水に浸かった崇徳上皇の遺体を白峰寺へどの様に運んだのか

29日(35日目) 月 快晴 17℃ 32,6km(1058,5km) 根香寺の紅葉は絶景
あずさ―一本松県道―八十一番白峰寺(しろみねじ)―八十二番根香寺(ねごろじ)―八十三番一宮寺(いちのみやじ)―高松市BHかすが 4700円
 階下から食事が運ばれてきたので食べた後、6時50分、薄明かりの国道に出て間もなく右折し、白峰寺方向の山に向かって歩く。流石冷え込みがきつく軍手を取り出す。清水建設の子会社の前を通り緩やかな坂を登る。墓所の手前から急な登りとなり、別名「遍路ころがし」と言っているが、十一番藤井寺からの「遍路ころがし」とは比べようも無いくらい楽だ。最後の階段を上がると、宿から1時間で一本松県道(H380米)に出た。
県道を左方向に少し歩くと遍路道に入る。やがて自衛隊の建物の脇を進んで、19丁石の地点の白峰寺根香寺の分岐点に着くと、広島のYR氏のリュックが置いてあった。進行方向に急な坂道を登ると、「根香寺まで1,7km」の標識があったので、間違ったことに気が付いて元来た道を下って、19丁石まで戻り、白峰寺に向けて歩くと、初老の品の良い遍路が見えたので、どちらから来たのかを尋ねると、「社会保険健康センターから来た」と話していた。岩がゴロゴロした道を下ると白峰寺(H280米)があった。
8時55分、山門をくぐると本堂は階段を上がったところにあった。白峰寺は昨日お参りした高照院に一時安置された、崇徳上皇の遺体をこの白峰寺に葬り奥には御陵が有る。納経を終えて再び19丁石に向かう途中、背後に人の気配を感じたので、振り向くと中年の遍路が追い越して来たので道を譲る。見ると、可なりの健脚のようだった。
古人はこの丁石を頼りに寺に向かったことだろう

道には丁石が所々にあって、昔の遍路の道標に設置した苦労を知ることが出来る。根香寺の駐車場には大型バスが3台と多数のマイカーが駐車していた。
境内には多くの紅葉狩に混じってカメラマンも被写体を写していた

10時15分、前回修復中だった山門(H365米)も出来上がったのを見てカメラに収める。今まで見たことが無いほどの、赤や黄色に彩られた紅葉が頭上に映える。北海道の紅葉とは違い、葉が小さく、繊細な色調は例えようも無いほど強烈に脳裏に焼きつく。この寺は紅葉の名所だけあって多くの参拝者が本堂前で手を合わせ、バスツアーの人たちは先達の読経に合わせてお経を上げていた。YR氏は既に納経を終えて寺を出て行った。写真を撮るにもメモリーカードが少なくなっているので慎重に紅葉を写す。
前回、この付近で泊るところが無いので、禅宗の寺「禅喝破道場」に大阪府のTT氏と泊ったが、室内に入った途端強烈な異臭が漂い、食事も精進料理、と言っても宿坊で食べるような品ではなく、最後に茶碗にお湯を入れて沢庵で洗った茶碗の湯を飲むのを見て、胸具合が悪くなったことや、押入れから出した煎餅蒲団は湿っぽかったばかりか、敷布団も殆ど綿も無く薄くて背中が痛んで何度も起きては身体を反転し、まどろみながら何時しか寝込んだ。
早朝の勤行で座禅を組まされ、坊さん見習いを含めた5人が、お経を詠み、太鼓を叩き、ドラを鳴らしながら法悦の境地になったシーンは強烈な印象を我ら二人に残した。宿泊料はお接待だったが、「禅喝破道場」の修行は貴重な体験だった。
30分後山門を出て、車道を通り鬼無村に向けての緩やかな下り道を進む。途中から可なり急な道を下るとYR氏と会った。彼は膝が悪いのか慎重に下りの道を下りていたので追い付いた。何十万円もするような盆栽用の松や庭木が多数植えられている道の両側は目の保養になる。鬼無駅の踏切を渡り、4車線の立派な県道176号線を進む。
彼はコンビニで買い物をするので別れた後、高松市内の高速檀紙IC付近の交差点にある軽食堂に12時25分入る。
 定食を注文し主人の手が空いた頃を見計らって、一宮寺への道筋を教えてもらったので、名刺を差し出すと、
「北海道からですか。今日まで何日目で、聞いて良いかな、幾ら位費用が掛るのかな」
「今日で35日目、明後日には八十八番大窪寺で結願し、一番霊山寺にお礼参りをする予定です。費用は飛行機代込みで50万円弱です」
「北海道だから飛行機代も含めると、成る程な、結構掛るものだな」
 コーヒーを注文し、砂糖とミルクをカップに注いで、じっくり香りと味を楽しむ。
 1時15分、店を出て、教えられたように二つ目の信号を左折して、各所にあったスーパーマルナカの本社前を通って橋を渡り、歩道橋手前の道を右折して進むと一宮寺があった。
 2時10分、境内に入るとYR氏も入ってきた。納経を終えて彼と別れて門を出た時、前回、道を間違って全く反対の法然寺に行った事を思い出し、地図と現在地を慎重に照合して、遍路シールを見てからその方向に歩を進めた。確認のため買い物袋を下げた主婦に道を尋ねると、この道は狭いので並行している一本向うの国道193号線で、4車線の道を薦められたので、その道に出ると車は多いが歩道が広いので安全だった。国道を真っ直ぐ進み高速道路下の横断歩道橋から屋島の平坦な山容が目に入ってきた。「カメラのキムラ」で64MBのコンパクトフラッシュを買う。巨大なスーパー「ゆめタウン高松」の店内に入り、郵便局でお金を下ろし、国道11号線に出る道を、4人に尋ねたが満足な答えが来なかったので、玄関から真っ直ぐの道を出ると、何のことは無いその国道11号線に出た。近くに住んでいて何故こんなことが判らないのか全く理解に苦しむ。遍路姿に違和感を感じたせいかな。
 国道11号線は車の流れも多く、両側のビルは四国の他の都市より高層ビルが多く、高松は流石四国の玄関口だけあった。栗林(りつりん)公園前を通ると先方に独特なスタイルのYR氏の背中が見えてきた。近寄って今晩の宿を聞くと、114銀行本店傍のサウナに入ると言っていた。間もなく本店が目に入って来たのでその角で彼と別れて、屋島への交通標識を見て右折して暫く進むが、何となく可笑しいと気が付き、信号待ちの人に尋ねると、これは旧国道で、屋島へは遠回りになるので、向こう側の道を左に曲がって進みなさいと言われて、慌てて向こう側の道を渡る。ここから国道11号線に出るのに、人に尋ねながら何とか出ることが出来た。
問題は今夜の宿だが、出来るだけ屋島に近い方が良いと思い、先へ進み春日川の橋を渡ると、「BHかすが」の看板があったので、国道を右折して200米ほど入ったところのビジネスホテルに着いたのは丁度暗くなり掛けた5時だった。マスターに朝食を頼む。
客は数人程度らしい。風呂に入って今日一日の汗を流して、上がってから近くの焼肉店を聞くと、国道に面した「大門」が美味しいと教えてもらう。早速大門に出かけて大ジョッキーを傾けながら、何時もの3点セットの焼肉を食べ、スープにキムチで温かいご飯を食べると気持ちもすっきりした。
部屋に戻り、明日の八十八ヶ所巡り最後の宿を長尾寺傍の「ながお路」を手配する。何時もの様に日記を付け、明日の予定を地図を見ながら調べた後、蒲団に潜り込み、残る後二日の無事を念じつつ眠りに就いた。

