薩埵峠から見る広重の描いた画と現在の写真を見比べるのも興が

9日(7日目) 木 20度 快晴 蒲原(かんばら)宿 由比宿 興津宿 江尻宿(静岡市清水区
                 28,4粁(164,9粁)
                 旅館しのぶ(6,900円)
 ホテルの窓を開けると今朝も快晴だった。二階で朝食を食べた後、冷え込みがきついのでウインドブレーカーを着て、7時25分、ビジネスホテルを出る。静岡銀行角に吉原宿の案内板があり、方向的に疑問を持ちながら歩いたが、間違っているように思えたので、通り掛りの人に聞いたが、要領を得ないまま暫く先へ進むが、間違っているような感じがしたので、引き返しながら、通行人に聞いたところ、詳しく教えてもらう。
吉原宿(左側に富士山のような山容が見えるが実際は目の前に迫って見える)

 四軒橋と富安橋を渡ると右側の民家の塀に食い込まれるような形で「袂の塞神(たもとのさえのかみ)」と言われる道祖神に似た石像が現れ、良く見るとモアイ像の様な表情をして鎮座していた。 富士山は雲一つない青空に端麗な姿を見せていた。この地の人達にしては毎日のことゆえ、札幌の人が藻岩山を見るようなものだろうが、特に北海道の人には蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山があるが、「富士は日本一の山」と歌にあるとおり、不二とも書くように素晴らしい。
 大通りの交差点に花屋があったので、旧東海道の道を尋ねたところ、道路を挟んだ向い側に入る道を教えてもらうと、「富士川橋の手前に、水神の杜があり、そこの堤防から見る富士が一番素晴らしい」と教えてくれたので、礼を述べて向かい側の旧東海道の道を歩く。
 身延線柚木駅の高架をくぐり、道路工事をしていた付近に常夜灯があり、その先に、「水神の杜」が有った。富士川は元々暴れ川で多くの災害を齎したらしい。ウォーキングしている中年の人が親切にも案内してくれた。薄暗い木々の先の小さなお宮を曲がり堤防に出たのは9時15分だった。
富士川堤防からの富士山の宝永火口も随分右に見える

 「ここから見る富士は女性的で一番だ」と、おらが富士を自慢していたが、成るほど、少し山頂付近が右に流れている感じが女性的と言われればその通りだった。目も前に桜並木があり、右には松が枝を張っている。満開の桜の向うに見える富士は素晴らしい被写体に成るなと思いながら、晩秋の富士山にシャッターを切る。
 富士川の鉄橋も結構長かった。渡り切って直ぐ河原に降りて、河原からススキを1本入れて、富士川越しに富士山を写す。信号を渡ると土地の老人が居たので、岩淵宿の本陣の場所を聞くと、
「直ぐ横の坂道を登り道なりに歩くと本陣がある」と話してくれ、序に「昔この川を渡るのは大変だったのではないか」と尋ねると、「この川は全国で三番目に入る暴れ川だった」と話していた。
岩淵の堂々たる貫禄の榎の一里塚

 言われたとおり坂道を登ると、黒塀に囲まれた、本陣の建物が有ったが、今は建て替えられて住宅になっていた。間もなくカーブに差し掛かると岩淵の一里塚が見えてきた。道の両側にある一里塚は珍しく、特に右側の榎は樹齢400年物だった。
 富士川駅に出て旧東海道の入る立て看板を見て、坂道を登ると高速道路があったのでその下をくぐる。この辺りは秋葉山の銘が入った常夜灯が目に付いた。新幹線の下をくぐると、明治天皇が休憩した石碑の前を通り、高速道路の上の橋を渡ると下り坂になり日経金蒲原工場が正面にあった。蒲原工場の発電機に流す水圧鉄管が何本も目に入ったが、今でもアルミ精錬をしているのか。
蒲原宿(冬景色の画も珍しいがこの辺はこの様な雪が降るのかな) 

 11時蒲原宿に着く。元の蒲原宿はJRの線路の向うに有ったが、約300年前の地震で宿場は壊滅状態となり現在地に移ったので、宿場の形態を残す町並みが今でも色濃く残ったようだ。道路はカラフルな洒落たアスファルト舗装がしてあったが、道の両側には老人の屯しているのが目に付く。 
 本陣跡の傍に、NHK「テクテクの旅」に登場した150年前に立てられた志田邸(元和泉屋)があり中を見せてもらったが、柱も梁も立派な材料が使われ、階段の段差を利用した箱階段は見応えがあった。明治時代の磯部家の二階の窓ガラスは手作りで、下から見ると多少波打っているように見えた。大正時代の五十嵐歯科医院は当時としては外壁をペンキで塗った総二階の建物で、今は資料館として活用されていた。
 西木戸跡に出て東海道本線に沿った旧東海道を由比に向けて単調な道を歩くと、11時50分、蒲原駅に着く。お茶を買い椅子に座って休憩する。
由比宿(広重の描いた薩埵(さつた)峠からの富士が一番だ) 

 駅を出て間もなく高速道路をくぐり、左の道を進むと由比一里塚があり、その先の由比本陣跡は広重博物館になっていた。
 12時25分中に入ると広重の浮世絵は勿論のこと、浮世絵の作り方や旧東海道の歴史が一目で判るように展示されていた。由比正雪の事件に関する資料が無かったのが不思議だ。ロビーに簡易食堂があったので、中華そばを頼むと中身に小さな海老が入っていた。食事を終えて外に出ると、向いが軍学者由比正雪の生家で、正雪紺屋の暖簾が下がっていた。
 由比の町に入る前から、桜海老の幟や看板が立ち並んでいた。市内に入ると桜海老を売っている店が多く目に入った。3センチほどの小さな海老で、先ほど広重博物館で食べた中華そばの海老がこの桜海老と判った。
 薩埵峠への道は段々急な坂道となり、四十番目の一里塚を過ぎて、途中山側にミカンが植えられていたのを見て、たわわに実った中の一つを失敬して口に入れたところ、完熟のミカンの味が口一杯に広がってきた。この味が四国でも食べたミカンの味だった。
現在の薩埵峠、富士山こそ変わらないが、東海道線国道1号線等には広重もビックリ

 12時10分薩埵峠に着いた。正面に由比市内の町並みの彼方に、富士山は山頂がやや丸みをおびた形を見せていた。早速カメラのシャッターを切っていると向うから人が来たので、「ここが薩埵峠ですか」と聞くと、「ここ全体が峠だが、駐車場の向うに良い場所がある」と教えてくれた。道理で景色が今一つ冴えないと思ったのは写す場所が違っていたようだ。
 駐車場を越えると三脚を立ててカメラを構えている人が三人居た。確かに広重が画いた場所そのもので、下を見ると東海道本線と国道1号線に東名高速が走っていたのを見て、観光用のポスターで見た風景がここだったのかと納得した。まさにベストポジションだった。広重が現在のこの情景を見たら何と思うかと、勝手に思いながらシャッターを切る。朝方見た富士はすっきりしていたが、距離も大分離れていることや、陽射しがやや翳って来たせいもあって、コントラストは薄れてきた。 三人の内の一人は、
「自分は東京で富士の見えるところに住んでいるが、昨日の富士を見て今日車で来たが、昨日来ていると凄い写真が出来たのに」
と残念がっていた。
 薩埵峠を下り興津宿に向ったが、麓の道が作り変えられていたので、一時道に迷ったが何とか興津の町に着いた。街の中程にお焼屋があったので2個注文し食べているところに、「ここのお焼は名物だから」と言って、10個買っていった客がいた。たかがお焼、されどお焼か。
興津宿(沖の帆は魚を獲っているのかな) 

