「東海道野次喜多」ならぬ一人旅の道中記の始まりはじまり

旧東海道のルートと宿場
東海道五十三次」とは、起点の東京日本橋と終点の京都三条大橋間の、品川から大津までの53ヶ所の宿場を指し、昔は伊勢湾に注ぐ木曽川揖斐川長良川の三大河川は渡らず、宮から桑名間は舟で渡った。


沼津市千本松原越しに、東海道のシンボル「富士山」を望む(中腹に安永火口が見える)

 
東海道五十三次道中記
初めに
 平成16年秋、二度目の「四国八十八ヶ所歩き遍路」の旅から戻り、旅日記のインプットを終え、平成17年10月25日から12月1日37日間の記録を、季節感を伴うため一年遅れでブログによって送信し、一息付いたところで、来年は何処へ、と気もそぞろな日々を送る。
 その内、平成12年、春の「四国」を歩いた際、半月ほど共に遍路の旅をした、磐田市S氏が、良く旧東海道の街道巡りの話をした事を思い出し、インターネットで早速資料を取り出して調べる。
 その中で問題点としては箱根峠の登りが最大の難関と判った。その外、注意することとして、新旧東海道に限らず殆どがアスファルトの道路と車の多さだった。
 宿泊は四国と違い、街中を通るのでビジネスホテルを中心に考え、宿場では民宿に泊ることで何とか成りそうだ。
 二度目の四国では、靴底を張替えたばかりに直ぐ剥れて酷い目にあったので、今回はミズノのウォーキング・シューズを買い、事前に約200粁ほど履き慣らして、東海道五十三次500粁の旅に挑むことに成った。
 改めて携帯電話のメールの出し方を次女に教わる。
 NHK「東海道てくてくの旅」で、清水エスパルスの岩本選手の歩いた番組も非常に参考になった。
 4月以降、例年通り毎日の様にウォーキングで足腰を鍛え、準備万端整えて、京都三条大橋に着く日を紅葉真っ盛りの11月24日前後と想定して、そこから逆算し、11月2日新千歳を飛び立ち、さいたま市の娘宅に一泊し、3日9時、東京日本橋から京都を目指すことにした。
 平成18年11月2日、6kgの荷物を背に我が家を出て、12時20分、新千歳空港を飛び立ち、機上から間もなく真下に苫小牧や右前方に室蘭から羊蹄山を、前方に駒ケ岳を経て恵山の方まで見渡せる眺望を満喫しながら羽田に向かったが、猪苗代湖付近から段々雲が出て来て、東京は生憎の曇り空だった。
 東京駅に着いて、暫く振りに八重洲にある、「ブリッヂストン美術館」を訪れたが、再会を期待していた青木繁や坂本繁次郎等の絵画は、久留米美術館に移ったとのこと。丁度、ニュージーランドアボリジニの特別展が開かれていた。
 ここから5分ほどの所に、昭和37年から約2年間東京営業所に勤務した際、事務所として借りていた兜町3丁目の千代田会館が有るかどうか訪ねたところ、周囲の高い近代的なビルに囲まれて、4階建てのビルが未だ現存していたのには驚いた。1階は居酒屋になっていた外は2階の片側だけ入居していた。4階の事務所は当時の状態でドアも替わっていなかった。懐かしいので早速建物をカメラに収める。
 夕方5時過ぎJR北浦和駅で下車、久しぶりに長女と婿と二人の孫に会う。

皆様ご無沙汰しております。その後如何ですか。
約40日に及ぶ「第二回四国八十八ヶ所・・・」を、お読み頂き有難うございました。また多くの方々から感想を頂き紙上を借りて御礼申し上げます。
その後メール仲間には、メールにて文章のみを添付して送付しましたので、保存希望者は保存していただきましたが、写真入りのブログも保存したいとの希望があり、下記要領にて保存出来ます。
                     記
1、当ブログを開き、12月4日から11月4日(後期)のタイトルの
最上段左隅の「第二回」をドラッグし、最下段まで下げてShiftを押しながら「』」をクリックすると、全面範囲指定されます。次に編集ーコピーした後、タイトルバーをクリックして下方に下げ一時保留。
2、MicroSoft WORD(左上隅にカーソル)ー編集ー貼り付けー名前を付けて保存(好みの場所)
3、保留してあった文章を消す。
4、11月3日から10月22日(前期)までも同じ手順で作る。
5、両方を接続したい場合は、(前期)の文章を同じ要領でコピーし、(後期)の最下段にカーソルを当て、編集ー貼り付けで完成です。
以上で保存は出来ますが、私はWINDOWS XPを前提として説明したが、他の機種、ソフト等では保存出来ないことも有りますのでご了承願います。
来年の大河ドラマに登場する、千代が夫の山内一豊に贈った馬の像(高知城内にて)