大河ドラマ「義経」を見ながら源平争いの発端となった保元の乱を偲ぶ

28日(34日目) 日 快晴 17℃ 28,2km(1025,9km) 崇徳上皇憤死の地
山本屋本館―善通寺―七十六番金倉寺(こんぞうじ)―七十七番道隆寺(どうりゅうじ)―七十八番郷照寺―七十九番高照院―八十番国分寺国分寺町民宿あずさ 5500円
 朝、食事をしていると女将さんが、
「お遍路さんの下着の乾きが早いのでびっくりしたが、値段が高そうな品物だが幾らするのですか」
「登山専用の下着で、シャツは2500円するが、綿と違い洗っても朝には完全に乾いているし、汗をかいても乾きが早いので、冷え込んで寒くなる様なことも無い」
「家のお父さんに買ってやりたいが、この辺ではこの様な品物は売ってない」
 余程気に入ったのか、伸ばしたり触ったりして、綺麗にたたんでくれた。
善通寺境内の千数百年の楠の大木 

7時15分、女将さんに送られて宿を出て、一旦善通寺境内の巨大な楠や五重塔等をカメラに収め、本堂を参った後、山門を出て金倉寺に向かう。100米ほど先にYR氏の姿が目に入ったので、少しピッチを上げて跨線橋前で彼に追い付く。それとなく彼の近況を聞くと、
「独身で生活費は月10万円も有れば何とかなる。冬の暖房費は灯油4缶も有れば十分だ。二度目の四国の旅だが、結願したら暫く家で過ごし、気が向いたら沖縄にでも行ってみたいし、北海道にも前に行ったことがあるが、その内Kさんを訪ねてみるかな」
と笑いながら話していた。また何故この様な旅を続けているのか聞いてみると、
「以前建設機械の販売を手掛けていたが、ワルに、不渡手形を掴まされ倒産したので、切れてしまい、その後この様な生活を送ることになったが、慣れてしまえばこれもまた楽しいものだ、Kさんにも会えたしな」
 聞いて見なければ判らないが、これまた人生色々だ、等話ながら歩いているうちに、8時50分、金倉寺に着いた。納経を終えると、彼は別なルートを歩くので山門前で別れる。
 道隆寺への道は途中酒造会社金稜の裏手の道を通ることにしたが、この道は初めてなので遍路マークに注意しながら真っ直ぐ歩くと道隆寺があった。9時10分、山門をくぐると未だ彼は来ていなかった。納経を済ませて県道に出てそのまま真っ直ぐの道を、団扇で有名な丸亀市に向かう。
間もなく高台にある丸亀城が目に入ったので、城の方に足を向けると、お堀端周辺の公園では日曜市が開かれて大勢の客が買い物をしていた。再び大通りに出て駅前通りを過ぎて繁華街を抜ける橋の上から約400米の讃岐富士が見えたが、この山をMK氏が犬を連れて登って居るのかと思うと、横峰寺で別れた彼が懐かしくなった。
甘いものが食べたくなったので、その先のローソンでアンマンを買う。間もなく丘の上に立つ郷照寺に着いたのは11時10分だった。この寺は踊念仏として有名な一遍上人が布教に勤めた寺で、本堂横の暗い堂内には15センチほどの千体仏を奉っているが、実数は大分上回るようだ。そこを出て前浜を見ながら、かっての塩田は住宅や工場のほか高速道路に変わり果てたが、その向うの瀬戸内を眺めながらアンマンを食べた。
山門から真っ直ぐの道を進み、高速道路をくぐると坂出市に入る。坂出の商店街は札幌の狸小路の数倍もある長さで、日曜とあって人出が多かった。12時10分、商店街の外れの食堂で荷物を降ろし、和風ステーキ定食を注文する。店内は家族連れで賑わっていた。一人旅を続けていると、平和な家族の風景がかっての自分たちと重ね合わせて、兄弟やわが家族に思いを馳せる。食べながら調べ物をした後、1時、食堂を出て30分で高照院に着く。
ここにも遍路姿に身をやつした感じの初老の男が一人、秋の暖かい小春日和の陽を浴びて居
万世一系の流れの中にも骨肉の争いを象徴する馬の像

眠りをしていた傍に、馬の銅像があって胴に菊の御紋が輝いていた。保元の乱で京都を追われて、再び京都に帰ることも無くこの地で生涯を終えた、崇徳上皇の遺体がこの寺に暫く安置されたので、その後天皇寺の別名となった。
納経を終えて暫く線路沿いの道を歩くと鴨川駅に出る。その前を流れている川の橋を渡ると国道11号線に出る。今は立派な4車線の道が通り、車の流れは途切れることも無い、軽い登りの道を過ぎると、讃岐特有の形をした三角形の山が三つ連なって見える。カメラを構えていると地元の夫婦連れが見えたので、
香川県は高山が無いので雨が少ないと聞いているが」
「その通りで外の三県に比べて大きな山が無く、あの程度の山では雨の量も少ないので、溜池を作らざるを得なかった。左から万灯山、釈迦山、六ッ目山と言う」
 親切にも山の名前まで教えてくれたので手帳に記入する。
四国四番目の国分寺山門の五葉松の門構えは見事と言うほか無い 

国道を下ると間もなく3時10分、四国最後の四番目の国分寺に着いた。山門に掛る五葉松の門構えは見事なもので、カメラに収めてから境内に入る。両側には四国八十八ヶ所の本尊の石碑が自分を迎えてくれる。何時もの様に本堂と大師堂で焼香しているとYR氏がまた現れた。良く会うものだ。彼も民宿あずさに泊ると言っていた。創建当時の七重塔の礎石が境内に点在していたが、この規模から判断すると可なりの大きな塔だったことは間違いないようだ。彼と一緒に民宿あずさを探したが、1キロ先にプレハブ風な造りの建物だった。
4時、YR氏は一階に、私は二階の部屋を案内されたが、部屋は狭く、蒲団は敷きっ放しの状態で先が案じられた。洗濯機に洗物を放り込んでから風呂に入る。部屋は寒いので炬燵で暖を取っていると、主人が下から食事を部屋に運んでくれたが、料理も冴えず暗澹たる気持ちで腹に詰める。食べた後の食器等は言われた通り階段のところに置いた。
明日は高松に入るので現地で宿を取ることにしたが、久し振りの屋島が懐かしい。今日一日の日記を付けてから、何時もの様に歯を磨いてから、何となく湿っぽい蒲団に潜り込んだが、幸いに直ぐ眠りに就いてしまった。