 本陣跡の標識を写し、家康が幼少の頃生活していた、古刹清見寺を見たかったが、夕方近くだったので見るのを諦め、西園寺公望(明治の元老で時の天皇に総理を12人推薦した)の元別荘坐漁荘を写して、江尻宿(現在静岡市清水区)に向かう。
 高架の下をくぐり清水区に入って間もなく携帯電話が鳴り、宿の女将から、「今何処にいるの」の問いに、「後10分ほどで着く」と伝えると間もなく、「清水区まで2km」の標識があった。平成の大合併静岡市清水区と成った。
 暗くなってきたので時計を見ると5時を過ぎていた。西友のネオンが見えたので、清水駅に向かい、駅前の商店街を歩いている人に、今夜の宿「しのぶ旅館」の場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。宿に着いたのは5時半を回っていた。
 二階の部屋に通され、荷物を解いてから、風呂に入り右足裏を丹念に揉んだが、今のところ三島から沼津に掛けての痛みは無いので安心だ。
 一階の居間で夕食を食べたが、客は一人で常連の様だった。女将から東海道の話が出たので、
「3日、日本橋を出て今日で7日目だが、今日は吉原から来たので約30粁近く歩いた」
と話すと、客も女将も驚いていた。客が、「失礼ですがお歳は幾つですか」「74歳です」と返事するとまたまた驚き、「私より6歳も上だ。実は私より下と思った」何時もの様な話が出たが、悪い気はしないので、「健康だけが取得で」と言うと、
「健康で自分の好きなことが出来る貴方は素晴らしい人生を送っている、話の種にさせて貰います」と穴があったら入りたい位の誉め言葉だったが、女将も同感の気持ちを持っていたようだ。
 部屋に戻りエアコンを20度に設定して、日記を書いていると、女将が蒲団を敷きに来たので、夏蒲団を頼むと、「エッ、夏蒲団」と驚いているので、
「我が家ではこちらに来るまで夏蒲団で寝ていた」と話すと、別な部屋から新しいカバーの夏蒲団を持って来てくれ、
「1日30粁も歩く人は違いますね、主人は普通の蒲団に毛布を掛けて寝ているが」
と感心していた。女将さんに、
「清水と言えば次郎長、次郎長の生家が有ると聞いたので教えて欲しい」と伝えると、「明日朝、主人に教えてもらいなさい」と言ってくれた。今日は少し歩きすぎたので明日の宿を24粁先の岡部宿の宿を女将さんに頼むと、三軒の宿を教えてくれた。
 日記を書いている内に眠気を催したので、日記は途中で止め、エアコンを12度に設定し、歯を磨いて蒲団に潜り込んだが、新しい蒲団は軽く気持ちよかった。

吉原付近から見る富士は東海道で一番の眺めだ

8日(6日目) 水 20度 快晴 沼津宿(相模国) 原宿 吉原宿
                 23,6粁(136,5粁)
                 BHつるや(7,300円)
三島宿(三島大社の鳥居が見える) 

 朝食を食べた後精算し、7時25分、宿を出たが、朝の冷え込みがきついので、ウインドブレーカーを着込む。間もなく道路に面した大鳥居をくぐり三島大社に着く。
 この神社は源頼朝が源氏再興を祈願するため、100日蛭ヶ小島から日参したと伝えられる。境内には樹齢1200年のキンモクセイの巨木が右側にあったが、植えられる時代から判断すると、空海最澄が活躍していた頃の話だ。道中の安全を祈願し大鳥居から右に曲がると旧東海道に出る。
 旧東街道の両側は繁華街になって、早朝とあってゴミが歩道から溢れるように出ていた。かっての東海道の面影は全く見ることが出来ないが、世古本陣跡の石柱は残っていた。ビルの合間に快晴の空をバックに富士山が雪を被った秀麗な姿を見せていた。
 家は相変わらず途切れることも無く続いていた。足の痛みは段々酷くなる感じで、果たして吉原まで持つのか心配になってきた。間もなく復元された伏見一里塚が見える。国道1号線を横断し直進すると、間もなく広い道路に出る。大きなメガネの看板のある道を左に入ると、旧街道に出る。ふと右側を見ると、アスリートケア「のり整骨院」の看板が目に入った。一旦通り過ぎたが、「地獄に仏」とはこの事と、戻って整骨院に入った。
 9時、一人先客がいたが電気を掛けていたので、先生に健康保険証と免許証のコピーを見せると、「よろしいです」とのこと。先ず靴下を脱いで左足を見せると、治って来ているので問題は無いが、右足は可なり腫れているので治療すると言って、ゼリー状のシートを患部に貼り、その上から大き目のバンを貼ってくれた。心なしか痛みが和らいできた。料金は400円だった。シートとバンを貰って整骨院を出て直ぐ沼津警察署の裏口が見えた。
 県道380号線を歩いたが、今までの痛みが嘘のように消えているのに気が付き、これで東海道を歩き切れると思った。現金なもので歩くピッチも早くなり、県道を曲がって沼津市内の狩野川の脇に出て、本陣が有る筈の道を曲がり、商店街の人に、本陣の場所を聞いたがさっぱり要領が得ない。小田原同様本陣跡が無く、市でも確認出来ないようだ。
沼津宿(黄昏時の用心に天狗の面かな) 

 旧東海道に面して右側に鰻屋があったので、静岡に来て鰻を食べない訳には行かないので、「昼飯用の弁当を作って欲しい」と言うと、「焼き上がるのに5分ほど待って欲しい」とのこと。店のおばちゃん3人と雑談、「どちらから」の問いに、「日本橋から京都に行く途中だ」と伝えると、3人驚いて、「歩いているの?」と言うから、
「この通りリュックを背負っての旅で、今日で6日目だ。沼津は北海道から新婚旅行に来て以来だが、翌朝目覚めると千本松原の松並木があったのを覚えている思い出の土地だ」
「何時頃の話ですか」「昭和37年の話で今から45年前の話だ」「貴方の歳は」「74歳」と免許証のコピーを見せ、
「序に言うと四国八十八ヶ所歩き遍路を2度歩いているので、東海道の500粁は四国に較べると半分以下の距離だ」
 3人はコピーを見ながら信じられないようだった。「奥さんは元気ですか」の問いに、
「元気も元気、旦那は留守が良いと張り切っているのではないか」と大笑いして焼き上がった鰻弁当を手に店を出る際、「貴方は素晴らしい時を過ごしている」と手を振って送ってくれた。
 そこから原宿に向かう旧東海道はほぼ真っ直ぐな道で、松並木こそ無いが両側の民家はこじんまりして街道の風情が感じられた。足も順調で余り痛みは感じなくなっていた。
 12時15分、途中、原町のコンビニの前を通り掛ると、女性がテーブルの上で何かを食べているのが目に入ったので、ドアを開けて、「ここで食事しても構いませんか」と聞くと、「どうぞ」と思わぬ答えが返ってきた。何故なら四国遍路の際、コンビニ内での食事は断られ、外の駐車場で食べた経験があったから。熱いお茶を買って、テーブルに先ほどの鰻弁当を広げる。鰻の何とも言えない匂いが漂い、こちらに来て初めての鰻を堪能した。
原宿(この辺りから吉原に掛けての富士の眺めは素晴らしい)

 コンビニを出て間もなくJR東海道本線の踏切を渡ると、白隠禅師誕生の地があり、白隠が産湯に使った井戸が残されていた。この裏側に松陰寺があって、白隠が京都妙心寺の住職を辞め、この寺に戻った際は、諸国の大名は必ず訪ねたと言われるほどの名僧だった。我々には達磨大師を画いた僧として記憶にある。昔から駿河の人は、
  「駿河には過ぎたるものが二つある、一つは富士のお山に原の白隠
と自慢気に語ると言われる。
 近くに渡邉本陣の標識と渡邉家があったが、明治の中頃までは、山林を含む6600坪の土地と235坪の本陣の建物があったが、今は子孫が住んでいるのか同じ渡邉の表札があった。
 相変わらず一本道の旧東街道を進み、愛鷹浅間神社を通り過ぎ、JR東海道本線の踏切を渡る。間もなく松原が見えて来たので、左に曲がって松原を過ぎると海岸に出る手前の防潮堤を上ると、長大なコンクリートの防潮堤が延々と続き先がかすんでいた。
 左に伊豆半島から右に御前崎までの駿河湾を一望に見渡せ、海は晩秋の太陽を浴びて光り輝いていた。防潮堤の上にはサイクリングやウォーキングする人たちが夫々のスタイルで身体を動かしていた。
 これが11月の海か。この陽気と景色を出来ることなら北海道に持って行きたいものだ。吉原方面に大昭和製紙等の工場の煙突から煙が立ち昇っているのが見えた。松原越しの富士山は宝永火口をほぼ正面に見せ、完璧な稜線を雲一つない紺碧の空を背景に際立たせていた。久しぶりにカメラのシャッターを押し続ける。
松原と防潮堤は延々と遥か先まで続く 