では皆さん良いお年をお迎え下さい。   

生き仏?からタダの人を二度経験したが、タダの人に限ると思いながら

終わりに
 お袋と弟を始め親戚、友人、知己の新仏供養の旅を兼ねた、第二回「四国八十八ヶ所歩き遍路」を無事終えたのも、多くの故人が影ながら手を差し伸べてくれた賜物と心に刻んでおります。
思い残すこととして当初の目的だった逆打ちが、半月ほど前に襲った台風23号の影響で、遍路道はもとより車道も寸断された状況で、断念せざるを得なかったことだった。
前回は68歳、今回は72歳と4歳違いだが、60代よりも70代として、相手の受ける感じが全く違うのか、会った人々全てが私の歩き振りを見て、70代とは誰一人思いもよらなかったようだ。それと「北海道出身」が四国の人々から羨望の目で見られる。何故なら、せせこましい土地と人間関係が、道産子のこだわらない人柄と、土地は広大で景観に富み、食べ物の旨さが上乗せされて、一度でも北海道へ来た人はその虜(とりこ)になるようだ。
 巡拝セレモニーと並んで、節目節目の時間等は、自分なりのペースを出来るだけ詳しく記録した積りで、若し歩かれる方の参考にでもなればと思っています。
この旅で一番のハプニングは三日目、遍路転がしの難所の途中にある柳水庵手前で、先ず右足の靴底が剥がれた瞬間、俗に、「頭が真っ白」と言うことが、まさに発生したことだった。間もなく左足の靴底も剥がれて万事休すと思ったが、大工さんに貰った針金で、ぐるぐる巻きした靴に全てを託し、43キロ先の徳島市まで何とかたどり着いた。
然し徳島市内のスーパーで買った新しい靴が、これまた慣れるまでの間の半月以上、両方の足裏のマメと指先の靴擦れによる血豆と爪の剥れに泣かされたことだった。
その外、左下入れ歯を洗面所に落とし右奥歯だけで噛む羽目に陥ったり、ルームキーと宿泊料を払い忘れたり、宿を間違えて予約しない宿に泊ったり、カメラをバスに忘れたりと、大事には至らなかったのは不幸中の幸いだった。
歩き遍路に対して特に前回と違い、4年の間に接待する側と、接待される側に大きなギャップが存在したことに思い知らされた。それは単にお接待の額の多少ではなく、四国の人たちの歩き遍路に対する見方が大きく変わったことだった。一部のホームレスによる遍路まがいの振る舞いや、野宿の人たちの行状等も有るが、全国的にも県民所得の低い四国、特に徳島県高知県の人たちから見ると、我々のような宿に泊りながらの歩き遍路に対して、特異な眼差しを感じるように見えた。又、近年、ブームになっているバスツアーや車による遍路等も、土地の人から見ると遍路貴族に映るようだ。
今回は秋の遍路道を回ったが、前回の春爛漫花の遍路とは違い、当然人出も少なく、特に足摺岬の秋色漂う空と海、木々の間から尖塔を出す金剛福寺の堂塔が、春とは全く違った静けさを呈していた。また晩秋の根香寺の紅葉は筆舌に尽くせぬほどの素晴らしかった。偶々デジカメのメモリーカードが残り少なかったので、思う存分撮れなかったのは残念だった。
今回の旅で写した撮影枚数も300枚を越え、その一部を旅日記に掲載したが、その多くを写真集としてCDにしての一部の方々に贈ったところ好評を博した。今でも時折前回と今回の写真集を見ながら、数々の出来事を思い出しては四国の風景や出会った人々に懐かしさを覚える。
12月6日、夏日のさいたま市の長女宅を出て、前日降った白銀に覆われた新千歳空港に着陸し、我が家に帰って庭に一面の雪を見て、今更ながら四国と北海道との緯度の違いを痛切に感じ、これから雪の中の暮らしを思うと暗澹たる気持ちに襲われた。その思いも数日過ぎると消えて、間もなく原始林スキーへと気持ちが切り替わって行った。
足のマメも何時しか治り、4本の爪も少しずつ剥がれて新しいのに生まれ変わった。
年も変わり、二月頃から第二回四国遍路の旅日記のINPUTを開始、遍路中毎晩のように書いた原文を見ながら、又 遍路地図を参照して打ち込んだが、地図上のルートを辿ると、当時の出来事が鮮明に浮かび上がって来るから不思議だ。打ち込みながら当日出会った人々の姿が頭をよぎる。今頃何をしていることやら。
我が家を出てから京都東寺へのお礼参りまで含めると40日間の旅だったが、前回は初めての旅のこともあって、ただ歩くだけで周囲を良く見る雰囲気ではなかったが、二度目ともなると余裕も出てきて、これが今回約12万字の旅日記となった。
前回の旅日記は兄たちの好意によって一冊の本にまとめることが出来たが、今回は当初ホームページで送る積りだったが、ブログで日記風に送ることが出来る新しい情報手段が有る事を、我がパソコンの師、平山さんから教わったが、時間的な余裕も無く覚えたてのまま送ることになり、所謂見切り発車となったが、皆様には誌上を通じて、泥縄式を詫びながら何とか終えることが出来た。
メール仲間の外、全国の遍路フアンに目を通して頂ければと思い、「掬水へんろ館」の串間さんにお願いして、掲載の運びとなりました事を、誌上を通じて御礼申し上げます。
月日の経過とともに、何事も三度目、三度目の正直、二度あることは三度ある等々日本人は何故か三の字を好む傾向にあるが、まさにその三年後の閏年は平成20年で、小生の喜寿(数え77歳)の年でもあるので、体調が許されるのであれば、今度こそ三度目の正直?で逆打ちを成し遂げ、お大師様に会いたい思いにそぞろ気も駆られる。その前に世界自然遺産熊野古道を、出来れば高野山吉野山から紀伊半島を縦断する修験の道を歩けたらな、と思案している今日この頃である。あれだけ色々と酷い目に会いながら我ながら困ったものだ。
最後にお接待と餞別として頂いた貴重な志に、私の分も含めた3万円を、「へんろみち保存協力会」に寄付した事を付け加えさせて頂きます。
41日間にわたる旅日記をお読み頂き有難うございました。何かの参考にでもなればこれ以上の幸甚は御座いません。
師走に入り何かとお忙しい皆様方の今後のご健勝を祈願し、INPUTを終えさせて頂きます。
平成17年12月4日                      
幸 松  正