弘法大師空海誕生の地、善通寺の大伽藍は存在感大だ

27日(33日目) 土 晴れ後快晴 16℃ 32,7km(997,7km) 弘法大師空海誕生の地善通寺市
おおひら―大興寺―六十八番神恵院(じんねいん)―六十九番観音寺―七十番本山寺―七十一番弥谷寺(いやだにじ)―七十二番出釈迦寺(しゅっしゃかじ)―七十三番曼荼羅寺(まんだらじ)―七十四番甲山寺(こうやまじ)―七十五番善通寺(ぜんつうじ)―善通寺市山本屋本館 7455円
 朝食を食べてからお互いの紹介の折、マイカー遍路夫妻は、広島県呉の元海上保安庁OBで、
「36年勤務した後、第二の職場で出張の序に、夫婦で数日間の逆打ち車の旅をしているが、自分たちが車で回るのに引き換え、貴方の様に歩きの旅は昨夜の話を聞いて、凄い方と一緒に成ったのは生涯忘れない良い思い出に、記念に写真を撮らせて頂きたい。後で送ります」
 玄関前でカメラに収めて頂いたが、くすぐったい褒め言葉に返事のしようが無かった。
 7時、夫婦に送られて大興寺に向かい故MFの供養と、SH氏の平癒を本尊薬師如来に祈願する。寺を出て暫く歩いていると、背後から軽いクラクションが鳴ったので振り返ると、先ほどの呉の奥さんが運転して、
「話の通り随分歩くの早いですね、道中気を付けて下さい」
走り去る車に手を振って別れを告げる。間もなく国道377号線に出たので、直ぐ右折してビニールハウスが並ぶ田園地帯を通る。この付近の農家は割りと裕福なのか、家の構えも其れなりに立派で、瀬戸内の気候と関係有るのかもしれない。
観音寺市に入り間もなく川を渡ると琴弾(ことだま)八幡宮が見えて来たが、前回の時は桜の時期で境内は花見客で賑わっていたが、今朝は落葉が散乱して、かっての華やかさは影を潜め秋の深まりを感じた。
8時45分、神恵院と観音寺は同じ境内にあって参拝するには効率が良かった。本堂に登る階段を上がると、上から髭を生やした人相風体の芳しからざる初老の男が下りて来て、一瞬目が合ったが余りよい気持ちはしなかった。納経の後、階段を降りるとその男は居なかったので何となくホッとした。
堤防を歩きながら望む五重塔の水煙は、遠く法隆寺を思い出す

財田川の堤防に沿って本山寺に向う。前回道を間違えて大回りしたところでも有るので、地図を見ながら堤防上の道を通ると、本山寺五重塔の先端の水煙が見えて来た。
本山寺山門前で托鉢している遍路が居たので、何気なく相手の顔を見ると、先ほど階段ですれ違ったあの男だった。彼も一瞬驚いたらしいが何食わぬ顔をして手に椀を持っていた。内子町の民宿で、香川県に入ると大阪釜が崎辺りからの流れ者が、遍路に身をやつして托鉢や接待を受けている事を聞いていたので、多分彼もその類の者だろう。
10時8分、本山寺の山門をくぐると、四国では数少ない国宝の本堂があった。納経の後、懐かしい五重塔等をカメラに収める。山門を出ると間もなく国道11号線に出てそのまま直進し弥谷寺に向う。
香川県は高山が少ないためか元々雨が少ない土地だが、特にこの周辺は大小様々な溜池が点在する。向うから逆打ち風の遍路に出会ったので話し掛けると、
「この輪袈裟(首から下げるもの)に高野山と書き込まれているのだけが、托鉢を許されているので、それ以外の托鉢は無法者で、特に大阪の連中には気を付けた方が良い」
 前歯が2本欠けた顔で聞きもしない事を言い出したので、適当にあいずちを打って別れたが、何故托鉢の話が出てきたのか、先ほど山門で出会った托鉢の事もあって、不思議なこともあるものだ。
 11時10分、昼飯には少し早いが、国道筋にある食堂でカレーライスを食べ、今日は今まで最も多い9ヶ所の寺を回るので30分後食堂を出る。
 国道から別れた道を進むと弥谷寺へ向う登り道に出ると、昨夜同宿した女性遍路が暑いのでシャツを一枚脱いでいるところに出会った。お先に、と挨拶を交わして寺に向う。弥谷寺に向う道はきつく、階段も長く急で一段一段息を弾ませながら登る。
1時45分、ここの本堂は靴を脱いでお参りする唯一の寺で、読経の後、前回大師堂に参拝するのを忘れたので、また急な階段を登って読経を済ませて、本堂前に戻ると、先ほど出会った女性に会い、立ち話の際、バスと電車を利用して旅を続けていると話していた。初めは大学生くらいに思っていたが、30代とのこと、判らないものの一つは女性の歳だ。何があって30代の女性の一人旅を続けているのか、窺い知ることは出来ないが、何かの重みを背負っての旅なのだろう。
仏像の中でも観音様は一番心が安らむのは何故か

階段を降りたところにある観音様に手を合わせた後、ここから遍路道の途中に竹薮の葉が落ちたクッションの良い道を通り、出釈迦寺に向う。溜池を遊園地にした観光池を通り軽い登り道で、3時5分、出釈迦寺を先にお参りする。時間があればこの先にある捨身ヶ嶽禅定を登る予定だったが、1時間半ほど掛かると言われて時間的に不可能と判り諦めて曼荼羅寺に向う。
3時25分、曼荼羅寺の境内で広島のYR氏と7度目の再会を果たし、お互い良く会うものだと言いながら別れて甲山寺に向う。
4時5分、甲山寺に着く。この寺はこじんまりした寺で、良く見ないと判らない位目立たない寺だ。
今日最後9度目の寺、弘法大師空海誕生の地、善通寺に着いたのは4時40分、辺りは既に日が落ちて薄暗かったので、急いで広い境内の両側にある、本堂と大師堂を参拝して納経を終えたのは、5時丁度だった。
5時15分、今夜の宿、山本屋本館は赤門の傍にあったが、薄暗かったので探すのに手間が掛った。
女将さんに言われて洗濯物を手渡し、風呂に入るとYR氏が洗濯をしていたが、彼は金が無いので食事はしないと言っていたので、それが洗濯の差のようだ。彼の部厚い胸を見てこれなら二晩や三晩の野宿に堪えられると納得が行った。
部屋に戻ると級友のAKから、頑張っているな、と激励の電話を受ける。日記を付けながら今日一日9ヶ所の寺を回って忙しかったが、毎日毎日色々の出来事があるものと感心する。 明日の宿を国分寺の民宿あずさに決める。