 東海道本線越しに富士を右に見ながら歩いたが、この辺から見る富士が一番大きく、存在感を見せ付けているようだ。写真を撮るには線路の電線が入るので中々良い構図が少なく、この付近からの富士は撮らなかった。
 新幹線から見る吉原近くの富士が一番迫って見える。水といい景色といい、この付近の工場や人は富士山の天然の恵みの恩恵なしには語れないが、大昭和製紙の煙突の煙が無風のせいか富士の五合目辺りまで漂っていた。
 吉原駅手前の踏切を渡り線路に沿って歩き、橋を渡ると間もなく広い通りに出て、国道1号線と新幹線の高架をくぐり、大きな店が立ち並ぶ道をそのまま15分ほど真っ直ぐ進んだが、道を間違えたような気がしたので、カメラ店の人に聞くと、可なり遠回りしたようで、引き返すしか方法が無いとのこと。左富士を目指して、道を暫く戻って途中の信号を左に曲がる。
 尋ね尋ねて漸く、左富士に着いた。
 今までは常に富士を右に見てきたが、この左富士は広重の絵にもあるとおり、この地点からは富士が左側に見えるので、左富士と言われているが、現在は工場の建物に遮られて見ることは出来なかった。
昔は水量に応じて川筋も変わったので、果たしてこの場所かどうか・・・ 

 小さな川に、「平家越え」の標識のある橋に着く。かって、この付近で源平の軍勢が対峙している時、平家の軍勢が水鳥の羽音に驚いて、源氏が攻めて来たと勘違いして敗走したと伝えられる場所だ。橋を渡り真っ直ぐ進むと、吉原本町駅の踏切を渡ると商店街があり、4時半、今夜の宿、BHつるやに着いた。
 ビジネスホテルながら、二階は居酒屋で夕食も出し、部屋に風呂は有るが、大風呂を使えるので便利だ。早速荷物を解いて、一階にある洗濯機に洗濯物を入れてから大風呂に入る。右足裏の痛みは大分取れたが、腫れた状態のままだったので、何れは痛みが再発する予感がしたので、丹念に足の裏を揉む。
 洗濯物を乾燥機に入れて部屋に戻る。足の裏は皮が破れた状態なのでその上から整骨院で貰ったシールを貼る。
 浴衣に着替えて二階で夕食を食べたが居酒屋だけに、おでんの盛り合わせと鯵の刺身を貰い、ジョッキーを呑んだ後、一先ず足の心配が薄れたので銚子を1本追加し、野菜不足なのでサラダを貰う。テレビを見ていると、米国下院の選挙で与党の共和党民主党に敗れ、国民にイラク問題に就いて、ノーを突きつけられた結果となった。
 精算してから洗濯物を持って部屋に戻る。
 今日の日記も内容が濃く10時近くまで掛った。明日も快晴のようだ。

二つ目のマメは箱根越えには高い代償に付いた

7日(5日目) 火 18度 雨後曇り午後快晴強風 箱根宿 箱根峠 三島宿(伊豆国
     アモール・アテルノ・リオ(7,375円)24,8粁(112,9円)
 1時頃窓を打つ強風で目が覚めたが、間もなく眠ってしまった。6時起床窓を開けると、相変わらず風は強いが雨は小降りになって来たので、リュックに合羽と傘を何時でも出せるように、上に積んで置いた。玄関に警備員が居たので、元箱根の芦ノ湖までの時間を聞くと、4時間も見たら十分とのこと。
 7時35分、二階の大広間でバイキング形式の朝食を食べたが、泊り客は10人足らずだった。食べている時、急に強い雨が降り出してきた。8時10分、精算した後、外を見ると、小雨が降ったり止んだりしているので、合羽を止めてウインドブレーカーに傘を差して宿を出た。
 急な坂道を5分ほど歩くと、雨が上がって来たので傘を手に持って、何時でも差せる様にして歩く。旧東海道はこの辺は特に道幅が狭いので、上からの車に気を付けるため右側を歩く。湯本温泉街は急な谷間のようなところに建てられているのを右に見ながら一歩一歩坂道を登る。時折小雨が降るが傘を差すほどでもなかった。漸く湯本を過ぎ、箱根湯本一里塚跡のある道に出る。
石畳は箱根の上り下りの所々に敷き詰められ、この膨大な石を良く運んだものだ 

 この付近に箱根細工の工房や売店が点在していた。その先を登ると、問題の石畳が見えて来たので、通る前にカメラに収める。昨夜からの雨に濡れて石の表面が濡れているので、滑らないように慎重の歩くが、左足裏が痛むので負担にならないように、右足に重心を掛けて何とか登る。昔の旅人は勿論のこと、参勤交代の大名行列もこの石畳には泣かされたことだろう。一説によると、大名の輿を担ぐ人足が、足を滑らせて駕籠を転倒させたものなら即刻打ち首に処せられたと言われる。
 間もなくキンキラ金の寺が見えて来たが、何の寺か知らないが、良くここまで塗りたくったものだと、不快感を催すが、誰か知らぬがこれを見て極楽往生を願う人も居るから不思議だ。奈良の大仏もかってはキンキラ金だった事を思うと、有り難がる信者が居ても不思議でもないのか。雨は完全に上ったようなので傘をリュックに仕舞う。
 前方に赤い山門が見え、箱根天狗を祭る神社が見えてきた。どうもこの箱根は魑魅魍魎とまでは言わないが、昔から難所だけに盗賊の群れや浪人どもの格好の稼ぎ場所だけに、この様な可笑しな寺社が有るのかなを思いながら進む。
 接待茶屋跡を過ぎると畑宿の一里塚があり、その先から道幅が狭く登りも急になる。間もなく国道の箱根七曲りの難所に差し掛かるが、橿(かし)ノ木坂と言って、今は急な階段を登るが、当時はこの坂を登るのに、
  かしの木の 坂を上がると苦しくて どんぐりほどの 涙こぼるる 
と詠われたほどの難所中の難所だったらしい。詞をノートに書き込んで、再び階段を50段ほど登ったところで、帽子がないのに気が付き、慌てて下に降りると、その詞の立看板のある場所に帽子があった。また階段を登るが、汗が吹き出る感じで休み休み坂を登る。そこを登りきると、かっての茶屋跡がある。
 通称猿滑りの坂があったが、橿ノ木坂ほどではなかったがそれでも息切れが続いた坂道だった。正月大学駅伝でこの坂を制するかどうかが往路のポイントになる場所だ。国道に出ると下から車もやっと登って来るのでエンジンの音がうるさかった。
 やっと平坦な道に出て暫く歩くと、10時20分、古ぼけた甘酒茶屋に着く。かって4軒の茶屋は道路の向う側に有ったが、地震で倒壊し現在は1軒のみで、観光バスやマイカーの客で混んでいた。昔から旅人はここの甘酒を飲んで旅の疲れを癒したほど有名な茶屋だ。甘酒は米麹から作ったもので、昔お袋が作ってくれた味と同じで、お袋を思い出しながら茶碗を傾ける。つまみに紫蘇の実が付いていた。
 茶屋を出て裏の旧街道を通ると、また石畳の道が現れる。緩い坂道を歩いたが右足に軽い痛みが出てきたので、出来るだけ両足に均等な力で歩くことにした。最後の坂を登りきると下りに差し掛かり、芦ノ湖の湖面が木々の間に現れて来た。林を抜けると強烈な風が襲い掛かってきたのには驚いた。湖面は白波が立って湖岸に波が打寄せていた。
箱根宿(天下の険と唄われた箱根山は900米にも達しない) 

 11時、元箱根に着いた。湯本から約3時間弱で着いたことになる。朝方の曇空も風でどこかに行ってしまったのか、上空は快晴で右側の湖面に赤い鳥居が荒波を受けながら見えた。風が強いので帽子をズボンのポケットに入れて歩く。
 湖岸に沿った年代物の杉並木を通る。箱根関所は往時の面影を再現していたが、関所の大事な仕事は、「入り鉄砲に出女」を見張ることだが、特に幕府にとっては大事な人質の大名の家族が江戸を抜けて、上方に向かうのを監視するのが最大の任務だったようだ。関所の中は多くの観光客が物珍しくカメラに収めていた。
芦ノ湖は強風で白波が立ち、遊覧船は運航中止となった