追って 
1、メール仲間の皆様には、拙い旅日記を読んで頂いたお礼に、これも昨年収録した拙いギター演奏ですが、映画「禁じられた遊び」の主題歌を送らせて頂きます。
2、日記を保存したいとの要望がありますので、WORDによる文章をメールで送りますのでご利用下さい。なお、ブログの保存方法は後日お知らせします。

今日から歩かなくて済むか、我ながらご苦労さんでした

3日 金 晴れ 17℃ 京都市東寺お礼参り バスにカメラ忘れる
BH大崎―大阪市京都市東寺―大阪市―神戸市UN宅
 食堂に下りると、客は既に出かけたようで、一人分の膳がテーブルの上にあった。マスターが居て、「お疲れさま、よく回ったね」と祝ってくれた。間もなくテーブルに朝食が運ばれてきたが、今まで食べたことも無いほどの料理が並べられていた。多分昨日の夕食を出さなかったことに対しての心使いと思った。全部食べ切れず3点ほど残して漸く食べ終えた。
 8時15分、二人に送られて徳島駅に向かう。バスターミナルで京都行きの切符を頼んだが、既に売り切れたので、止む無く大阪行きのバスの切符を買う。程なくバスが来たので乗り込んだが、客は数えるほどしか居なかった。バスは徳島の町を抜けて鳴門大橋を渡り淡路島を縦断するコースを走ったが明石大橋は長かった。神戸の町を右左眺めながら、震災の跡を追ったがバスから見る限りでは殆ど目に触れることが無いほど復興していた。
10時半、大阪駅前に着いたので中央郵便局でお金を降ろして、京都行きの快速電車に乗り込む。四国と全く違う風景を見ている内、カメラを入れたポシェットが無いことに気が付き、偶々通りかかった検札の車掌に事の次第を話すと、京都駅の忘れ物センターで聞いて欲しいと言われた。
京都駅で下車し、改札係りに忘れ物センターの場所を聞いて訪ね、忘れ物の種類と徳島駅のバスの発車時間と座席場所を話して調べて貰ったところ、確かに届けられてあったが、保管場所は北営業所で大阪駅のバスセンターで場所等を聞いて欲しいとのこと。良かった、若し出なかったら旅の写真の大半が失われたことになる。くわばらくわばら。
カメラをバスに忘れたので、「奥の細道」で写したのを拝借

新築の京都駅は何か黒っぽい装いで、京都とは馴染ない感じだった。駅の裏手から東寺の尖塔が見えたので、その方向に向かって歩を進めると築地塀に囲まれた東寺が目に入った。20年前、家族旅行で来た時に境内を見た際は、弘法大師に対する思いは左程無かったので、五重塔の大きさや、仏像が目に浮かぶ程度だった。又平成14年「奥の細道」車行脚の際、通り掛った程度で、三度目のご対面は格別の意味がある。
納経帖に記入捺印してもらい、前回の高野山に続いてのお礼参りを終え、空海誕生の地善通寺を含めた弘法大師空海三大聖跡を納経帖に記載した事になる。
腹も空いてきたので駅食堂街のレストランで荷を降ろし、先ずジョッキーを注文して渇いた喉を癒し、牡蠣フライ定食を食べる。
再び京都駅から大阪行きの快速電車に乗り込む。大阪駅のバスセンターで北営業所の場所を書いた用紙を貰った際、守口車庫行きのバスに乗るよう言われて、その守口車庫行きのバスに飛び乗った。頭の中は、北営業所ではなく、守口車庫がインプットされたままの状態だった。終点で皆が降りたので慌てて守口車庫で降り、歩いていた人に北営業所の場所を聞いても判らないので、タクシーが止まっていたので運転手に聞くと、ずっと手前に有るとの返事に驚き、そのタクシーに乗り込んで北営業所を目指して戻ることになった。知らない土地のことよりも、己の思い込みの馬鹿さ加減に頭が来たひと時だった。
北営業所でカメラを受け取った時は、ホットしたと言うより、自分のそそっかしさに呆れた思いだった。職員の話によると、何のことはない大阪駅までは三つ目の停留所とのこと。向かい側のバス停からバスに乗り込み、夕方の渋滞に巻き込まれながら何とか大阪駅に着いた。神戸のUN宅に電話、遅れた事を詫び、神戸三宮の地下鉄の乗り方を教えて貰い、地下鉄西神中央駅で待っている由。
夕暮れの大阪駅から電車で神戸に向かう。ラッシュアワーと重なり、リュックに縛り付けた菅笠と杖を持ったままの姿が珍しいのか、多くの視線を背中に感じる。神戸に着いたときは夜の帳が降りて真っ暗闇だった。聞いた通りの道順の改札口で西神中央行きの切符を買い地下鉄に乗る。30分ほどで着くと、改札口にUN夫妻の姿が見えた。何年ぶりかの再会だ。
二人に案内されて駅構内に有る「そごう」デパートの和食の食堂に入る。夫妻(夫人がいとこ)は数年前札幌から息子の居る神戸に転居した際、何れ四国の旅に出た時に、必ず立ち寄る旨の約束を果たした思いと、久しぶりに会えた喜びに三人でビールで乾杯。主人のUNさんとは仕事を通じて世話になった仲とあって、話題も四国の話やら近親者の消息等で、尽きることが無いほど楽しいひと時を過ごさせて頂き、且つご馳走になった。
彼らの住むマンションはここから5分ほどの距離にあって、15階建ての14階に住んでいる。部屋に入ると窓越しの遥か向うに、明石大橋の橋脚を支えるワイヤーがライトを点滅させていた。下を見ると明かりの点いた住宅が立ち並んでいるのが目に入り、高層マンションに居る事を実感した。通常一戸建てに住んでいると、今夜のような夜景は目に触れる機会がないだけに、暫く外の夜景を眺めていた。
夫妻の話によると明日の天気は良くないが、神戸の町を案内した後、有馬温泉に入り、神戸牛のすき焼きを食べる予定とのことだったが、明日は午後の新幹線で娘一家の住む埼玉に行く予定となっている旨を伝えて、申し訳ないがお断りした。
10時過ぎ、約40日間民宿やビジネスホテルで過ごした夜から解放されて、郁ちゃんの敷いてくれた蒲団に入り、明日長女一家、特に二人の孫に会える喜びを抱きながら眠りに就いた。