500米と900米の山越えの33キロは古稀を過ぎた身にはこたえる

26日(32日目) 金 晴れ後曇り 19℃ 33,0km(965,0km) 讃岐(香川)入り
江之元屋―六十五番三角寺―番外霊場椿堂―民宿岡田―六十六番雲辺寺―六十七番大興寺山本町民宿おおひら 6500円
朝ご飯はあの台所で料理したのかと思うと食欲も湧かないが、今更食べない訳には行かないので何とか食べ終える。精算した後、7時、玄関で女将さんが、
「昨夜は失礼したので、この袋を持って行って下さい」
 重そうなので中身を見ると、ミカン3個と握り飯にコーヒー缶が入っていたので、
「荷物が重くなるので申し訳ないがミカンだけ頂きます、女将さんのご好意は痛いほど判るが、我々歩き遍路にとっては、荷物が増えることは一番の苦痛ですので、何とかお願いします」
 固辞するのに大変だったが、ミカン1個だけ頂いて玄関を出た。女将さんの必死の願いを断ったことに就いて、胸中忸怩たるものがあったが、きっと判ってくれるものと思う。
 宿を出て踏切を渡ると、合併後の「四国中央市」の役所の前を通り、昨夜泊らなかった民宿大成荘の玄関をあけると、女将さんと旦那が顔を出したので、昨夜間違って泊った事に就いて詫びを入れ、補償に就いて如何程と伺うと、
「貴方は悪意で他所に泊ったことではないが、家も其れなりにお金も掛ったことでもあり、二千円頂戴したい」
 財布から二千円を出して、宿の夫婦に改めてお詫びをして玄関を出た。
 国道を突っ切ってそのまま緩やかな坂を登る。宅地造成地の中を通ったが、前回見た時と同様空き地が見受けられた。高速道路を通り抜けて直ぐ左に曲がり、遍路道に入ったが遠回りのコースを通ったようで、偶々ウォーキングしていた初老の人に道を尋ねると、立派な建設会社の社長宅まで案内してくれた。礼を述べて暫く登ると二股道に出たので、思案しているところに、「右方向」の声が下から聞こえてきたので下の方を見ると、先程の人が後から付いて来たらしく、思わず杖を振って感謝の意を伝えて右方向の道を登った。有り難い事だ。
もや掛った瀬戸内をバックに煙は真っ直ぐ天を指す

ここからの登りはきつく、暫くコンクリート遍路道を登ると車道に出たので、三島市大王製紙工場の煙突から煙か水蒸気が真っ直ぐ上に立ち上っているのが見えたのでカメラに収める。間もなく8時25分、標高500米の三角寺に着いた。
 山門にある鐘を撞いて境内に入ると、広島のYR氏が居た。これで5度目の再会だ。彼は何故か雲辺寺に向けて急いで寺を出て行った。前回この寺が丁度一ヶ月目で、鐘楼の鐘を撞いて供養した人たちの顔を思い出し、涙が止まらなかったことを思い出し感無量の気持ちになる、あれから4年半。
納経を終えて、雲辺寺へ向かう道は緩く長い下り道が続く。10時7分、400米下りたところに新しく建て替えられた椿堂で、水を飲んで喉の渇きを抑える。間もなく国道に出ると、今度は逆に緩い登りが境目トンネルまで坦々と続く。
境目トンネルを過ぎると一旦徳島県に入る。緩い道を下る途中、11時半、水車のある食堂に入り小上がりに荷物を置き靴下を脱いで天ぷら丼を注文する。順調に行くと今頃星ノ森に居る頃と思い、MY氏に電話したが通じなかった。何時もならこの時間帯はゆっくり休養に当てるのだが、今日は雲辺寺越えが待っているので25分後食堂を出る。
食堂を出て間もなく民宿岡田に着いたので、主人を探したが留守なので、玄関横の電話機のメモに、「会えなくて残念だったが、これから雲辺寺に向う」とのメモを残して玄関を出る。前回泊った折、私が供養した家族に宛てて葉書を書いている姿を見た後、納経帖に供養している故人の名前が書いているのを見て、岡田さんは。
「貴方は良いことをしている、このような納経帖を見たのは初めてだ」
 と感に堪えたような言い方をしていたが、後で人から聞いた話によると、前年奥さんを亡くしたので、一層感じ入ったようだ。
民宿岡田を出て間もなく、道路が一部決壊して車が通れない部分に気を付けて進む。高速道路の下を通って、愈々標高900米の雲辺寺を目指して急峻な遍路道を登る。途中幾度か息を整えてまた登ること数度で、鉄塔のある台地に着く。ここまで来ると後は緩やかな登りの約3キロの道程は意外に長かった。
八十八ヶ所最高点雲辺寺の五百羅漢像は表情豊かに迎えてくれる
1時50分、八十八ヶ所の寺の頂点、標高910米の雲辺寺に着く。流石この高所ではウインドブレーカーが必要だ。何時もの通り焼香、読経の後、納経所で押印して貰う。ここから先は讃岐の国香川県に入る。裏門からロープウェイに行く途中にある、五百羅漢像をカメラに収めて、大興寺に向けて、急な下り坂を膝の負担を抑えながら慎重に下る。半ば下った辺りで、休憩している広島のYR氏と6度目の出会いだ。彼は登りには強いが、慎重に下るので追い付くことになる。彼の話によると、二日野宿して次は宿に泊るペースらしく、今日は下の大師堂に泊る予定とのこと、夜食は如何するのか聞いたところ、
「キャラメルとチョコレートがあるので何とか成る」
 これを聞いて参った。毎日、風呂に入った後、不味いながらも民宿の食事を腹一杯食べる歩き遍路も居れば、野宿三昧の遍路もあって、島倉千代子ではないがまさに「遍路も色々」だ。途中の畑では玉葱を並べた状態のまま植えてあるのには驚いたが、後から土を掛けるのかな。所変われば遣り方も色々有るものだ。
彼は大師堂を探すので部落の中に入っていった。この辺からの道は緩やかな下り道が続き、5時間の予定が4時間少々で大興寺に着いたのは4時20分だった。
 納経の後、大師堂横から裏手にある民宿おおひらに入ったのは4時35分だった。民宿としては松山市珍屋以来の鉄筋コンクリートの建物だった。
 食堂には大きな鏡があって、ホテルの宴会場の雰囲気がある。客は女性遍路とマイカー遍路夫妻で共に区切り打ちと一緒になり、歩き遍路に就いて一日何キロほど歩くのかと聞かれたので、
「この一週間は毎日平均35キロ前後を歩いているが、特に今日は500米と900米の山を二つ登っての33キロはきつかった。八十八ヶ所全部周っての一日平均は31キロかな」
 三人とも次元の違う話の感じで聞いていたようだ。
 家内からの電話によると、従姉が亡くなったと知らせて来たので、明日大興寺薬師如来に供養することにした。埼玉の長女に4日頃埼玉に行く予定とメールで伝える。
 今日は疲れたので日記を書くのも億劫だが、眠気覚ましにガムを噛みながら何とか書き終えた。明日の宿はお大師様誕生の地、善通寺市の山本屋旅館を予約する。