背後の急な階段を登ると遠見小屋があって、そこから湖面の向うに富士山が、昨日八合目付近に降った雪を強烈な風が吹き飛ばしているのが目に入った。右手の駒ケ岳のロープウェイは多分休業していることだろう。山頂付近は時々雲が掛るので晴れるのを待ちながらカメラに収める。
 商店街で食堂を探し、湖岸近くの食堂に小上りがあったので、荷物を降ろして両足の靴下を脱いで足の裏を見ると、左足裏は何とか大丈夫のようだが、右足裏は赤く腫れていたので、一先ず上からバンを貼る。カレーライスを食べて食堂を出ると相変わらず風が強く吹いていた。
 12時、芦ノ湖を後に三島に向かう道を間違えた感じがしたので、向うから来た人に、旧東海道の道を尋ねると、大分違った道を歩いた様子で、礼を述べて引き返すと、右側を注意して歩くと確かに旧東街道の標識はあったが、小さい標識なので見過ごしてしまった様だ。大事な分岐点なので大きめの標識があっても良いと思う。
 国道下のトンネルを過ぎると、間もなく石畳が見えてきたが、箱根側と違って、少しは平たい石が敷き詰められていたので箱根側より歩きやすかったが、これだけの石を何処から持ってきたのかと考えながら歩いたが、右足裏は今までの痛みとは違い、土踏まずにパチンコの玉の少し多き目の玉が挟まっている感じで嫌な予感がした。標高846米の箱根峠に出て国道1号線旧東海道の道を確認し静岡県に入る。
 少し下ったところに芦ノ湖カントリークラブに入る道を進むと、旧東海道の標識があったので左に曲がる。豊臣秀吉が小田原の北条攻めの際、石に兜を置いたとされる兜石があった。また石畳が出てきたが、表面は割と平らで歩く易かった。石畳を抜けると竹薮のトンネルを、ノーエ節を歌いながら歩いていると、下から人が登ってきたので、「どちらから」と聞くと、「神戸から歩いてきたが、富士見平らから見た富士山は素晴らしかった」と話していた。暫く振りに土の上を歩いたので気持ちが良かった。
 旧東海道を歩く人は必ず通る民家の前で老人が畑の土を起こしていたので、「一日に何人の人が通るか」と聞くと、「今日は貴方で二人目だが多くて3人かな、休日には団体で通るが」先ほどの神戸の人と思われる。
 国道1号線に出て直ぐ旧道に入る。また石畳が出てきたが、これは最近作られたらしい。足の裏が痛くなって来たので国道に出たのを機会に2時10分、山中食堂に立ち寄り、トマトジュースを頼む。靴下を脱いで足の裏をマッサージすると幾らか痛みが和らいできた。女将さんに三島の宿のパンフレットを貰い、宿を探したが2軒とも夕食は出ないとのこと、セレモニー風のホテルで2食付の宿を決める。足の具合も大分良くなったので、女将さんに礼を述べて店を出る。
 向いに山中城跡があったが見る気も無いのでそのまま道を下ると、富士見平に着いた。
まさに富士見平の名に相応しい眺望だ 

 神戸の人が言ったように、富士山が紺碧の空に長く尾を引いて、正面に聳え立つその姿に圧倒された。山頂の雪は芦ノ湖で見たように強風が吹いて雪が舞い上がっていた。傍に芭蕉の碑が立っていたが、当日芭蕉は折角の富士を見ることが出来なかったらしい。
 旧東街道に出ると、又石畳が出てきたが、古いのと新しいのが混在していた。表面が平らだが、右足裏の痛みは治りそうも無く、我慢しながら下りの道を三島に向けて歩いたが、三島とくれば、「ノーエ節」。誰も通る人が居ない事を良いことに大きな声で、
 富士の白雪ゃノーエ、富士の白雪ゃノーエ、富士のさいさい白雪ゃ朝日に解けて、解けて流れてノーエ、解けて流れてノーエ、解けてさいさい、流れて三島に注ぐ、三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ、三島さいさい女郎衆はお化粧が長い、お化粧長けりゃノーエ、お化粧長けりゃノーエ、お化粧さいさい長けりゃ、娘島田、・・・カラス止まればノーエ・・
 少しでも足の痛みを和らげようと、終ることも無く、また富士の白雪ゃノーエに戻っては歌いながら、途中からアスファルトの道に出る。時折子供たちと会う程度で、車も滅多に通らない旧東海道の一本道を三島に向かって道を下る。
 間もなく国道1号線と合流したが、片側二車線は旧東海道を活かして作られ、所々松並木が見える。間もなく石畳が現れるが、これは市民のボランティアにより最近敷いた石畳だった。日本橋から117,8粁の標識を右折して間もなく、今夜の宿はアモーレ・アテルノ・リオと言う名の、見た目はセレモニーホールのような形式の建物だった。
 4時半、部屋に案内されたが、大きな部屋で、多分控え室のような造りだった。荷物をリュックから出した後、風呂に入ったが浴槽は大きくゆったりしていた。丹念に右足裏を揉んだが、痛みと痺れは相変わらず、明日が案じられる。
 風呂の戸が開いて、マネジャーが、「近所の人がイチョウの実を採りたい、と言っているが、庭に入れても差し支えないか」と聞いてきたので、「どうぞ」と言っておいた。
 湯船から上がって身体を洗いながら何気なく、鏡の向うに二人の男女が写っていたので、見るとも無く見ていると、二人は下を見ながら実を採っている様だが、時折、こちらの方を見るのには参った。それにしても、図々しいというか、何と言うか。実を採り終わるまで、風呂に入る訳には行かず、痛い足の裏を揉みながら二人が出て行くまでさすっていた。話の種には成ったが。
 風呂から上がり部屋で右足裏のマメは何時もの様に治療にしたが、どうもこの痛みは、四国遍路の際の痛みとは違う別な原因が有りそうだ。
 1階に降りて食堂で夕食を食べている時、10人ほどの作業員が見えたので女将さんに、「商売繁盛だね」と言うと、「さっぱりよ」とそっけなかったが、今日の料理も儲けが無いのか、既製品風な中身だった。
 部屋に戻りテレビのスイッチを入れると、佐呂間町の竜巻事故で9人が死亡し28人が負傷したことと、その他町内の多くの建物の損壊状況がテレビに写っていた。これから本格的な冬を迎えるのに大変だと思いながら、日記を付けるが足の痺れは中々取れず、足を揉んでは日記を付ける状況で、こんな時に限って今日の出来事は沢山あった。こちらも大変だ。
 寝る前に何時もの様に歯を磨いたが、肝心の洗面所が見当たらず、1階に降りても無いので、止むを得ず調理場の水道を使ったが、夕食の皿や茶碗はそのままの状態に成っていたのには参った。

日本橋から箱根入り口まで、東海道の家並みが途切れなかっ

6日(4日目) 月 快晴後薄曇夜雷雨 20度 小田原宿 箱根湯本
                    春光荘(14,230円)
                      22,3粁(88,1粁)
大磯宿(昨日の宿場祭りから想像できない佇まいだ)

 夜中2時頃目が覚めるとその後中々寝付かれず、6時にセットした時計が鳴ったので起きる。朝食は部屋まで運んでくれたので久しぶりに部屋で食べた。昨夜のコンビニの話が効いたのかな。
 食後、何時もの様に両足裏をテーピングする。精算の際、
「洗濯代はサービスするので5千円でお願いします」と言うので5千円を払い、7時15分、宿を出た。
 今朝も快晴のせいか冷え込みが強かったが、国道1号線を歩いているうち徐々に体が温まってきた。所々松並木が点在して、街道の情緒が感じられる。中には幹周りが2米近くある巨木が歴史の重みを実感させる。
 間もなく左手に明治の元勲伊藤博文の別荘「滄浪閣」が見えたが、現在は大磯プリンスホテルがレストランや宴会場等に利用しているらしい。
 左手に自転車専用道路の案内があったので、少しでも車が少ない道を歩こうと、200米程海寄りの道を進むと、確かに専用道路はあったが終点で逆方向の道路だったので、ガッカリして国道に戻り先へ進むが、時間の経過と共に車の往来が激しく、道を横断するのに緊張を強いられる。
 二宮町に入ると国道も2車線となり、狭い歩道の脇に庭木を適当に縛ったものと、ゴミ袋が雑然と並べられているのを良く見ると、ゴミは有料袋の外、普通のビニール袋も使っているので、お婆ちゃんに聞くと、「生ゴミや燃えやすいゴミは有料袋に、その他のゴミは普通の袋を使い、今日は収集日だ」との話を聞いて、我が町江別市と違い、中途半端な収集の仕方をしているものだと思った。
 また狭い歩道を前後に大きなビニール袋の中にアルミ缶を詰めて、自転車を引いて来る人がいたので、「この町では資源を回収して無いのか」と聞くと、返事もせず通り過ぎて行った。痛いところを突かれて、早く立ち去りたかったものと思う。 変なところに、町内会の環境担当のお節介が出るものだと、我ながら困った男だ。
 間もなく小田原市の標識が目に入る。国道の里程標で確認したところ、1粁当り11分30秒で歩いているので、1時間5粁強のペースで歩いていることになる。我ながら立派なものだ。
小田原宿(酒匂川の向うに急峻な箱根の山が描かれている) 