念願のお礼参りも済ませ、これからは、タダ?の人になるか

2日(38日目) 木 晴れ 17℃ 29,5km(1135,5km) 約束通りのお礼参り
白鳥温泉―讃岐相生―大坂峠―三番金泉寺―一番霊山寺徳島市BH大崎 5500円
 明日のルートが気になって中々寝付かれず、又時折廊下を行き来する物音もするので、益々眠気を催すことが出来ないが、その内知らぬ間に眠りに入った。目覚めて時計を見ると4時を指していたので、蒲団から出るのはまだ早いので、地図を見ながら今日のルートを頭に叩き込む。6時起床、リュックサックの中身を出して、雨の心配が無いので合羽類を下にして荷物の整理を終えたので、昨夜貰った朝食用の握り飯をほお張る。6時半過ぎ荷物を持って玄関に出ると、丁度職員が居たので、大坂峠越えで一番霊山寺までの時間を聞くと、
「早い人で7時間から8時間の間で着くが、普通9時間を見た方が良い」
 6時45分、宿を出たがまだ薄暗く、杖を握る手も冷たく感じられたので軍手を着用、緩やかな下りの車道を快調に歩く。歩くペースを計測すると、1キロ10分で時速6キロと、日々のウォーキングに近いペースだった。間もなく県道40号線に出て、そのまま国道の信号を真っ直ぐ進むと溜池が右手に見えてきた。勾配の急な坂道を登り切ると、下から高校生が自転車で息せき切って登ってきたので、「ご苦労さん」とチョコレートを差し出すと、「有難う」の返事が返ってきた。
後は暫くこの県道を真っ直ぐ進むので、迷う心配はないようだ。間もなく高速道路の下を通り、川を渡ると、「光洋精工」の引田工場にぶつかったので、左に左折して工場の敷地を迂回する。海辺に出ると、小魚を干していたので、「何の魚ですか」と聞くと、「シラスを干しているところだ」
今なら虫も居ないので干すには良い時期かもしれない。
10時、讃岐相生駅前の国道11号線に出て、この先大坂峠を越えて暫く食堂が無いので、昼食にはまだ早いが近くのうどん屋に入る。セルフでうどんに卵と揚げを追加して食べたが、腹が空いていたので旨かった。
店を出るとローソンがあったので、アンマンとお茶を買う。初めて土佐市か何処かで食べたローソンの饅頭が旨かったので、ローソンを見るとアンマンを食べたくなるのも不思議な話だ。
線路をくぐると愈々大坂峠へ差し掛かる。そのまま遍路道を歩くが、この道は元々徳島と香川を結ぶ重要な道で、明治以降この道の整備に多額の費用を費やして作った道だが、今は車道も出来て上から見ると曲がりくねった道路で、二つの道は何れにしても難工事だったことが判る。緩やかな登りが続き、途中の休憩所からの瀬戸内の眺めを楽しみつつ坂を登り続ける。
峠への道は普通の登山道に変わり、急な坂道を登ると視界が開けて11時25分、標高380米の大坂峠に着いた。
義経は弁慶等と、一豊は愛妻から贈られた馬に乗って讃岐に攻め入った