遍路日和にしては宿を間違えたり、可笑しなことが起きた一日だった

25日(31日目) 木 快晴 18℃ 35,3km(932,0km) 予約しない旅館に泊る
BHさぬきや―新居浜市―番外霊場延明寺―伊予三島市江之元屋 5400円(2軒分)
 朝目覚めると6時25分、急いで支度をして7時宿を出る。未だ明けやらぬ踏切を渡って、国道11号線に出る。朝飯を食べていないのでビスケットを口に入れる。車が増えだした車道脇の歩道を歩くが、幅が狭いところが多く、向うから来る人がいるとお互い譲り合って新居浜市を目指す。途中で松下寿電子工場前を通ったが、一部閉鎖する工場もあると新聞で見たが、この工場はどうなるのか。暫く進むと今治方面への道と交差する歩道橋を渡ると、ビジネス旅館小松で同宿した夫婦連れが反対側の歩道を歩いているのが目に入り、お互い杖を振って挨拶を交わす。食堂を探したが中々見付ける事が出来なかったが、漸く喫茶店があったので、モーニングセットを注文する。20分ほど掛けて食べ終えて夫婦連れを追った。
新居浜市の旧街道に入り漸く奥さんが先導する形で歩く姿が視界に入った。追い付いたところで改めて自分の名刺と納め札を交換し、福岡県KH夫妻と判った。奥さんは小柄だが体力があって、主人と同じ大きさのリュックを背負い、
「主人も仕事を離れたので、夫婦で何かを、と歩き遍路の旅に出たが、朝早く出ることを信条にしているので、何時も朝ご飯はお握りで済ますようにして今朝は6時宿を出た。ところで貴方は随分足が速いがお歳は幾つですか」
 72歳と答えると二人は唖然とした顔をして、
「主人は62歳なので似たような歳と思っていたが72歳とは」
今日で三度目の出会いだが、今後二度と会うことが無いと思うと、これも一期一会の世界か。別れの挨拶を交わして先を急ぐ。暫く歩いてから後ろを振り向くと、遥か遅れて二人の姿があった。
やがて長いアーケードが続く喜光地商店街を歩くと、魚屋で見たことがない平べったくて細長い魚があったのでカメラに収めながら、
太刀魚は小骨が多く味も淡白で、魚は北海道に限る

「私は北海道のもので、こんな魚は見たことがないが魚の名前は何と言うのか」
「これはタチとも太刀魚とも言う。あれは鰆(さわら)と言う」
 他所の土地を回ると得体の知れない変な魚に出会うことがあるがこれも勉強になる。
 商店街を抜けて間もなく異臭が漂ってきたので、何かと思いながら先を見ると、便所の汲み取りをしているところで、見た目には灯油を運ぶ車に似て、タンクの上部の脱臭管?からの白い煙が出ていた。タンクはステンレス製で、臭いがなかったら灯油を運ぶタンクローリーと間違える。その家の奥さんに話を聞くと、
「この地区は水洗が普及していないので、今でも一回約3000円払って運んで貰うが、今は家族数が少ないので年に3回か、精々4回程度」
「北海道では田舎は別にして水洗が普及しているので汲み取りするのを見たことがない」
「四国は貧乏だから。北海道は良いなー」
昔は何処の家でも汲み取りする時は、茶殻や香を焚いて臭い消しをしていたことを思い出す。
再び国道に出て峠に向う登り坂が工事中で渋滞していた。右側を見ると収穫の終わって棚田が階段状に遠くまで連なっていたが、煙が遠くに見えたのは収穫後の籾殻でも焼いているのか。
峠(H159米)を越えるとまた旧道に入る。旧土井町で今は「四国中央市」と言う、何の変哲もない可笑しな名前に変わっていた。
 懐かしい関川小学校が見えて来た。前回は樹齢100年近い染井吉野が枝に花もたわわに付けて満開の状態で私を迎えてくれたが、今は葉もすっかり落ちて枝が透けて見えた。この先会うことも無い桜の老木に触れて別れを惜しんだ。同時にあの時、桜にまつわる話をしてくれた、この小学校の大先輩で、当時80歳の古老は元気なのかと。
 国道を横切って再度踏切を渡ると、番外霊場延明寺があった。ここはお大師様お手植えの松に触れて足の悪い人が治ったことで、「いざり松」の名で知られる霊場である。お参りした後、12時20分、伊予土居駅前の大衆食堂に入り一先ず荷物を降ろす。
既に二人の先客があって大きなコップで焼酎の水割りを呑んでいた。そこへ青いジャンパーを着た中年の女性が見えて、これも焼酎の水割りを注文する。場が何となく白ける感じだった。これはとんだところへ来たとの嫌な予感が走る。また一人男の客が来て同じく焼酎の水割りを注文して呑みだした。女将といっても、70代の薄汚れた婆さんだが、注文を聞いたので、定食を注文する。
定食の中身はお粗末な小さな見たことも無いような魚の煮物と、お汁に漬物だけだったが、朝パンを食べたきりで腹が空いているので、何とか腹に収める。その内、前から来ている客の一人が、
お四国さん、どちらからお越しですか」
「北海道からです」
 すると客の4人が一斉に、「北海道!」
「これは珍しい、今頃雪が降っているんでしょう、今日で何日目ですか」
「先月の25日からで、今日で丁度31日目ですが、実は2度目の遍路です」
町村外相も北海道出身で、将来の総理大臣候補間違いなしだ」
「私は札幌の東隣の江別市と言うところに住んでいるが、そこは町村さんの選挙地盤で、彼のお爺さんは北海道酪農の父と言われている一人です」
 これを境に店の雰囲気が変わり、話に花が咲いた。その内、一番先に声を掛けてきた客がしつこく酒の酔いも手伝って、北海道の人口は500万人程度か、鈴木宗男は今如何しているのか、とか何故か北海道のことに詳しいので適当に話を合わせていると、中年の女性が突如ビール瓶を手に持ってその客の頭を殴りかけたので、思わず女将と別の客が後からその女性の瓶を取り上げたので、事なきを得たが、とんだ事になったものだと思ったら、別の客が後ろ向きの女性の頭を指差して、頭の横を手の指を開くまねをしたので初めて彼女の病気が判った次第で、若しまともにビール瓶が当たったら大変なことに成った筈だ。彼女は私が苛められていると思い、それを阻止するため殴りかかったものらしい。
 その内絡んだ男は知らぬ間に店を出て行ったので、私も出て行く準備をしていると、最後に来た客が、
「ウーロン茶で大したことは出来ないが、これも何かの縁でお接待します、ところで貴方の歳は幾つですか」
「逆に貴方たちから見て何歳くらいに見えますか」
 女将は60歳かな、一人の男はいや未だ若い57か、いや60歳位か等と三人で話していたので、免許証を見せながら、
「昭和7年生まれの72歳です」
 三人は信じられない顔をしていたのが印象に残った。1時15分、店で売っていたウーロン茶を2本有り難く頂戴して店を出た。
四国では年齢のことを尋ねられる度に、驚かれるのを見るのも悪くは無いが、確かに頭髪は歳の割には黒く、それ程禿げ上がっていないので、荷物を背負って平地を歩く姿を見ると、70代には見えないようだ。老けて見られるより良いか。
春の椿と秋の山茶花の花は我々道産子には見分けが付かない