 酒匂(さかわ)川を渡り、新田義貞首塚をガソリンスタンドで聞いて左折する。暫く周辺を歩いても首塚が無いので近所の人に聞いて、私有地の奥まったところにあった。小学生の頃、建武の中興で楠正成と新田義貞等が足利尊氏から後醍醐天皇の親政に取り戻すため戦ったが、武運拙く殺されてしまったが、忠君の士として教科書に書かれてあったのを良く覚えている。
 小田原市内の入ると、auのアンテナショップがあったので、試しにソフトバンクのメールの出し方を聞いたが、会社が違うので、小田原駅付近のソフトバンクの店を教えてもらう。
 11時20分、漸く旧東海道に入り、本陣を探したが中々見当たらなかったが、明治天皇の休憩場所付近とのことで捜したが無かったので、近くに洋服屋に本陣の場所を聞いたところ、偶然にもこの店が元本陣の有った場所で、以前に文化庁の係官が来て、標識を立てるかどうかと聞いてきたが、今更と断ったとのこと。然し、小田原市小田原城を売り込むため、旧町名の標識を所々に建ててあった。また小田原と言えば、先ず蒲鉾と提灯を思い出すが、確かに蒲鉾屋は目に付いたが、提灯屋の店は目に付かなかった。
 横断歩道を渡り駅に向かう道は、昼時とあって多くの人で混雑していた。目指すソフトバンクは有ったが、客が多かったので聞くのを止めて、近くの食堂に入り、車えびのカレーライスを注文する。左足裏が痛むので靴下を脱ぎ、テーピングを剥がすと新しいマメが出来ていた。何時まで待っても来ないので確認したところ、「聞いていない」とのこと。急いで作ってもらったが、時間を可なりロスしてしまった。
 国道に出て暫く歩くとJRと箱根鉄道と新幹線の高架をくぐり、間もなく箱根鉄道の高架をくぐると、右手の山裾に沿って箱根鉄道のロマンスカーが見えてきた。この付近から徐々に緩いながら坂道に成って来たので箱根に入って来つつある事を感じる。
 日本橋から延々と続いていた家並みも85粁近くで漸く途切れてしまったが、それにしても東海道の大動脈は想像した以上にダイナミックだった。
 1時20分、箱根町の標識が見えた。蒲鉾の店が軒を並べ、観光バスが数台駐車していた。大手の蒲鉾の工場か何かが建設中だった。右手の山際の絶壁にへばりつく様に別荘らしい建物が建っていたが、良くあのような場所に家を建てたものと感心したが、近くの人の話では最近人の出入りが無いと言っていた。
 旧街道を通ったり国道に出たりしているうち、三枚橋が見えてきた。そのまま真っ直ぐ登る坂道が、正月恒例の大学箱根駅伝のコースだ。確かにこの登りが往路の勝敗を決めるのかと思いながら、左に曲がって三枚橋を渡る。
 朝方の快晴が嘘のように厚い雲が上空を覆ってきた。前方の箱根の山はガスが掛って全く見えなかった。橋を渡ると間もなく急な坂道が目の前に見えてきた。ここからが旧東海道の箱根湯本で、今夜の宿春光荘に電話で場所を聞くと、「1,2粁程登ると看板が出ている」と素っ気無い返事が返ってきた。
 それにしても急な坂道で一歩一歩坂を登る途中に、北条一族の菩提寺「早雲禅寺」があったので、時間があるので中に入る。
 入場料を払い、玄関で荷物を降ろす際、よろめいたのを見て係りの人が、「どちらからお出でですか」の問いに、「大磯から来た」と言うと外の3人とも信じられない顔をして、その内の一人が荷物を持ってくれたが、「これは重い」(約7キロ)と彼もよろめいたので皆で大笑い。先週から特別な展示内容で、襖絵や掛け軸等の重要文化財が展示されていた。
 枯山水の庭に下りるとその向うに一般の墓地があり、その先の奥まった薄暗いところに北条早雲をはじめとする5代の墓が横並びになっていた。  
後に北条早雲を始めとする五代の墓が一ヶ所に奉られた 

 この寺は、北条早雲が息子氏綱に命じて造らせた禅寺で、秀吉が最後まで抵抗した小田原北条攻めの本陣を構えたところで、三ヵ月後落城の際焼き払われたが、その後寺の再興が許され、北条早雲を始め切腹した城主の墓共々ここに移された。
 3時10分、春光荘に着くと、玄関脇の楽庵で抹茶と金平糖の接待を受けたが、金平糖は暫くも良いところで、何十年振りで食べたようだ。急な階段を何度も上がり、部屋に通されて窓を開けると目の前に崖が迫って、如何にも天下の険箱根に来た実感がした。
二つ目のマメに前途多難を感じる 

 荷物を解いてから、両足のテーピングを剥がして風呂に入ったが、定山渓温泉の様な透明な湯で、疲れた身体には何よりだった。
 左足裏のマメが10円銅貨ほどの大きさに成っていたのを見て、この足で明日の箱根の石畳を歩けるのかと、暗然たる気持ちのなった。風呂から上がって体重を量ると57キロと2キロ減っていた。
 風呂から上がり部屋に戻って、電話帳で三島の宿をアモール・ホテル・リオに電話して二食付き6,600円で決めた。
 早速マメの治療をしたが、古いのは大分良くなって来ているので安心したが、新しいマメは赤く腫れ上がっていたので、参考までにカメラに撮り、何時もの様にマッチの火で針先を消毒したあと、穴を開けて水分を搾り出したが、痛みに堪えながら完全に水気が無くなるまで随分時間が掛った。その上にバンを貼って漸く治療を終えた。
 夕食まで時間があるので、今日の日記を付けていると、6時夕食の膳が運ばれてきたが、この階段を上り下りする仲居さんは大変だと思った。
 この事もあって予めビールと銚子1本を注文していたので、コップに注いで一人で乾杯。初めての旅館料理の8品を上からカメラに写した。品数と内容から見て値段相応だと思った。仲居さんがお膳を下げた後、残りの日記を付けたが、雨の音がしたので窓を開けると風を伴って可なり強く降っていた。テレビの天気予報によると、明日午前中に掛けて雷雨と伝えていた。明日の箱根越えが案じられる。
 新しいカバーが掛けられた蒲団に入り、雨の音を耳にしながら間もなく深い眠りに就いた。

相模湾に沿った湘南の地を歩きながら一度は住んで見たいと思った

5日(3日目) 日 晴れ 21度 藤沢宿 平塚宿 大磯宿 
                 つるや旅館(5,250円) 
24,6粁(65,8粁)
 昨夜は直ぐ寝付いたが、夜中暑くて寝付かれず、クーラーは24度を指していたので、20度にセットし直したのが失敗のもと、普段クーラーを使うことがないので、後で考えると10度程度に設定すべきだったと後悔したが、朝方までまどろんだ状態でベッドを出る。左足裏の状態は何とか成りそうだが、念の為、両足裏にテーピングする。
 朝食に際、窓越しに橋が目に入ったので、隣の人に藤沢に出る道を聞くと、
「この橋を渡り、道なりに右に曲がり戸塚方面に真っ直ぐ1粁ほど進むと、大きな道路に出る。そこを左に曲がり、二つ目の交差点が国道1号線で、左に曲がると藤沢に出る」
 お礼を述べて食堂を出る。部屋に戻り荷物を背にホテルを出たのは7時35分だった。
 ホテルの横から高架橋をわたり、言われた通りの道を戸塚方面に逆戻りする。左手に川が、右手に日立の情報処理工場を見ながら進むが、随分大きな工場だ。前方に車が走っている道に出たので左に曲がり、二つ目の信号が国道1号線だった。緩やかな坂道を登ると、戸塚宿の上方見付があったのでカメラに収める。この坂を登り切ったところに、人形浄瑠璃や歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に登場する、お軽勘平道行戸塚山中の場に出るが、真偽の程は別にしても数百年演じられた名場面だ。今はマンションが立ち並び、山中とは程遠い環境になっていた。
藤沢宿(遠くに遊行寺が見える) 