前は瀬戸内の海が開けて島が点在しているのが見えたが、生憎の曇り空で今一つ眺めは冴えなかった。後ろに目を転じると、阿波の国、四国三郎の異名を持つ吉野川がほぼ一直線に見える。右方向の向うに八栗寺のある五剣山の向うに屋島が有る筈だ。源平合戦の折、義経一行は屋島を後ろから急襲するため、この大坂峠を越えて屋島に向かったことや、秀吉や家康に重用された山内一豊の軍勢も、長宗我部元親を破るためこの峠を越えた故事を思い出す。特に平成14年「奥の細道」車行脚の途次、平泉で義経等の最期の地、高館から見た衣川と北上川の流れと重ね合って、彼らの栄枯盛衰に胸が締め付けられるような感情に襲われた。この峠には二度と来る機会は無いと思われたので、ローソンで買った饅頭を食べ終えてから360度の視界をカメラに収める。
峠を下ると阿波の国、徳島に入る。ここからの下りは急な坂の連続で、膝を庇いながら下ると、昔の関所跡に着く。この辺りから、昔の道が部分的に残っているのが目に入るが、道幅が1米足らずで、良く馬が通って行ったものと、義経等のほか、一豊の軍勢や一般の領民の苦しみが判る。
この先は専ら農業道路を通り線路を渡り線路際の道を歩き、大塚製薬の系列会社が運営する大きな浴場のロビーで休憩する。徳島県大塚製薬の創業の地だけあって各地に工場がある。その後田園地帯の道を歩いて、高速道路をくぐり、金泉寺への道を人に尋ねたりして漸く山門が見えてきた。山門前で30代の夫婦連れに会ったので彼らと一緒に、霊山寺への道を歩く。リストラで職を失い2度目の区切りで野宿の旅を続けて居るが、何時までこの旅を続けられるか、と心配していた。見た目も善良そうな二人を見て、良いことがあることを心に念じつつ、少し遠回りしてしまったが県道12号線に出て二人と別れた。
二番極楽寺の山門で一礼して一番霊山寺に向かう。間もなく寺の堂塔が見えて来たので、安堵と再会で感慨を新たにした。
池の鯉と39日振りのご対面

2時25分、10月25日ここからスタートした山門前で一礼し境内に入る。池の鯉が、「お礼参りおめでとう」と迎えてくれているようだ。
本堂で焼香と読経、今日二度目の命日の故H婆さん、故弟N、故H叔父さん等の供養と、その他これまで供養した方々に無事着いたお礼の言葉を般若心経に託した。
本堂内にある納経所に上がり、
「約束通り今戻ったよ」
 幸い覚えてくれ、お茶と菓子の接待を受けた後、早速、10月25日出発する際、記入した寺の遍路ノートにお礼参りした今日、12月2日と赤のボールペンで書き込んだ。
これで全てが終わった。後は京都の東寺へのお礼参りが残っているだけだ。
今回は出来るだけ杖を手に持って歩くことに心掛けたが、それでも杖の減り具合を測ると10センチ以上短くなっていた。寺の人たちとお礼の握手を交わし、菅笠はリュックに縛りつけ杖を手にして納経所を出て、本堂で軽く手を合わせた後、山門前で掃除していた女性に写真を撮ってもらいJR板東駅に向かう。
 駅で徳島行きの電車が数分後来るのを確かめて、無人駅のホームに上がる。間もなく電車が入り、久し振りに交通機関の椅子に座る。一段落した後、車内から徳島のBH大崎に予約すると、泊るのは良いが今夜の食事は出来ないとのこと。神戸の従兄妹のUN宅に電話で3日京都の東寺を参った後、夕方お宅に向かう旨伝える。
39日振りの電車の中から晩秋の佇まいが目に飛び込んで、先ほどまで歩いて来た日々を思い起こすと同時に、徳島に近付くに連れ庶民の生活を垣間見ることで否応無しに現実に引き戻される。
徳島駅で下車し、BH大崎を訪ねると、
「お帰りなさい。ご苦労さんだったね」
 元気な奥さんの声が返ってきた。部屋に案内されて荷物を解いてから、浴衣に着替えて洗物を屋上の洗濯機に放り込み、風呂に湯を注いだ後、狭い湯壷に39日間の疲れた身体をゆだねて一人遍路の旅の感慨に耽る。
風呂から上がって部屋に戻り、夕食を食べに出ようとズボンを探したが無いので、洗濯機に放り込んでしまったことに気が付き、階下に下りて、奥さんに事情を話して替えズボンを頼んだところ、旦那さんは6尺を越す長身で合わないので、奥さんの幾つかのズボンの中から赤系統のトレパンは胴回りがきつかったのを、何とか身にまとい、洗濯物を部屋に干してから、奥さんと親しい居酒屋の場所を聞いて出かけたが、夜だから良かったものの、真昼間だったら恰好の悪い事になった。
先ずジョッキーを注文し、これで全てが終わった事を感謝して一人乾杯する。おでんと刺身の盛り合わせを頼む。店内には客が数人居て夫々一人で酒を呑んでいた。お互い無口でテレビの画面を見ながら呑んでいたが、その内主人が、「どちらから」の声に「BH大崎さんの紹介で来た」と話すと、「それはそれは」と場が和らぎ、銚子を2本追加する羽目になった。茶付けを食べた後、店を出て駅周辺をぶらついて、娑婆の空気を目にした後、ホテルに戻ると、奥さんはトレパンを着た恰好を見て噴出していた。
TK氏に電話すると、彼はMY氏と大阪に来て、明日は高野山にお礼参りすると話していた。
四国の最後の今日一日の出来事をノートに書いて、蒲団にもぐり込んだが、明日四国を離れる事を思うと、この地で出会った人々の顔が頭に浮かんで中々寝付けなかった。