伊予三島に向う道は国道に沿った旧街道は所々に小さな町がある程度で、旧家の塀際には山茶花の花が咲き、庭には手入れの行き届いた、黒松や五葉松等の枝振りも見事な庭木を見ながら歩くのも目の保養になる。この地区は裕福な感じがする家々が多く見受けられた。
天気も良く風も無く車も少ない旧道を歩くと心が浮き立つ気分になる。伊予三島に近付くにつれて、煙突から真っ直ぐ登る水蒸気や煙を出している大王製紙の工場が見えてきた。市内に入るとこの工場の城下町らしく、紙を加工する工場が目に入る。遍路道を外れて三島市内に入る道を通り、駅横の踏切を渡ると今夜の宿、江之元屋は直ぐだった。
3時40分、玄関の戸を開けて声を掛けても誰も出て来ないので、荷物を玄関の空いた場所に置いて、髪の毛も伸びて来たので床屋に行くことにして外に出る。
近くのアーケードのある商店街は生憎休日だったが、床屋だけは開いていたので入ったが客は居なかった。久し振りにゆったりした椅子に座り、2ヶ月振りで鋏を入れてもらう。一通りの髭剃りと洗髪を終えると、マッサージ機で肩から腰に掛けて丹念に揉んでくれた。サービスも良かったが、何時もの倍以上の値段も良かった。
宿に戻ると女将さんが玄関の外を掃いていた。案内された部屋に荷物を運んで、先ず洗濯機に洗物を入れてから、建物の割には立派な風呂に入り、何時もの様に足を揉んだが、足も漸く靴に馴染んできたのか痛みは無かったのは何よりだった。
部屋に戻ると、テーブルの上にコーヒーと大福に梨が皿に盛ってあったので、随分気の効いた扱いをするものだと感心しながら食べる。何時まで経っても食事の呼び出しが無いので、階下に下りて、カーテンを開けると其処は台所で、所構わず食べ物やら衣類やらが雑然としていたので慌ててカーテンを閉じて居間に入り、皿を返して女将さんに食事の具合を聞くと、
「お客さんの泊る話は聞いてない、今日は二人泊るだけの分しか用意してないので、食事は外でお願いします。ただ明日の朝食は用意します」
 ここで初めて別の民宿に予約したことが判った。道理で女将の様子が可笑しい訳だ。止む無く部屋に戻り、予約した民宿大成荘に電話すると、
「貴方に電話したが通じなかったので、やきもきして居たところで、今何処に居るのか」
「実は間違って別の民宿に泊ることになったので、明日お宅に伺って宿泊代を弁償するので今日のところは勘弁して欲しい、明日朝7時過ぎには間違いなく伺います」
 電話ながら平謝りして、夜の街に出かけたが、商店街は休日で店が開いているところがなく、漸く横丁に中華料理屋があったので其処に入り、先ずはビールを注文し、ビールのつまみにシュウマイを頼むと、驚いた事に冷凍庫からカチンカチンのシュウマイを取り出して、チンしたのを皿に盛って来たのには参った。腹も空いたので無難な炒飯を頼むと、これも袋のままチンしたのを、袋から出して皿に盛って来たのにはまたまた驚いた。早々に精算して店を出たが、今日は憑いてない一日だった。
 部屋に戻り前回の旅で半月ほど一緒に歩いた、静岡のSH氏に暫く振りに電話して、目下遍路の真っ最中と伝えると、
「自転車に乗って側溝に落ち神経の麻痺で、2年間ほど入院して最近退院した」
 道理で年賀状を送っても返信が無い訳を初めて判り愕然とした。彼も私からの年賀状は気にはしていたが其れ所ではなかったとのこと。彼に薬師如来に病気の平癒を祈願すると伝えた。
 とにかく今日一日思わぬことばかりが続出したことを日記に記すが、書くことの多い一日だった。この二三日何故かルームキーを返さなかったり、宿代を払わなかったり、今日は今日で宿を間違えたりして、我ながら困った男だ。これで良く何十年も大過なく過ごして来たものだ。
明日は愈々三角寺から雲辺寺に掛けての強行軍が待っている。

昨日タオル屋で聞いた横峰寺への情報が支えになった

24日(30日目) 水 晴れ後薄曇 18℃ 34,8km(896,7km) 横峰寺へ車道歩く
小松ビジネス旅館―六十三番吉祥寺(きちじょうじ)―六十番横峰寺―星ノ森―六十番横峰寺―京屋旅館―六十四番前神寺(まえがみじ)―伊予西条市BHさぬきや 4000円
 朝食の時、昨日の夫婦の姿が見えなかったので先に出かけたようだ。握り飯をリュックに詰めて6時50分、旅館を出て宝珠寺に向う。
7時10分、一番乗りの本堂で、故KT(嫂)故KT、故AK(何れも級友の父)を供養する。納経の際、横峰寺への道筋を聞くと、車道を通ると行けることを確認して、7時20分、信号二つ目を右折して石槌山ロープウエイに通じる県道に入る。間もなく高速道路の下を通り道は段々急になる。所々に台風で崩落した崖崩れの痛々しい跡が目に入る。車道では小型車が何台も追い越して行く。上から久し振りに香川県のMK氏が降りて来るのに出会う。
「Kさんと今ここで会うとは。もう大分先に行っていると思っていたが」
高知市で一日観光したので」
彼の話を聞くと、昨日横峰寺に行き、京屋旅館に泊ったとのこと。序に道路の状況を聞くと、
「車道は小型車が何とか通れる程度だが、歩くには数箇所危険な箇所がある程度で問題は無い」
 別れ際彼に、カンロ飴を差し出し、お互いの無事を祈って握手して別れたが、彼とは確か高知市手前の国分寺以来の再会だったが、彼は二度目の今回は雲辺寺で結願するので、これで二度と会うことが無いと思ったので後ろを振り返ると、例の黒っぽい菅笠を被り、特徴のある両肩を軽く左右に振って右手に杖を手にした恰好で坂を下って行った。
 道幅が急に狭くなってきたところを抜けると、ダムに通じる広い道に出た。
左に歩くと仮納経所に行くが、右に曲がって間もなく8時20分、京屋旅館に着いた。
上からの鉄砲水は下へと一気に流れ落ちた凄まじさ