 9時10分、藤沢市に入る。僅かな松並木を見ながら切り通しの坂を下る途中に、一遍上人を宗祖とする時宗の総本山遊行寺が右手に見えたので境内に入ると、丁度骨董市が開かれていた。月に二度開かれるそうだが、見た目にはガラクタから本物っぽい物まで雑然と並べられ、客と商談している人もいた。「値段はどのように決まるのか」との問いに、「それなりの相場があるので、決まるところに決まるものだ」と訳が判らない話しをしていたが、見る人が見るとそれなりの評価が出るのだろう。
 一遍上人は伊予の人で鎌倉時代に、寺を持たず踊念仏を唱えて全国を行脚した聖(ひじり)で、庶民に愛された僧侶の一人だ。境内の大イチョウは幹回り7米と、鎌倉の鶴岡八幡宮に匹敵する威容を見せていた。
 藤沢橋を渡り右折して弓なりの道を進む。観光客も目に入る。交番で義経の首洗い井戸の場所を聞いたところ、偶然にも交番の裏が井戸のある場所だった。平泉で義経藤原泰衡の軍勢に殺された後、首を鎌倉に運び、腰越で首実験を終えて放置されたのが、藤沢の浜辺に流れ着いたのを地元の人に拾われ、この井戸で首を洗ったと言い伝えられた。真偽は別にしても、栄枯盛衰世の習いとは言うものの、ものの哀れを感じないわけにはいかない。
 前方の丘の上に白い展望台のような塔が見えて来たので、通り掛った人に尋ねると、「ごみ焼却場の煙突」とのこと、それにしても高台に焼却場を設けるなど、環境に配慮した湘南の地と感心した。
 坂を登ると、メルシャンのワイン醸造所が見え、大きなタンクが並んで、可なり大きな工場だった。
 向うからリュックを背負い、首にカメラを下げた中年の人と会ったので、「東海道を歩いているのですか、今日で何日目ですか」と聞くと、
「京都を出て22日目で8日には日本橋に着く予定だ、このカメラで風景等写しながらの旅なのでゆっくりペースで歩いている」とのこと、お互いの無事を祈って左右に別れたが、初めて、東海道を歩いている人に出会った。本当に少ないものだ。四国の経験から考えると、年間何千人の人がこの街道を往来しているものとばかり思っていたが。
東海道で初めて目にした松並木らしい松並木 

 間もなく国道1号線と合流する。11時15分、茅ヶ崎に入り前方に松並木が目に入ってきた。茅ヶ崎高校付近の黒松の並木で、東海道らしく趣があった。古いのは400年とかで、幹周りは2米ほどあり、道の両側に100米ほど植えられていた。この付近は裕福な家が目に付き、門構えから庭木に至るまで、手の掛った造りが家屋との調和を見せていた。湘南族の住む家か。
 12時、SATYに着き中に入ると、人々で溢れかえっていた。ご飯物の食堂を探したが無いので、ラーメン屋に入り、塩ラーメンの食券を買うと暫く待たされる。リュックを背負っているので、家族用のテーブルの椅子に荷物を降ろすと、子供たちは珍しそうに見ていた。こちらで食べたラーメンとして味は先ず先ずだった。SATYを出た先の交差点に、茅ヶ崎一里塚があった。
 間もなく相模川に架かる馬入橋は、かって源頼朝が妻政子の弟が馬入橋の修復完成したのに駆けつけた際、馬から転落し間もなく死亡したと伝えられ、それが名前となった因縁の川で、それらの故事を思い出しながら渡るが、この広い川幅に橋を架けるのは当時としては大変な仕事だったに違いない。10分ほどでこの橋を渡ると平塚宿は直ぐだ。
 平塚市に入って国道と旧街道の交差点付近の公衆電話で、電話帳から大磯の、つるや旅館に電話し、夕食抜き5千円で予約する。大磯にはビジネスホテルはあるが、旅館は2軒しかなく、1軒の宿は休業していた。
平塚宿(高麗山から富士を望む) 

花水橋から高麗山越しの富士山は夕暮れ時で見えなかった

 市内に入り本陣跡を探してカメラに収めて先を進むと、国道1号線に合流し、広重が平塚宿を画いた、高麗山が見えてきたので、花水橋からカメラに収める。広重が描いた場所を探すのも大変で、浮世絵は特に誇張して画いているので、同じ視点で写真に撮るのは難しい。橋を渡ると大磯だ。
 大磯の町に差し掛かると、旧街道祭りの幟は道の両側の商店街に所狭しと、はためいていた。宿は学校の傍を通った先にあった。4時前見かけは普通の家に似た感じの宿に着いた。二階の部屋に通されて、先ずは荷物をリュックから取り出し、風呂に入ったが今夜は貸切のようだ。
 箱根旅館組合に明日の宿を頼むと、廉い宿でも1万5千円前後とのこと、春光荘旅館を紹介してくれたので電話で春光荘を予約した。
 女将さんが洗うものが有るなら一緒に洗濯するので洗濯機に入れて欲しい、と願っても無い話で下着を取り替え、序に町の食堂の名前を聞いて宿を出ると、真ん丸い月が煌煌と光り輝いていたが、北海道も同じ月が見れたかなと感慨に耽る。
 店は何処も昼間の祭りの仕事を終え休業状態だったので、止む無くJR大磯駅に向かう坂を登って行ったが、駅前に商店街は無く、ひっそりとしていたので再び坂を下り、食堂を探すのを諦め、コンビニで缶ビールとつまみに握り飯2個を買って宿に帰る。
 女将さんに、「食堂は何処も休みで、止む無くコンビニの物で済ませる」と言うと、「ご免なさい、休みとは思わなかった」と済まなそうに話していた。
 部屋に戻り一人寂しくコンビニで買った缶ビールで喉を潤し、握り飯の包装は上手く剥れたが、良く見ると上手く考えたものだと感心しながら食べた。昨日のホテル代と焼肉の払いは上手い具合に調整されたと一人苦笑い。
 そこへ、横浜のT氏から電話が入り、その後の様子を聞いてきたので、今のところ順調で、今夜は大磯に泊って、明日は愈々箱根に向かうが、日本橋から今日まで東海道の家並みは途切れることもと無く、延々と続いている事を伝えると彼も驚いていた。今後の旅の無事を祈っているとのこと。
 川崎のK君に電話すると、O君の病状は思わしくないと話していた。
 机に向かい今日一日の出来事を記すが、色々と有るものだ。これが旅の喜びでもあるが。左足裏のマメは何とか治りそうだ。
 掛け蒲団の下に毛布があったので毛布を取り、蒲団に入ったのは10時を過ぎていた。先だって腕時計を目覚ましセットにして、手首に付けたまま寝たので音に気が付かなかったと思い、腕時計をセットした後、枕元に置いて寝る。明日は箱根に差し掛かる。

横浜駅周辺は、むかし海だったとは・・・

4日(2日目) 土 曇り時々晴れ 21度 神奈川宿 保土ヶ谷宿 戸塚宿 
戸塚アーバンルーフ・ホテル(8,550円)     23,6粁(41,2粁)
 川崎宿(六郷川を渡り切るところで富士山が描かれた)