大窪寺で読経の際、一期一会の世界が万感こもごも胸に去来した

12月
1日 (37日目) 水 快晴 17℃ 15,1km(1096,6km) 11時25分結願
ながお路―へんろ資料館―重要文化財細川家―八十八番大窪寺 
大窪寺東かがわ市白鳥温泉 9,4km(1106,0km) 7490円
 朝目覚め、カーテンを開けるとまだ暗かったので、また蒲団に入り直しうとうと眠り、時計を見ると6時半だったので急いで蒲団を出る。食堂で女将さんに今夜の宿を何処が良いかと聞いたところ、切端寺経由なら坂本屋だが、と言ったので、
「坂本屋は前回泊った際、干からびた天ぷらに生ぬるいビールとお汁のほか、浴衣は出さないと言われたので、この宿には絶対泊らないと誓ったので、このルートは歩かない」
「それでは白鳥温泉に泊って、大坂峠経由の道が良い」
 精算をお願いすると少し高かったが値段以上の心使いは何より有り難かった。白鳥温泉を予約する。
 7時10分、宿を出て曲がり角で後ろを振り向くと、女将さんが見送ってくれているのが目に入り、杖を振って感謝の気持ちを伝える。ここからの路はほぼ真っ直ぐで迷うことも無い。前回昼食にうどんを食べた入谷製麺は既に店を開いていた。町を出ると県道に沿った旧道を通る。左手に川を見ながら緩い登り路が続く。間もなく前山ダムに着く。前回はダムの堰堤を渡って、女体山経由で大窪寺に向かったが、今回は途中の岩崩れが酷いと聞いたので、堰堤を渡らず車道を進むと、「へんろ資料館」の建物があった。
8時10分、少し早いので入れないと思ったところ、ドアが開いていたので中に入ると、女性の職員がいたので、開館は9時と聞いていたが、と聞くと、最近はお遍路さんからの要望もあって8時から開けるようにしている、と話していた。
館内は過去の遍路の歴史や資料が順序良く展示されて非常に勉強になった。職員にこの先の道路の状態を聞くと、ダム堰堤を渡り女体山越えのルートに較べると車道ルートの方は3キロ長いが、時間的には殆ど変わらないと言っていた。後で入館証書を送るとのこと、住所氏名を紙にメモして渡す。9時、へんろ館を出て車道を通るが、この道は何処に通じるかは知らないがダンプが良く通る。
建物は山を背に風を防いでいるが、冬は寒かったろう

途中重要文化財の細川家の案内標識があったので、左折して田舎道を歩くと、茅葺の屋根と土壁の住居があった。300年前の建物で、国の重要文化財に指定されている。中に入ると土間には昔から使われていた生活用具や農機具等が展示されていた。中を見ていると、ボランティアのお婆ちゃんが見えて、パンフレットを差し出しながら説明してくれた。一番驚いたのは居間に直径3センチほどの竹を敷き詰め、その上に厚手の筵を敷いただけの床だった。夏は涼しいだろうが、囲炉裏一つで冬の寒さはどのようにして凌いだのだろうか。現代人には想像できないが、300年続いていたことは間違いなく、現在の細川家の人は別なところで生活しているとのこと。家の傍に直径50センチほどの梨の大木があるが、実は硬くて不味いと言っていた。
お礼を述べて車道に出る道を通る。小学校手前の角を曲がって大窪寺に通じる車道を通ると、大窪寺まで4キロと表示があった。この付近にしては立派な旅館竹屋敷が見えてきた。そこからは車道に沿った旧道を歩くと間もなく、道端に「ごぼう」の様な物が並べてあったので、農家の人に聞くと、自然薯(じねんじょ)で大きいのは5センチほどの太さで、細いのは来年植付けると言っていた。間もなく正面に女体山(標高702米)が見えてきた。今考えると良く登って来たと思うほど急峻な山容を見せていた。寺まで後700米の表示を見て進むと、突然大窪寺の「医王山」と額が掛っている山門が目に飛び込んだ。前回は裏側の女体山から寺に入ったのでこの山門はくぐらなかった。
前回同様不動明王を背に二度目の結願、顔も大分こけた様だ