休まずそのまま車道を歩いたが、崩落箇所が随所に見られ、恐る恐る下を覗くと足がすくんでしまう様な恐怖に襲われた。その上は上から鉄砲水で運ばれてきた倒木が至るところに散乱して、台風23号の被害の大きさが判った。ダムに目を転じると台風があったなど想像つかない静寂が辺りを支配していた。
 何箇所か車道の補修工事で重機を使っている数人の人たちを除いて、人の気配は全く感じられなかった。その間小型車は何台かすれ違ったが、危険な箇所も随所にあるので慎重運転に徹しているようだ。
 上から人が降りて来る気配がしたので、良く見ると、昨日仙遊寺で会った女性の遍路で、
「昨日野宿ですか」の問いに、「え、そうです」そっけない言葉を残して急ぎ足で坂を下って行ったが、夕べは何処に泊ったことやら、朝は寒かった筈。
 つづら折りの急な坂道の上を見ると、一人の遍路がゆっくりした足取りで登っていたので、「どちらから」の問いに、「岐阜ですが、疲れました」との答えが返ってきた。彼を追い越して少し平坦な尾根に出た先に、前回香園寺に下りた遍路道があったが、今は閉鎖されていた。
 標高745米の横峰寺に着いたのは10時5分だった。吉祥寺から片道3時間で着いたことになる。納経所に若い坊さんが居たので、遍路道の改修に就いて聞いたところ、当分見込みが無いとのことだった。境内では5人ほどの工事関係者が、一部破損した建物の補修に小型重機を使って作業をしていた。汗が引くと共に寒さが襲ってきたので、白衣の上からウインドブレーカーを着込んで、500米先の星ノ森に向う
四国の霊山「石槌山」は修験道場の山として立山、白山と並び称される

10時35分、星ノ森に着いた。ここは弘法大師を始め役の小角(えんのおずぬ)の修行の場として古来から有名で、前回登った際、下を覗くと真っ暗闇の谷底の向うに、快晴の空に春先の雪を被った石槌山の壁を見て、余りの神々しさに足の震えが止まらず、やっとの思いで鉄の鳥居(200年前建立)に捕まったことを思い出す。今日は残念ながら雪も無く、天気も良くなかったが、石槌山の黒々とした山容を包むように、点々と小さな雲が壁とその上の空に張り付いたように浮かんでいた。MY氏には、是非星ノ森から石槌山を見るよう話したが、明日の天気も余り期待できないようだ。下り道で岐阜の男と会ったが、
「曇り空で残念ながら薄ぼんやりた石槌山しか見えないが、見る価値は有りますよ」
「そうですか、それは残念だな」
 彼も期待していたらしい様子だった。10時50分、山門をカメラに収めた後、裏口から元来た道を下る。途中で泰山寺であった遍路とすれ違ったので、
「この先の道は問題ないが、後1時間ほど掛かるので頑張って下さい。出来れば星ノ森まで寺から500米ほど先だが、見るだけの価値は有りますよ」
 一応励ましたが、可なり疲れた様子だった。下り道が急なので足の指先に痛みが出て来たので、足先に負担を掛けない様、踵に重点を置く感じで慎重に下る。工事現場の人に、
「今日は何人ほどの遍路が通ったか」
「今まで8人ほどだが、普段は一人か二人かな、今日は何故か多い」
 確かに私を含めて8人だったが、良く数えていたものだ。
 京屋旅館に着いたのは、12時10分だった。歩き遍路は多少距離的に長くても横峰寺を目指すが、バスツアーはダムに沿った仮納経所まで行くので、この旅館が中継地点となる。座敷に上がり、うどんを注文する。バスツアーの客は食事を済ませて出て行ったばかりだった。昨夜の夫婦連れも店を出るところで、
「山に登らず、仮納経所で済ませたが、途中の谷間の紅葉は素晴らしかった」
と話していた。うどんをお汁替わりに宿のお握りを食べる。何時も通り時間調節に1時間弱費やし、1時京屋旅館を出る。
下り道で足先に負担を掛けない様若干ペースを落とす。高速道路の下を通り、右側の前神寺に向かう道に出て、また高速道路の下を通り直して前神寺に向う。この付近の農家は割りと裕福な造りの家が多く、手入れの行き届いた庭木や五葉松の門構えも中々の出来映えのものがあった。
干し柿を吊るした情景は道産子には憧れの的だ

また珍しく軒下に干し柿を吊るしているのが目に入り、丁度初老の主人が車で帰って来たので、
「北海道の者だが先ず干し柿を吊るす風情は見る機会が無いので、是非写真に撮らせて欲しい」
「北海道からかそれは大変だな、ゆっくり撮りなさい、昔は何処でも柿を吊っていたものだが、最近はミカンが主力となったので殆ど見ることが無い」
 何処の世界でも構造変化が起きている様だ。前神寺までの道は思ったより長かったが、見覚えのある石槌神社の大鳥居が目に入ってきた。前神寺の石の門柱の前で、当時雑誌記者に、是非遍路のモデルになって欲しいと頼まれて、歩き出したものの、緊張の余り左足と左手を同時に出して、雑誌記者に笑われて撮り直したことが思い出され一人苦笑する。その時撮りそこなった山門らしくない山門をカメラに収める。
 2時35分、前神寺に着く。納経を済ませた後、湯之谷温泉を横目に見ながら進むと国道11号線に出る。そのまま直進し、加茂川橋を渡り、二つ目の信号を左に曲がって、伊予西条駅横の踏切を渡ると間もなく、今夜の宿、ビジネスホテルさぬきやに着いたのは4時丁度だった。
 洗濯機に洗い物を放り込んで風呂に入る。風呂で疲れた足を揉んだ後、指先を見ると爪が剥れかかっていたので、念の為テーピングする。主人に西条市内の焼肉店を教えてもらう。洗濯物を部屋に吊るして、商店街の明かりが灯る道を通り、文化センターの直ぐ傍の焼肉店に出かける。6時にしては客は私だけだった。ここも不景気なのかな。
早速大ジョッキーを呑みながら何時もの様に、ロースにタンと上ミノを焼いて口に運ぶ瞬間は何とも言えない。酒も一本熱燗を頼んだので、上ミノを追加する。その後、キムチと若布スープに熱いご飯を食べたら極楽世界に浸った感じだった。この程度のことならお大師様も大目に見てくれるだろう。精算すると3300円は先ず先ずか。
 ホテルの戻り、供養した3人の家族に宛てて葉書を書き、今日一日の日記を付けたが、海抜ゼロからの800米の星ノ森に登った35キロは価があった。

座右の銘「継続は力なり」言うは易く行うは難し、重い言葉だ

23日(29日目) 火 快晴 17℃ 33,8km(861,9km) お接待弁当タオル屋で食べる
笑福旅館―五十六番泰山寺(たいさんじ)―五十七番栄福寺―五十八番仙遊寺―五十九番国分寺―六十一番香園寺―六十二番宝珠寺(ほうじゅじ)―小松町小松ビジネス旅館 5930円
 宇和島の三人組みは6時頃に宿を出て行った。6時55分、宿を出ると朝冷えがきついので軍手を着用する。今治駅前通りを真っ直ぐ進むコースが泰山寺への道で判りやすかった。
7時43分、泰山寺に着く。境内で以前どこかであった感じの遍路と会う。故OT(友人の妻)の供養を済ませたが、一瞬で失う命のはかなさを知った。納経を終え、山門を出て栄福寺への道を進むと、先ほどの遍路が、「お先にどうぞ」の声を掛けられたので彼を追い越す。間もなく遍路道に差し掛かる。
8時25分、栄福寺に着く。
どれ程この車を引いて歩いたことか、お大師様も良い事をしてくれる