 6時半、時計の目覚ましをセットした積りが作動せずに目覚めたので荷物を整理し直して、足の裏にテーピングしてロビーに下りて、朝食サービスを食べてからホテルを出たのは7時40分だった。昨夜気付かなかったが、旧東海道に面して、なまこ壁の砂子会館があったので、街道の歩道を西に向けて歩く。
 川崎と横浜との境界の鶴見橋を渡ったところで、前回二度目の四国遍路で初日同宿した、鶴見区在住のT氏に、その写真集のCDを贈呈するので電話したところ、この場所で待ち合わせることにした。程なく自転車に乗って彼が来た。2年ぶりの再会だ。早速彼に(奥の細道車行脚。春、秋の「四国八十八ヶ所歩き遍路」630枚と旅日記A4で200枚入)のCDを渡すと喜んで受け取ってくれた。彼の案内で旧道を共に歩き、四国当時の話や、その後の話をしながら歩くうち、道の両側に多くの 魚屋があるので彼に聞くと、かってこの付近の前浜で昔から漁師が魚を取っていた名残で、今もこの様に市場があるとのこと。良く見ると見たこともない魚も結構あったが活きは良かった。                  
 国道1号線の合流点近くに、生麦事件の碑があった。幕末、薩摩藩島津久光の行列に、英国人が馬で横切ったところを、藩士が切り掛かり、リチャドソンを殺害し、女性を含む数名に怪我を負わせる事件が発生し、賠償を巡って、後に薩英戦争にまで発展した事件の現場だった。ここで彼と別れるにあたり写真を撮り後で送る事を約して、再び一人国道の喧騒のなかを歩く。
 新子安付近は高層マンションが多く目に入り、横浜駅が近いことが判る。横浜駅周辺は立体交差の道路と新しいビルが多く全く見当が付かないので、近くの人に道を尋ねて、漸く目標の青木橋に着いた。右手に相模鉄道東神奈川駅
現在の本覚寺は広重ならずとも現代人も驚く

 目の前に鉄筋コンクリートの土台の上に、開国当時米国領事館があった本覚寺が半分ほど空間に乗っていたのには驚く。
神奈川宿(台町の坂を旅人達が登る)

台町の坂の両側はマンションが、左側の海は埋め立てられて横浜駅

 青木橋を渡り、寺の脇を通り東海道五十三次の浮世絵師安藤広重が描いた、「神奈川」の坂が見えて来たが、今や台町の地名でマンションが両側に立ち並び、かって傍に海があった等想像出来ない情景に様変わりしていた。坂の上には幕末から明治維新に掛けて、外人の治安維持のための関所跡があった。
 坂を下ると旧道の道端に、所々旧東海道の標識が埋め込まれてあり、道に迷うことがない。浅間神社の下を通ると、間もなく保土ヶ谷宿の帷子(かたびら)橋に着く、といっても、かってここに橋があったというだけのもので、この付近は商店街が有り、その先の天王町駅の下を通ると昔の追分の標識等があり、右に曲がると昔の絹街道の八王子に向かう。
 その追分に接待の番所が有ると聞き、訪れると二人のお婆ちゃんが居て、駄菓子とお茶の接待に預かる。喉が渇いたのでお茶を追加すると三杯も出してくれた。何処からとの問いに、「日本橋から」と言うと、「日本橋から歩いて来たの、東京の人?」「北海道」と言うと、なおの事驚いて、又新しいお茶を注いでくれた。荷物を背にして、二人の写真を撮った際、四国同様歳を聞かれたので、免許証のコピーを見せると、年長のおばちゃんが、「私と同じ74歳だ、私は1粁も歩けない、気を付けて」の声を背に歩くと直ぐ先に、保土ヶ谷本陣が有り、今も軽部姓を名乗り生活しているが、建物は大分傷んでいた。
保土ヶ谷宿(この付近に新町橋もどきの橋が小公園にあった)

 道は緩やかな登りとなり、初めての一里塚が目に入った。1604年幕府が東海道を整備するに伴い、一里(約4粁)毎に土塁の上に榎(えのき)を植えて、旅人の目安にしたが、近年に至り都市化が進んだ結果多くが破壊されてしまい、開道以来の一里塚に植えた木で、残っているのは数えるのみとなり、殆どはその後植え替えたもので、この木も植え替えられたものだ。
 上を見ると丘の上に大きなマンションが立ち並んでいた。この坂は正月の大学箱根駅伝のコースになって、往路で多くの選手を悩ませる権太坂だ。 
 保土ヶ谷2丁目の交差点の左側に、名前は聞いたことがある、「尾道ラーメン」の看板を見たので、昼を過ぎているので立ち寄る。味噌ラーメンを食べたが妙に脂が強くて感心しなかった。
 傍の横断歩道を渡り、旧東海道権太坂は国道とは違い狭くて急な登りで、高台からの海の眺めはマンションに遮られて余り見えなかった。境木地蔵から旧街道を通り一里塚を写す。
 1号線に出るのに道を間違えたが、少しのロスで済み、跨線橋を渡り、住宅街を暫く進み1号線に出ると、ブリッヂストンやポーラ化粧品に小糸製作所の工場が右手に目に入ってきた。
戸塚宿(モチの木は戸塚宿の象徴だ) 

 間もなく左手に大きな木が見えてきた。この木は益田家の所有するモチの木(実は鳥もちの材料)で、古来から大名行列や多くの旅人の目に触れてきたもので、横浜市文化財に指定されていた。写真を撮ろうと中に入ると家は昔ながらの茅葺だった。これにも驚いた。
 戸塚周辺はビルが立ち並び、地下道を通り駅付近に出て、今夜の宿を探したが、この付近には宿屋やホテルがないとのこと、これには参った。今更戻る訳にも行かず、この先の茅ヶ崎は遠すぎるし、困っていたところにガソリンスタンドが有ったので近くの宿を聞くと、「1粁以上先だが、柏尾温泉のあるアーバンルーフ・ホテルしかない」その声を頼りに先へ進むと、右手に日立の大きな工場があって、その先に漸く戸塚アーバンルーフ・ホテルの建物が見えてきた。
 4時50分、ホテルのフロントで部屋を聞くとシングルは有るとのこと、料金8,550円(朝食のみ)は高いと思ったものの、今更外に宿もないので渋々払い部屋に入る。浴衣に着替え洗濯物を持って裏の洗濯機に入れようとしたが要領が判らず、フロントの女性に来てもらい何とか回してもらった。温泉に入って二日の旅の疲れを癒す。洗濯機を見ると既に洗濯は終っていたので、乾燥機に入れて部屋に戻る。
 夕食は向いの焼肉屋で食べるが、下着は全部洗濯してしまったので、止む無くズボンとウインドブレーカーを身体の上に直接着込んで、早速出かける。
 先ずビールを注文し、何時もの焼肉3点を頼む。久しぶりの焼肉と張り切って食べたが、味は今一つ冴えなかった。若布スープとキムチでご飯を食べ、腹が一杯になったので精算すると5千円札にお釣は200円程だった。今日はホテルと夕食で高いものに付いたので明日は安く上がる事を祈る。乾燥機から洗濯物を取り出して部屋に戻る。
 昨日の分も合わせて二日分の日記を書いたが、随分時間が掛かり、その間、我が家に電話すると、「野幌公民館に展示された私のパステル画が奨励賞を受け、道新に名前が出たので、裏のTさんと一緒に見に行った」とカミさんの嬉しそうな声が届いた。
 又二人の娘と孫から次々とメールが届いたが、携帯でメールの出し方は娘に教わったが、いざ出すとなると中々通じなかったので、電話することに成った。Tさんにもお礼の電話と近況報告をする。
 左足の裏にマメが出来たので、四国の時同様、針先をマッチで消毒した後、マメに穴を開け徹底的に水分を搾り出した後、バンを貼ったが、新しく買った靴を200粁も履き慣らし、テーピングしてもこの有様だ。
 その後書き残した日記を終えたのは10時近かった。明日は大磯泊りだ。

快晴無風絶好の旅発ち日和で、娘夫婦に送られて京都を目ざす

11月3日(1日目) 金 快晴 21度 北浦和 日本橋武蔵国) 品川宿 川崎宿相模国)             
東横イン(4,095円) 
17,7粁(17,7粁)
 さいたま市の長女宅で朝ご飯を済ませ、念の為両足の裏にテーピングして、皆と写真を撮った後、当初一家4人で日本橋まで見送る予定だったが、下の真が昨日から熱を出したので、玄関で二人の孫の見送りを受けガッツポーズで、「頑張るぞ」と声を掛けると二人も、「頑張って」の声を背に玄関を出て、娘夫婦の車に乗り込む。朝の混雑を予想して中仙道を避けて東京日本橋に向かったが、初めは何処を通っているのかさっぱり判らなかった。
 途中から中山道を通って文京区に入ると見慣れた建物の中に、東京ドーム周辺が目に入り都心に近付いていることが判った。間もなく日本橋が見えて来たので近くに駐車して、日本橋に着いたのは8時55分だった。