11時25分、二度目の大窪寺での結願だが、前回同様胸に去来するものを打ち払うことは出来なかった。境内の紅葉は盛りを過ぎていた。相変わらずバスツアーの読経の響きがこだましていた。最後の焼香と読経の後、納経帖に押印し、今日の日付けを書いてもらう。納経を終えて本堂前で、何枚か写真を撮った後、参拝に来ていた夫婦連れの奥さんに、事情を話してカメラのシャッターを押してもらい、挨拶代わりに名刺を手渡すと、
「北海道から来たのですか、良い記念になりました」
 夫婦と握手して別れた。階段を降りると、二十二番平等寺の山門前で会った先達見習い中の若者に話しかけると、彼も思い出して手を取って結願を喜んでくれた。小銭が600円あったのでお椀に入れると、彼は何か呪文のようなものを唱えてくれた。彼の案内で門前にある「前田屋」に入り、彼の勧めで鍋焼きうどんを注文する。
 先達見習いの彼に地図を見せながら白鳥温泉のルートを聞くと、トンネルを抜けて右に曲がるとイチョウの木があるのでそこを左に真っ直ぐ進むと白鳥温泉に着くと言っていた。彼に近況を聞くと、
「この前焼山寺へのへんろ転がしは3時間(私は4時間半)で登り、一日の托鉢は平均すると5千円ほどで、昨日は寒かったので民宿に素泊まりで4千円払ったので今日は大変だ、親父は相変わらずバスツアーの先達をしているので会う機会は余り無いが、これからはツアーも少ないので近く会う積りだ。食堂で食べると高いものに付くので、コンビニやお接待の物を食べたりしていたので、栄養失調で倒れたので食事には気を付けている」
 等々話してくれた。今後二度と会うことは無い先達見習いにお互い無事である事を祈って握手して東西に別れた。
1時5分、前回は菅笠を寺に置いて、杖だけを手にして帰ったが、今回は菅笠を頭に被り杖を手に白鳥温泉に向けて緩やかな下り道を進み、二股道を左に曲がると間もなく、五明トンネルを通る。トンネルを抜けて右に曲がると、樹齢600年と言われる大きなイチョウの黄色の葉が陽に当たって輝いていた角を左に曲がる。道幅が狭くなり途中2ヵ所、台風23号の影響で通行不能の立て看板がぶら下がっていた遍路路らしき道があった。時折車が通るくらいで人の気配は全く感じられないので、歩くペースも結願を終えたこともあって速くなる。視界が開けて畑が目に入ると、老夫婦がみかんを接待してくれたので有り難く頂戴する。
八十八番大窪寺を終え安堵して湯に浸かる

3時10分、山の中の温泉にしては立派な鉄筋コンクリート造りの白鳥温泉の建物が目に入った。明日の出発は早いので先に精算する。
部屋に案内されたが中の造りも立派なもので、暖房も効いて久し振りに温泉ホテル風な雰囲気に浸る。
温泉は11月10日の佐賀温泉以来で、透明の湯は少し熱めだったが源泉100%の表示があった。無事結願を終えた感慨を抱きながら心ゆくまで誰も居ない浴槽に浸る。温泉に入ると何故か、日本人に生まれた幸せを噛み締めるが、遍路を終えての温泉はまた格別なものがあり、世の幸せを一人締めしている錯覚に陥る。「何て俺は幸せなんだ」と。
この10日ほど足の痛みも無く知らぬ内に傷口も塞がってきたが、痕跡だけは見た目は歴然として痛々しかった。1100キロを支えてくれた両方の足を丹念に揉みながら、タオルに刺繍して貰った、座右の銘「継続は力なり」を一人呟く。
食堂での夕食は何時ものビールのほか、銚子を一本追加して、相手も無く一人寂しく結願を祝う。食事を終えて帳場に、6時に出るので朝食代わりに握り飯を注文し、呑み代と一緒に精算する。
部屋に戻り、埼玉のMY氏に電話で、今日結願した旨を伝えたところ、今夜はTK氏と志度町の民宿に泊っているが、明日は結願予定と話していた。札幌のTK氏の電話番号を聞いて彼に電話で、明日は大坂峠越えで霊山寺に行く話をすると彼は驚いていた。昨日の残りの分も含めて今日までの日記を付ける。明日は霊山寺付近の民宿に泊るか、場合によっては徳島まで行くことも可能なので宿の手配はしなかった。明日はお礼参りの一番札所霊山寺までの約30キロ、最後の歩きだ。

屋島の合戦が諸行無常、盛者必衰の壇ノ浦への前哨戦だった

30日(36日目) 火 快晴後曇り 16℃ 23,0km(1081,5km) 愈々明日結願
かすが―八十四番屋島寺―山田屋うどん―八十五番八栗寺(やくりじ)―八十六番志度寺―八十七番長尾寺―さぬき市長尾町ながお路 7400円
 7時からの朝食を終えて7時半、ホテルを出て国道11号線に出る。朝早い割には車の流れは多い。
高松のシンボルで屋島山頂からの眺めも良い

橋の上から屋島を写すが、地元の人が、アフリカ南端のケープタウン近くのテーブルマウンテンと並び評価する意味も判る気がするほど平らな山だ。橋を渡ると間もなく左折して琴電の踏切を渡る。YR氏が先を歩いていたので追い付く。アスファルトの道が途切れると、コンクリートの石畳の急な坂道が続く。彼は朝食を食べてないのか、疲れたようで差が開く。上から降りてくる人が、もう直ぐです、と励ましてくれ、
「私は毎日のように屋島にお参りしているが、何時来ても屋島は素晴らしい」
手放しで褒めていた。標高284米だが毎日とは大変なことだ。漸く山頂に達すると屋島寺の山門が見える。
 8時20分、立派な山門をくぐる。納経は一番だった。前回ここで大阪のTT氏と握手して別れた場所だが、彼もYR氏同様会えば別れ、別れれば会うといった不思議な存在だった。次の八栗寺に向かうので廃業した甚五郎ホテルの傍から、屋島の合戦場を上からカメラで撮ったが、今は護岸工事のためコンクリートで固められた浜辺も、かっては源平合戦で、那須与一が海中で馬に跨り、平家の女官の頭に付けた扇の的を射とめた逸話は誰知らぬものがない
正面の五剣山の下が屋島の合戦場で栄枯盛衰も今は昔語り

