、400年の東海道を行き来する人を見てきたぞ、と言わんばかりに枝を広げ、街道を見下ろしているかのように見えた。笠寺観音の傍を通り、商店街を抜けると踏切があった。
 暫く歩くと高速道路が見えてきた。その下を通り反対側に行くため歩道橋を渡ると、右側に、最近ガス中毒を起した瞬間湯沸かし器の、パロマ工業の大きな看板が見えたので、野次馬根性宜しくカメラに収める。
 1号線を進み、東海道本線跨線橋名鉄の高架を渡ると、左手に裁断橋の擬宝珠と、都々逸発祥の碑があった。
 4時20分、国道19号線に出て左折したところに、運良く不動産屋があったので、今夜の宿を探してもらい、2軒のホテルは満杯で、直ぐ裏手にある、旅館翆明を予約した。 「宮の渡し」の場所を尋ねると、19号線に架かる長い歩道橋を歩くとその先に、「宮の渡し」があると聞いたので、礼を述べた後、一先ず旅館に荷物を置いて出かけた。
宮宿(豪壮な祭りの先導が鳥居の前を走る) 

 19号線に架かる大きな歩道橋を渡った先が、「宮の渡し」だった。かっての東海道はここ堀川から舟で伊勢湾を横断して桑名に向かったが、今は陸路の道しかない。NHK「てくてくの旅」で岩本選手は地元の好意で舟で桑名に渡ったが、その乗り場から堀川越しに夕日が見えた。
昔は宮の渡しから伊勢湾を横断して桑名に向かった 

 観光用の常夜灯を背景に、犬と散歩に来ていた奥さんに写真を撮ってもらう。5時を過ぎると冷え込んで来たので、元来た道を引き返し宿に着いたのは、5時10分で薄暗かった。
 宿は中々手の込んだ造りで、大広間には甲冑や刀掛けがそれとなく部屋に置かれていた。部屋で荷物を解いてから風呂に入ったが、2ヶ所からジェット噴流が出ていたので、両足の裏を噴流に当てると気持ちが良かった。
 今日は今までで一番長い32粁の距離(四国遍路の平均距離)を歩いたので、湯船の中で足をさすりながら、良く頑張ってくれたと感謝する。
 当初は申し込んだのが遅かったので、夕食は無いとのことだったが、女将さんの配慮で、天ぷらに玉子焼きとニラレバに漬物だけの変わった料理だったが、空きっ腹には外食よりもずっと美味かった。今日も貸切だった。
 部屋に戻り今日一日の日記を付けたが、秀吉出世の端緒となった、矢矧橋での蜂須賀小六との出会いから始まり、桶狭間の合戦場と、先ほど触れた歴史の転換地をこの目で確かめた余韻が、眠気を押し留めたのか、最後まで順調に書くことが出来た。
 まさに東海道の歴史の中で最も注目された地点を体得した一日だった。