広重が描いた頃の日本橋の朝風景


今朝の高速道路下の日本橋には広重もビックリすること請け合い


 今日3日は天気の特異日とかで、まさに快晴無風、旅発ちには絶好の日和で、橋の歩道脇にはホームレスが一人陽を浴びて寝転んでいた。先ず日本道路原標や里程標の標識等と、周辺の建物を写した後、「日本橋」の銘が入った柱を背に、お互いに記念写真を撮り合う。
 9時、娘夫婦に見送られて、約6キロの荷物を背負い、出来るだけ旧東海道を通って京都三条大橋を目指して国道15号線に歩みを進める。信号を渡ったところで後ろを振り向くと娘夫婦が手を振っているのに応える。
 45年前兜町にあった東京営業所に勤務していた頃、良く立ち寄った高島屋は変わらぬ姿を見せていたが、白木屋(その後東急)はビルに変貌し、丸善本社ビルも建て替えられていた。通り三丁目を過ぎ京橋に入ると、明治製菓明治屋の昔変わらぬ建物が目に入ってきた。
 初めは交差点で止まることが多いと予想していたが、思ったより順調に信号が気に成らないほど、上手い具合に進むことが出来たのは予想外だった。また休日とあって車が少ないので、狭い通路の信号で車が見えない時は無視して通る。
 銀座三越を過ぎて、手帳を忘れたこと気が付いたので、娘にその事を伝えた際、日本橋で携帯で撮った写真を札幌の次女に送ったと話していたが、便利に成ったものだ。
 今回東海道の旅は出来るだけ江戸時代以降の面影を残すものは、カメラに収めることにしているので新橋のコンクリート造りだが擬宝珠を先ずカメラに撮る。
 田町に入ると、江戸南の大木戸と西郷隆盛勝海舟との間で決まった江戸城明け渡しの場所の標識を写す。
 東京在住の遍路仲間のK氏から、以前品川駅で見送りたいと伝えて来たので、電話で、「11時頃品川で会いましょう」と伝える。
 時折東京タワーが顔を覗かせるが、ビルの上から先頭部分が見えるだけで、中々シャッターチャンスに恵まれなかったが、芝大門の交差点から初めて全貌が見えたので、紺碧の空を背景に赤く塗られた東京タワーを写したが、この付近に来ると、さすが車の多さが目に付いた。
 今まで用を足そうとしても休日でビルは何処も入れなかったが、この辺に来ると、休日にも拘らず営業しているビルがあったので、中に用事がある振りをして用を足し、外に出ると高輪泉岳寺の標識があったので右折して泉岳寺に向かう。
 

高輪泉岳寺では四十七士の墓前に線香の香りが漂っていた

 

 境内の人は少なかったが、線香の臭いが何処からともなく漂ってきた。赤穂四十七士の墓を一巡した後、大石蔵之助の墓に手を合わせて門を出る。
 11時、品川駅前は多くの人で溢れかえっていた。さすが東京だ。横断歩道を渡り向い側の人の群れの中にK氏が居た。彼とは初めての四国八十八ヶ所歩き遍路の際、45番岩屋寺に向かう槙の谷の登り口で、上から降りてきた逆打ちの彼と出会って以来だが、その後メールによる付き合いは続いていたので、今回東海道五十三次の旅に出ることを伝えると、「是非、品川で会いたい」との話で、6年ぶりの再会だった。「白い恋人」の土産を渡すと恐縮していた。
 彼は先月四国遍路の区切り打ちに出かけたが、初日に足を痛めて断念せざるを得ないことになった由。私の元気の様子を見て、又出かける気が起きた模様だ。四国遍路の話になると、お互い話は尽きることがなく1時間は直ぐ経ってしまった。コーヒー代も彼が払い、お接待としてコンビニのカードを頂く。感謝。
 品川の橋の袂で彼と別れ、京浜急行の線路に沿った旧東海道に入ると道幅は狭く、車の交差も大変のようだが、車が少ないので道の真ん中を歩く。両側の商店街は休日にも拘らず店を出していた。右手に品川宿の暖簾を出している案内所で品川宿の商店街の地図を貰い、暫く進むと小さな公園が品川宿跡で、看板の後ろに公衆トイレがあった。
 1時を過ぎていたので、手頃な食堂に入り、炒飯を注文すると直ぐ出てきたのには驚いた。客も居ないので暇つぶしにでも作っていたのか、それにしても早かった。スープを飲んでから店を出たが、この街道は一本道で迷うことがないのは良かった。
 

多くの罪人の血が流れた鈴ヶ森刑場跡

 
 
 間もなく涙橋に着く。この橋は昔から鈴ヶ森刑場手前にあり、ここで処刑される人との今生の別れの場所で、この名前が付いたと書かれてあった。橋を渡ると刑場跡があり、徳川幕府転覆を企てた由比正雪の乱で磔の刑になった丸橋忠弥や、火付けの刑で焼殺された八百屋お七の処刑台が今も残っている。その脇にはこれらの人を弔う寺があった。
 ここで第一京浜と合流するが、途端にトラックの流れに驚かされる。この先六郷橋まではこの道を通ることになるので先が案じられる。幸い休日とあって心なしか車の流れが良いので、初めは排気ガスはそれ程気には成らなかったが、歩くうち咽喉の奥がいがらっぽくなるような感じがしてくる。この両側に人は良く住んでいるものと、感心するどころか可哀そうな気がしてきた。我が家のような環境の良い空気の澄んだところで生活している者は幸せなものだと実感した。
 途中梅屋敷の公園の脇に弓道場があって、袴を着て熱心に弓を射っている姿を見て、子供の頃、親父の供をして良く弓場に行ったことが懐かしく思い出された。
 蒲田周辺では立体交差の工事や駅の拡幅工事が行われ、分厚い鉄骨が組み立てられていた。かって鉄の仕事に携わっていた関係上、このような大きな工事には直ぐ目が行ってしまうから不思議だ。
 間もなく多摩川の堤防に差し掛かり、六郷橋を渡ると、広い河川敷では多くの人たちが、野球やサッカー等に興じている姿が目に入る。遠く河口を見ると大きな煙突から煙が真上を指していた。 
 川崎側の河川敷ではホームレスの住む掘っ立て小屋が散見されたが、彼らは固定資産税を払っていないのではないかと、変な勘繰りをしているうち橋を渡りきり、時計を見ると3時を指していた。
 品川でK氏が、「出来れば川崎大師に行っては」との話を思い出し、近くの人に場所を尋ねると、「ここから約2キロはある」との答えに、往復4キロは厳しいので諦める。
 級友のK君に、「今六郷橋を渡ったところだ」と伝えると、「黙って川崎を通るとは何事だ、今夜何処に泊るのか」との問いに、「ビジネスホテルの積りだ」と答えると、「東横インは安くて良い」とのこと。
 川崎駅前の東横インは生憎満杯で、近くの東横イン砂子を紹介して貰い3時半チェックインする。K君に5時川崎市役所前で会うことにして、一先ず荷物を解いて、風呂に入り今日の疲れを癒す。今のところ足の痛みは無い。
 暮れなずむ5時、川崎市役所前で彼と合流し、近くの居酒屋で、9月の級会以来2ヶ月ぶりの再会を果たす。先ずビールで乾杯しお互いの健康を祝す。目下入院中のO君の病状を聞くと、「心臓の血管が問題で、手術をするかどうかは未だ決まってないが、多分無理だろう」とのことだった。ビールを呑んだ後、酒を注文する際、彼は、「国士無双は北海道の酒で美味い」と聞いて頼んだが、北海道の酒とは思わなかった。良く覚えているものだと感心した。
 来年の級会は函館で開催するので、来て欲しいと頼むと、了解してくれた。彼は級会には、昨年体調がすぐれず欠席したが、その外は必ず来てくれた。彼も久しぶりに気の置けない仲間と呑んだせいか、酒も捗ったようだ。終って割り勘は受け付けず彼の接待に預かった。
 居酒屋を出て東横インまで送ってくれ、ロビーの自販機から缶ビールを持って来てくれたので別れの時間を過ごし、無事を祈って彼は帰っていった。
 部屋に戻り、スケジュールを調べた後、歯を磨く。日記を書く積りでノートを出したものの、3行ほど書いた状態で眠気を催したのでノートを閉じ、明日書くことにして蒲団に潜り込んだ。