納経を終えて本堂横にあった、いざり(差別言葉だが)車をカメラに収める。足の悪い人がこの車を引いて遍路の旅の途中、この寺で足が治った由来を前に聞いたことがある。そこへ、
「間に合って良かった、毎日お四国さんに弁当を届けているが、最近は歩きの方が少なくなって来たので。全部私が作ったものですが、良かったら食べて下さい」
 お接待のお礼を述べて弁当を頂く。
泰山寺で会った遍路が見えたので、いざり車を見せてその由来を説明すると、
「良いことを教えてもらった、お大師さまも見守ってくれているのだね」
快晴で「しまなみ海道」の来島大橋の橋脚が白く並んで見える

仙遊寺へ登る道から「しまなみ海道」の橋脚の鉄塔が見える。間もなく急な遍路道に差し掛かると、上から二十歳前後の女性が降りて来たので、「野宿ですか」と声を掛けると、「そうです」と返事があったので、「気を付けなさい」と言葉を掛けたが、若い女性の野宿は問題だが。
山門からの登りは一層きつくなる。以前70名山近くを登ったSTさんと一緒に登りながら、高さこそ低いが急な登りだけに、
「山登りしているからこの程度だが、しない人は大変だな」
 その言葉を思い出しながら、喘ぎ喘ぎ登ると視界が開けてきた。大勢のバスツアーの人たちがお経を上げていたが、何故か白々しい響きが耳に聞こえる。
東京のKKさん曰く、「歩いてこそ遍路」
一気に山を下り、田園風景が広がる町を通り抜けると伊予の国分寺があった。
11時7分、国分寺に着いた。先ほどのバスかは知らないが、数台駐車していた。本堂,大師堂前にはツアーの人が例の通りお経を上げていた。
納経の際、横峰寺遍路道の状態を聞いたところ、けんもほろろに、「何も聞いていない」の一言だった。
門前のタオル屋に向かうと、若旦那(34歳)が小さいタオルを差し出したので、4年前来た時生憎店は休みだったことを話すと、
「それは申し訳なかった。タオルを進呈するので、座右の銘と色を教えてもらえないか」
「それでは『継続は力なり』を、色は青色で書いて欲しい」
 彼は店の中に入り間もなく出てきたので、
「庭先で申し訳ないが、お接待の弁当を貰ったのでここで食べても良いか」
「どうぞ遠慮なく使って下さい」
 テーブルに弁当を広げて食べていると、彼は店内からタオルを持ってきたのを見ると、タオルに、
ゴルフの汗拭きに使っているが、その度に彼の笑顔を思い出す
青色で「継続は力なり」が刺繍されていた。先ほどのカチャカチャの音はパソコンに連動してタオルに印字している音だった。
「これは有難い物を頂いた、大事に使わせて頂きます。ところで横峰寺への遍路道の状況が判らないので何か聞いてないか」
「電話で聞いて上げるから少し待って下さい」
店の中で電話しているようだった。
「宝珠寺から国道を右折する車道を通って行くのが唯一の道で、ダムの傍の京屋温泉からの道は荒れているが歩いて通れる」
 貴重な話を聞いて感謝に堪えなかった。この情報で今までの不安が一掃された。
 記念に彼の写真を撮り、カメラを彼に渡して弁当を食べているポーズを撮ってもらった。別れ際に名刺を差し出すと、彼も名刺をくれたので、後日帰ったら写真をメールで送ることを約す。
 彼と握手を交わして店を出たが、タオル屋のお接待は何物にも変え難いひと時だった。
 国道196号線目指して線路に並行した道路を歩く先に、国道の信号が見えて来た。緩やかな登りの途中に、記憶にある伊予桜井漆器会館を左手に見て、1時、右手に「道の駅湯ノ浦」があったので、椅子に座って車の流れを見ていると、傍に居た中年のおばさんが「ミカンをどうぞ」と、差し出したので早速頂いたミカンを食べると、甘い味が口の中一杯に広がってきた。小用を果たし再び国道を進む。右手の踏切を渡ると横峰寺に通じる遍路道だが、今回は登ることが出来ないので国道を直進する。単調な歩みに疲れが出て来たので、左手の洒落た喫茶店に入る。大洲でコーヒーを飲んで以来の本格コーヒーを注文する序に、若い女性の店員に香園寺に行く道を尋ねると、紙に道順を書きながら、
「前の国道を真っ直ぐ進み、二手に分かれるところを右方向へ歩くと国道11号線に出るが、その先は近所の人に聞くと直ぐ判る」
 親切に教えてくれたので飲むコーヒーも旨かった。
 東予市の繁華街を通り過ぎて両側の田園地帯を通ると、稲穂に自分の遍路姿が夕日を浴びて影絵のように動いている様子を、午前中見た瀬戸内の波間に浮かぶ姿と重ね合わしてカメラに収める。
やがて二股に差し掛かり右方向を進むと、大きな橋に出る。欄干にもたれて何気なく上を見ると、遥か彼方に四国の霊山「石槌山」が見えたのでこれもカメラに収める。国道11号線で信号待ちの人に寺を尋ねると、真っ直ぐ進むと子安観音の香園寺があると教えてくれた。
 4時15分、美術館風の鉄筋コンクリート造りの香園寺に着いた。正面から広角で写真を撮り、時間が無いので納経を済ませて直ぐ宝珠寺に向う。
4時45分、国道に沿った宝珠寺に着いた頃は日も暮れ掛って、何とか納経所の締め切りに間に合った。横峰寺への遍路道の状態を聞くと、信号を右に真っ直ぐ行くとお寺に着くような話し振りだった。
どこの寺の人も何故か官僚的な物言いには呆れるばかりだ。何様だと思っているのか。
 5時5分、小松ビジネス旅館は直ぐ判った。二階に通されて荷物を出してから、洗濯機に洗物を入れた。後から来た夫婦が風呂のことを聞いて来たので、お先にどうぞ、と伝える。
 荷物を整理してから階下に下りて洗濯機を見ると既に洗い終わっていたので、部屋のハンガーに吊るしていると、電話で風呂が空いたことを伝えてきた。
 食事の時、先ほどの夫婦が話し掛けてきたので、先月25日から遍路の旅を続けていることを話すと、この夫婦は九州の人で家内に合わせたゆっくりペースで歩いているが、貴方のように通し打ちの遍路に会わない、と言っていた。
 女将さんに横峰寺への時間と道の状態を聞くと、
横峰寺へは早い人で往復7時間から8時間掛かるが、所々台風で崩れたところがあるので気を付けて下さい。また、ダムに沿った仮納経所まではそれよりも時間は掛らない」
 序に昼食用の握り飯を注文する。
 部屋に戻り供養した家族宛てに葉書を書き、今日一日の日記を書いたが瀬戸内の風景が暫く頭から離れなかった。蒲団に入ってから明日の横峰寺へ向う山道の状況を考えながら眠りに就く。