ほど有名な話だ。ここから急な遍路道を下るが、遍路道が途切れた途端、コンクリート舗装の道が急な下りとなって、止まるにも止まらないほど勢いが付き、膝に違和感を感じたので、道をジグザグするような形で何とか下りた。途中義経の身代わりとなって矢を受けて死んだ佐藤継信の墓に手を合わせる。彼はスーパーで買い物するとかでここで別れる。また佐藤継信の遺体を、洲崎寺の門の戸板で運んだと伝えられる洲崎寺を訪ねたが、当然新しい門扉に変えられていた。案内を乞うと返事がなかったので手を合わせて寺を立ち去った。
 10時10分、武家屋敷風な造りの山田うどんに着く。讃岐うどんを34個我が家に送る手続きを終えた後、
前回この先の高柳旅館で明日結願と喜んで、酒を呑み過ぎたばかりに、八栗寺の納経代が足りないのに気が付き、この旅館に戻り、主人に千円貸して欲しい旨伝えると、
「自分勝手に酒を呑んで、何で今更金を貸せとは、7キロほどの志度町に郵便局があるから、そこで下ろしたら」
けんもほろろに断られたので、己の不明を詫びて玄関を出て、このうどん屋のOY氏から一時借りた千円のお礼を言おうと、帳場の人に彼のことを尋ねると、
「退社して自分でうどん屋をしているが、会う機会があるのでこの事に就いては伝えておきます」
帳場の人に名刺を渡して、宜しく伝えて欲しいと頼んで山田うどんを出た。
前述の高柳旅館の前を前回の非礼を詫び頭を下げて通る。貴重な体験だった。八栗寺への登りはコンクリートの急な登りが続き一汗かいた。
10時50分、八栗寺に着く。バスツアーの遍路が読経していた。納経の際、寺からさつま芋のお接待を受ける。志度寺に向かう道は車道を通るが、途中から急な坂道で、昨日違和感を感じた左膝に負担が掛らない様慎重に下りたが、それでも何となく重い感じがした。牟礼町に着いてから琴電とJRに挟まれた国道に出る。久し振りに港が見えた。12時30分、市内に入り天ぷらの看板を見たので、たまに天ぷらでも食べようと店に入り天ぷら定食を注文する。小上がりに荷物を降ろして地図を出して長尾寺への道を確認する。久し振りに本物?の天ぷらを味わう。小1時間ほど時間調整をして店を出る。
1時半、志度寺に着いた。山門の大きな草鞋は今も両側に垂れ下がっていた。志度町は江戸末期のカラクリ名人として名を馳せた、平賀源内生誕の地でもある。この寺の五重塔も見事なものだ。納経を終えて長尾寺に向かう途中、郵便局でお金を降ろした際、前述のOY氏にここから借りた千円とお礼の千円を加えて送金した事を思い出す。
県道3号線を只進むだけの単調な緩やかな登りが続く。左手の高台には前回開発中だった団地造成もほぼ終わって、住宅メーカーの幟が風にはためいていた。オレンジタウンの新駅も出来ているようだ。今でも疑問に思うのは、こんなと言ったら失礼だが、高松に通う人のための団地と思うが、今でも売れ残りの土地が目に付く。他人事ながらこの団地が完売するには相当時間が掛かると思われるが。
県道から旧道に出て暫く進むと長尾町に入る。この町は市町村合併で「さぬき市」になったが、4年半の間に四国のあちこちで合併が進んで、我々他国の人間には馴染まない変な名前が多い。
3時10分、八十七番長尾寺に着いた。納経を終えて山門を出ると、直ぐ隣に今夜の宿、民宿ながお路が道を挟んで両側にあった。
3時35分、新しい建物に案内され二階に荷物を降ろした。感じの良い部屋の造りだった。主人に薬屋を聞いてところ、スーパーナカムラに行くと大体の物が手に入ると教えてもらったので、早速出かけ、二度の下りで左膝に違和感を感じたので膝当てのサポーターを買う。
今晩は貸切のようだ。昨日の分と合わせて洗物を洗濯機に放り込む。風呂も綺麗で愈々明日結願と思うと、何時もより丁寧に身体を洗う。
 料理は夫婦の共作で、心のこもった品々に感謝感謝。明日は結願の前祝に、今宵は財布にお金もあるのでビールのほか銚子を1本追加する。
私が北海道と判ると、この夫婦は旅行好きで、特に北海道には目が無いようだ。道内の観光地は襟裳岬を除いて殆ど足を伸ばしている感じで詳しいのには驚いた。北海道の良いところはと聞くと、
「先ず人、これは四国を初め全国から集まっているのと関係があるのか、親切で大らかな所が大好きだ。次は土地の広さ。道路にしても、畑にしても四国では考えられない。それに四季がはっきりしていること。四国は四季の移り変わりにメリハリが無いが、北海道はその点春夏秋冬を味わえ、冬の北海道も素晴らしかったし雪祭りには感動した」
 くすぐったくなる程の褒め言葉はお世辞でも何でもない本物だ。
部屋に戻ったのは9時近かった。日記を書いている内眠気を催してきたので、半分ほど残して蒲団に潜り込む。明日愈々結願だ。